2011年04月03日
土塔:行基ネットワークのセンター
堺市土塔町の「土塔」が復元されました。
もとは下の写真のようなただの土盛りだったのですが、
正体が何かを知っている(その頃堺市民だった)私の強烈な想像力を刺激してくれていました。
ですから塔が復元されると聞いて、わずかに落胆したのですが、
完成された土塔を見学すると、
むしろ制作者行基(ぎょうき)とその信奉者の熱情を感じさせる優れた造形になったように感じます。

上の写真は堺市ホームページから借用しました
堺観光ガイドには土塔に関するもう少し詳しい説明が書かれてあります。
仏教信者集団と土木技術者、医術者などを率い、
昆陽池を掘り、狭山池の改修にあたるなど各地に溜池を築造し、
淀川や木津川に橋を架け、
大輪田の泊など港を修築し、
たくさんの寺を開き、
山中、草津などの温泉をさぐり、
社会福祉事業を行った、
などなど数々の伝承を持つ行基は、
律令政府によって禁じられた民間布教を貫いた反逆者ですが、
大仏建立の困難に直面した聖武天皇がついに折れて、
彼(とその集団)を公認して大仏建立を担わせたエピソードは有名です。
仏陀の教えが衆生を苦しみから救うことにあったのなら、
行基こそが、奈良時代になって初めて現れた、
日本列島における仏陀の夢の後継者と言えましょう。
どれだけの田に灌漑の水が行き渡り、
どれだけの庶民の病が癒されたかと想像すると、
仏教を鎮護国家の道具としてしか考えられず、
政争に明け暮れた寺社や皇族、貴族階層の所業を思う時、
彼らの業績は奈良時代の世に光り輝いています。
行基の真の目的がどこにあったか、
それをさぐろうなどとせず、
仏陀の理想をこの日本列島に具現しようとした真の仏教徒であったと、
今は考えておきたいと思います。
東日本大震災に立ち向かう寺院や僧侶の動きが甚だ鈍いように見える、
今日の日本の仏教界と比較してそう思います。
寺院の講堂の内いくつが避難所になっていますか。
広大な敷地に仮設住宅が建つ計画はありますか。
泥に汚れた遺体の内何体が、僧侶の手で拭われましたか。
実際は、記録に現れない民間の仏教徒や私度僧は、行基以前にもいたと思われます。
その大部分は、渡来人やその子孫たちだったでしょう。
朝鮮半島や中国では、もっとずっと前から仏教はポピュラーな信仰だったからです。
その行基自身、
百済系とも新羅系ともいいますが、おそらくは渡来人の子孫で、
現在の堺市西区の家原寺が建つ場所が生家といいます。
彼は僧として、
西文(かはちのあや)氏、土師(はじ)氏など仏教信仰の篤い渡来系の技術と財力を兼ね備えた大集団を率い、
社会事業を行っていたのでしょう。
つまりはチーム行基による行基プロジェクトの実行です。
古墳造営が行われなくなったその頃、
土師氏などが保持していた高度な土木技術が再び生かされることになり、
彼ら技術者の張り合いはひとしおだったことでしょう。
私がかつて住んでいた堺市の三国ヶ丘駅近辺には、
今も10km離れた狭山池からの水路が通じている、と、
近所のお百姓さんからうかがいました。
草津の湯は湯治客で溢れ、
家原(えばら)寺には今日も参詣客が絶えません。
チーム行基が成し遂げたものは、
彼の死後1360年余経過した今日でもまだ、
全国各地で生命を保っています。
この土塔の瓦には、
行基が率いた、あるいは行基に私淑し寄進した人々の名が刻まれていました。
土塔は
プロジェクトの宗教的精神的全国ネットワークのセンターだったのではないでしょうか。
土塔は公園内にあります。
少し小高い丘陵地に建っていることを確認してください。
入場無料ですが、駐車場がありません。
泉北高速鉄道深井駅から徒歩15〜6分かかります。
なお、すぐ北西には土師(はぜ)町があり、
すぐ南には古墳時代の須恵器の大生産地があります。
もちろん、百舌鳥古墳群も遠くではありません。
Posted by gadogadojp at 14:30│Comments(0)
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