2010年09月19日
丹生都比賣神社:あなたは何者か、稚日女命
復活した太鼓橋を渡るgadogado
ここ丹生都比賣(比売)神社(にゅうつひめじんじゃ)は、世界遺産に指定されるまでは広く知られた神社でなかったと思う。
この神社を知る人は(もちろん地元の方、信者や歴史愛好家、専門知識のある人を除いてであるが)
高野山の鎮守神丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)の社殿として、
またはその子高野御子大神(たかのみこのおおかみ)が黒と白の犬を連れた狩人に化身して、高野山(こうやさん)へと空海を案内したというエピソードを知って、
あるいは、夢枕獏の小説、岡野玲子作画の「陰陽師」に登場する神社として、
関心を惹いたことが多かったのではないか。
当初の橋は、当然朱(丹砂)で赤く塗られていたはずだ:後述
「陰陽師」では、この神社に伝わる「丹生大明神告門(にうだいみょうじんのっと=祝詞)」を、『本気で詠んだら天変地異も起こしかねん代物だぜ』と安倍晴明に言わせている。事実、その内容は凄まじい。一部を引用すると、
『皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。』
また、この「祝詞」では、丹生都比賣は天照大神の妹神であるとされていて、祝詞の内容にふさわしい超大物の神であることがわかる。
ところが困ったことに、この神は記紀にいっさい記載されていないのだ。
祝詞自体が伝承の創作であった可能性もあるにはあるが、わたしの直感は、記紀の編者または天皇家によって故意に記紀から除外されたのだと告げている。
右端に辛うじて写っているのが第一殿の丹生都比売大神の社。左に向かって、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神が祭祀されている
岡野玲子が前掲書のあとがきに書いているが、ここは日本列島中央構造線の真上に位置していて、400m以上の落差をもって北側に落ち込んだ谷間には紀ノ川が流れている。この社地は西南に向かって広がる原(高野天野原たかのあまのはら)の奥にあるから紀ノ川を見ることはできないが、この地がかつての大断層活動の結果盛り上がった山地であることを思えば、前掲の祝詞にも神の意図が隠されているような戦慄をおぼえる。
そのような神懸かりな場所には、同様に神秘的な伝承が伝わる。
境内の鏡池には、人魚の肉を食べて永遠の命を得てしまった八百比丘尼(白比丘尼)が、自らの死を願って稚日女命(わかひるめのみこと)=丹生都比売の別名=の鏡を投げ入れたという伝説がある。
漫画「陰陽師」におけるもっとも美しい場面の一つが、この神社を舞台にこの伝承を描いたシーンである。
安倍晴明と源博雅のパワーによってようやく死を迎えることができた白比丘尼の姿が涙をそそる。
その比丘尼最期の場所はおそらく下の写真の社殿前の広場か。(写真は春に撮影したもの)
さらにこの丹生都比売は、高野山に大聖地を作り上げた空海にとっては最も重要な神であった。
仏教の聖地高野山においては、今もこの女神を祭祀する儀式が続けられているそうだ。
高野山に金剛峰寺を開山するに当たり、空海は、この女神の認可を受ける必要があったのだろう。
社殿の向きを真反対にたどると高野山の堂塔群があることは決して偶然ではないと思われる。
紀ノ川から天野に上る険しい道から見下ろした
高野山への表参道は、紀ノ川左岸の九度山町慈尊院(空海の母が居した)から高野山根本大塔までの22㌔の道のり。
はじめは雨引山続きの尾根伝いに南に進むが、その途中、右手下に丹生都比売神社の社殿を見下ろす場所に出る。
高野山への参拝者は、もちろん空海も、ここに立つ二つ鳥居から遥拝し、高野へと進んだのだという。
この道はのちに町石道(ちょういしみち)と呼ばれるようになり、世界遺産に登録された。
神社はその後神仏習合へと進むが、明治初期の廃仏毀釈によって寺院的なものは失われた。
ただ、石作りの仏塔などが少々残存していて、その先の得体の知れない気を感じる沢には立ち入りできない。
さて、ここまで述べてきただけで、この神社の異様に重要な立ち位置がほの見えてきたかと思うが、
実はわたしの脳内を混沌とさせる謎はまだほとんど書いていない。
丹生都比賣こと稚日女命(わかひるめのみこと)の正体をさぐろうとすると、数々の関連事項が発生してしまい、総体として考えないと先に進めないからだ。
しかもそれらはすべてわたしの年来の関心事と重なり合うから厄介だ。
まるでこの神社とこの神は、わたしの臍のようだ。
ここではこれ以上まとまった文を書く力量がわたしにはないから、
わたしの備忘録として、
関心ごとと謎の片鱗だけを紹介しておきたいと思う。
*丹生とは丹(に)が生じるところ。
*丹とは丹砂、すなわち朱の原料。
*そして水銀(みずがね)の原料。
*水銀は鏡の研磨剤。
*神社の池に鏡が多数投げ込まれていたのが発見された。
*朱や水銀は防腐剤、転じて?不老不死の妙薬。
*八百(白)比丘尼の伝説との関連。
*その比丘尼は若狭の生まれ。
*主祭神の一柱は大食都比売大神 (おおげつひめのおおかみ)すなわち若狭の気比明神だ。
*若狭の遠敷(おにゅう=お丹生?)はお水送りの地。「龍の道」の重要ポイント。
*全国の丹生神社はまた水の神でもある。龍だ。
*この神社は全国の丹生神社の総本山というが、丹生都比賣を主祭神とするところは僅少。
*なぜ丹生都比賣は記紀から削除されたか。
*丹生都比賣が(祝詞によると)各地に足跡を残しているのはなぜ。
*朱や水銀の神よりも開拓神の色彩の強い神社が多いのはなぜ。
*丹生都比賣は海(あま)の神とも思える(稚日女=日の出の太陽?永遠の太陽?)が、山の神と思える地に丹生神社が多いのはなぜ。
*姉の天照大神と違って、丹砂を堀り、狩りをする山の民の神なのか。
*神武東征との関わりは?(名草、五瀬命との関連)
*白山比咩(しらやまひめ)との関連は?白山神社は天台宗の僧により広められたが。
*エトセトラ
天野原の風景
神社遠望
この論及には、丹生都比賣神社のHPをおおいに参考にさせていただきました。
感謝いたしております。
丹生明神告門(にうみょうじんのっと)
懸幕(かけまく)も恐(かしこ)き皇大御神(すめおおみかみ)を
歳(とし)の中に月を撰び、月の中に日を撰び定めて
霜月の秋の御門(みかど)、仕えまつりて申さく。
高天原(たかまがはら)に神(かん)積(つま)ります、
天(あめ)の石倉押し放ち、天(あま)の石門(いわと)を忍(お)し開き給ひ、
天の八重曇を伊豆の道別(ちわ)きに道別(ちわ)き給ひて、
豊葦原(とよあしはら)の美豆穂(みづほ)の国に美豆(みづ)け給ふとして、
国郡(くにごおり)は佐波(さわ)にあれども、
紀伊国(きいのくに)伊都郡(いとのこほり)庵田村(あんだむら)の石口(いわくち)に天降(あまも)りまして、
大御名(おおみな)を申さば恐(かし)こし、
申さずば恐(かし)こき伊佐奈支(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)の御子、
天(あま)の御蔭(みかげ)、日の御蔭(みかげ)、丹生都比賣(にうつひめ) の大御神と大御名(おおんな)を顕はし給ひて、
丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)に上り坐(まし)て国かかし給ひ、
下り坐(まし)て十市(といち)の郡(こおり)、丹生に忌杖(いみづえ)刺し給ひ、
下り坐(まし)て巨勢(こせ)の丹生に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て宇知郡(うちのこほり)の布々木(ふふき)の丹生に忌杖刺し給ひ、
上り坐(まし)て伊勢津美(いせつみ)に太坐(おおまし)、
下り坐(まし)て巨佐布(こさふ)の所に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て小都知(おづち)の峯(みね)に太坐(おおまし)、
上り坐(まし)て天野原(あめののはら)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て長谷原(はせののはら)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て神野麻国(こうののまくに)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て安梨諦(ありだ)の夏瀬の丹生に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て日高郡(ひだかのこほり)、江川の丹生に忌杖刺し給ひ、
返り坐(まし)て那賀郡、赤穂山の布気(ふけ)といふ所に太坐(おおまし)て
遷(うつ)り幸(いでま)して名手村(なてのむら)、丹生の屋(や)の所に 夜殿(よとの)太坐、
遷(うつ)り幸(いでま)して伊都郡(いとのこほり)、佐夜久(さやひさ)の宮に太坐。
則ち天野原(あめののはら)に上り坐(まし)、
皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。
懸幕(かけまく)も恐(かしこ)き皇大御神(すめおおみかみ)を
歳(とし)の中に月を撰び、月の中に日を撰び定めて
霜月の秋の御門(みかど)、仕えまつりて申さく。
高天原(たかまがはら)に神(かん)積(つま)ります、
天(あめ)の石倉押し放ち、天(あま)の石門(いわと)を忍(お)し開き給ひ、
天の八重曇を伊豆の道別(ちわ)きに道別(ちわ)き給ひて、
豊葦原(とよあしはら)の美豆穂(みづほ)の国に美豆(みづ)け給ふとして、
国郡(くにごおり)は佐波(さわ)にあれども、
紀伊国(きいのくに)伊都郡(いとのこほり)庵田村(あんだむら)の石口(いわくち)に天降(あまも)りまして、
大御名(おおみな)を申さば恐(かし)こし、
申さずば恐(かし)こき伊佐奈支(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)の御子、
天(あま)の御蔭(みかげ)、日の御蔭(みかげ)、丹生都比賣(にうつひめ) の大御神と大御名(おおんな)を顕はし給ひて、
丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)に上り坐(まし)て国かかし給ひ、
下り坐(まし)て十市(といち)の郡(こおり)、丹生に忌杖(いみづえ)刺し給ひ、
下り坐(まし)て巨勢(こせ)の丹生に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て宇知郡(うちのこほり)の布々木(ふふき)の丹生に忌杖刺し給ひ、
上り坐(まし)て伊勢津美(いせつみ)に太坐(おおまし)、
下り坐(まし)て巨佐布(こさふ)の所に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て小都知(おづち)の峯(みね)に太坐(おおまし)、
上り坐(まし)て天野原(あめののはら)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て長谷原(はせののはら)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て神野麻国(こうののまくに)に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て安梨諦(ありだ)の夏瀬の丹生に忌杖刺し給ひ、
下り坐(まし)て日高郡(ひだかのこほり)、江川の丹生に忌杖刺し給ひ、
返り坐(まし)て那賀郡、赤穂山の布気(ふけ)といふ所に太坐(おおまし)て
遷(うつ)り幸(いでま)して名手村(なてのむら)、丹生の屋(や)の所に 夜殿(よとの)太坐、
遷(うつ)り幸(いでま)して伊都郡(いとのこほり)、佐夜久(さやひさ)の宮に太坐。
則ち天野原(あめののはら)に上り坐(まし)、
皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。
Posted by gadogadojp at 10:30│Comments(6)
│神社/仏閣
この記事へのコメント
管理人様
はじめまして。
難しいところに足を踏み込んでますね。
>丹とは丹砂、すなわち朱の原料。
これは一人の学者さんが書いた本が広がってしまっているので、そう思い込んでいる人が多いですが、学術的には丹砂というよりは、丹土つまり赤土、つまり酸化鉄を多く含んだ土を表す場合か鉛丹つまり鉛でできた朱を表す場合多いです。古文書で言うと、水銀を含んだ鉱石は辰砂と書かれていて、丹でかかれることはなかったようですね。
丹生にはいろんな説があるので、水銀だけにとらわれると変な方向に行ってしまいます。
水銀の説もまだ実証されていない仮説ですし(意外と知られていませんが、学者さんの間ではそんな感じです)、いろんな学説の1つであって、丹生都姫神社で昔から言われている話ではないですね。
>山の神と思える地に丹生神社が多いのはなぜ。
そうです?丹生都姫神社の里宮は紀ノ川のほとりですし、丹生都姫神社のある地には沢のあるところに丹生都姫を祀っている沢信仰がありますし。山に限ってませんよ。
>姉の天照大神と違って、丹砂を堀り、狩りをする山の民の神なのか。
丹砂を掘っていたかは知りませんが、丹生氏は狩はしていました。そんな足跡は結構あります。
>神武東征との関わりは?(名草、五瀬命との関連)
丹生氏の先祖に大名草比古がありますよ。五瀬命はかかわり見かけないですね。神武天皇との関わりはありますが。
丹生都姫は調べられているようで、結構まだ分かっていないことが多いので、難しい反面、歴史好きの人にはおもしろい神様ですね。がんばって下さい。
はじめまして。
難しいところに足を踏み込んでますね。
>丹とは丹砂、すなわち朱の原料。
これは一人の学者さんが書いた本が広がってしまっているので、そう思い込んでいる人が多いですが、学術的には丹砂というよりは、丹土つまり赤土、つまり酸化鉄を多く含んだ土を表す場合か鉛丹つまり鉛でできた朱を表す場合多いです。古文書で言うと、水銀を含んだ鉱石は辰砂と書かれていて、丹でかかれることはなかったようですね。
丹生にはいろんな説があるので、水銀だけにとらわれると変な方向に行ってしまいます。
水銀の説もまだ実証されていない仮説ですし(意外と知られていませんが、学者さんの間ではそんな感じです)、いろんな学説の1つであって、丹生都姫神社で昔から言われている話ではないですね。
>山の神と思える地に丹生神社が多いのはなぜ。
そうです?丹生都姫神社の里宮は紀ノ川のほとりですし、丹生都姫神社のある地には沢のあるところに丹生都姫を祀っている沢信仰がありますし。山に限ってませんよ。
>姉の天照大神と違って、丹砂を堀り、狩りをする山の民の神なのか。
丹砂を掘っていたかは知りませんが、丹生氏は狩はしていました。そんな足跡は結構あります。
>神武東征との関わりは?(名草、五瀬命との関連)
丹生氏の先祖に大名草比古がありますよ。五瀬命はかかわり見かけないですね。神武天皇との関わりはありますが。
丹生都姫は調べられているようで、結構まだ分かっていないことが多いので、難しい反面、歴史好きの人にはおもしろい神様ですね。がんばって下さい。
Posted by 随風 at 2010年09月21日 01:02
随風さん、はじめまして。
ゆかしいお名前ですね。
素人の趣味として、できるだけ先学の説から自由な自分の仮説をいつか
作り上げたい、と楽しんで書いているレベルの私のブログに、目をとめていただくだけでなく、このような真摯なコメントまでいただいて、感謝しきりです。
○丹砂、辰砂、水銀〜
ご意見に納得します。
知識の断片を拾い集めて塔を積み上げようとしている私は、その知識の断片の検証がおろそかになっています。塔の輪郭だけがぼんやり見えているだけで、内実は空洞同然です。スカの断片もたくさんつかんでしまっているのでしょう。それだけに、随風さんのようなご指摘は本当にありがたいです。
水銀についてはその脆弱さに気づいておりました。けれどどうしてもそこにこだわりたいのは、不老不死や常世を願う人の心に関心があるからかな、と自己分析しています。
○丹生神社と山の神〜
以前の私は、丹生神社と聞くととうとうと流れる水との関連しか思い浮かびませんでした。ただ今回改めていくつかの丹生系の神社を訪問したときに、必ずしもたっぷりの水量のある場所ばかりではないことに気がつきました。丹生都比売伝説の中にも、山里での生業を教えたという内容がたくさんあるとのこと。(これも検証できていない断片ですが)
水の神は山の神でもあったのかもしれないな、という単なるアイデアに過ぎません。
ま、最後の*印の部分はすべてその程度の思いつきではあるのですが。
○神武東征との関係〜
大名草比古は念頭にありました。これからの勉強の課題として列挙しました。五瀬命には関わりありませんか。
なぜ紀ノ川をさかのぼって奈良盆地に入らなかったのか、その理由の説得力が記紀には不足していると感じているのです。
ともあれ、ご指摘の点を少しでも勉強して、次に続けていきたいと思います。
本当にご教授ありがとうございました。
ゆかしいお名前ですね。
素人の趣味として、できるだけ先学の説から自由な自分の仮説をいつか
作り上げたい、と楽しんで書いているレベルの私のブログに、目をとめていただくだけでなく、このような真摯なコメントまでいただいて、感謝しきりです。
○丹砂、辰砂、水銀〜
ご意見に納得します。
知識の断片を拾い集めて塔を積み上げようとしている私は、その知識の断片の検証がおろそかになっています。塔の輪郭だけがぼんやり見えているだけで、内実は空洞同然です。スカの断片もたくさんつかんでしまっているのでしょう。それだけに、随風さんのようなご指摘は本当にありがたいです。
水銀についてはその脆弱さに気づいておりました。けれどどうしてもそこにこだわりたいのは、不老不死や常世を願う人の心に関心があるからかな、と自己分析しています。
○丹生神社と山の神〜
以前の私は、丹生神社と聞くととうとうと流れる水との関連しか思い浮かびませんでした。ただ今回改めていくつかの丹生系の神社を訪問したときに、必ずしもたっぷりの水量のある場所ばかりではないことに気がつきました。丹生都比売伝説の中にも、山里での生業を教えたという内容がたくさんあるとのこと。(これも検証できていない断片ですが)
水の神は山の神でもあったのかもしれないな、という単なるアイデアに過ぎません。
ま、最後の*印の部分はすべてその程度の思いつきではあるのですが。
○神武東征との関係〜
大名草比古は念頭にありました。これからの勉強の課題として列挙しました。五瀬命には関わりありませんか。
なぜ紀ノ川をさかのぼって奈良盆地に入らなかったのか、その理由の説得力が記紀には不足していると感じているのです。
ともあれ、ご指摘の点を少しでも勉強して、次に続けていきたいと思います。
本当にご教授ありがとうございました。
Posted by gadogadojp at 2010年09月21日 21:01
拝見しました。ありがとうございます。ご活躍を期待します。
Posted by さざなみ at 2015年07月13日 09:57
さざなみさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
老体の私にはたいした仕事はできそうにありませんが、次のひらめきを待って少しでも前に進めたら、と思っています。
老体の私にはたいした仕事はできそうにありませんが、次のひらめきを待って少しでも前に進めたら、と思っています。
Posted by gadogadojp at 2015年09月07日 12:49
高山の丹生川とは関係ないのでしょうか?丹生がつくのはすべてそこから出たものと聞いた事がありますが。
Posted by うさぎちゃん at 2015年12月05日 01:17
うさぎちゃんさん、こんにちは。
お返事が遅くなって申し訳ありません。
国土地理院の地図サイトで「丹生」と打ち込んで検索しますと、おびただしい数の地名、神社名、川の名などがヒットします。これは、「丹生」が特殊な固有名詞ではなく、普通名詞であることの傍証です。
「丹生」の意味は水銀(水銀由来の赤色顔料がとれるところ)だと一般に考えられています。つまり、「丹生」の地名がつくところには、もとは赤い砂が採取されたということです。その顔料はしばしば川の水によって露出します。
この顔料は日本列島に住んでいた人々にとっては、刺青・化粧・石棺塗料・防腐剤などなどひじょうに重要であったため、そばしば神の宿る場所とも考えられたのでしょう。そういう場所(川)がたくさんあったのです。
したがって、高山の壬生川が起源だとは考えにくいですね。
お返事が遅くなって申し訳ありません。
国土地理院の地図サイトで「丹生」と打ち込んで検索しますと、おびただしい数の地名、神社名、川の名などがヒットします。これは、「丹生」が特殊な固有名詞ではなく、普通名詞であることの傍証です。
「丹生」の意味は水銀(水銀由来の赤色顔料がとれるところ)だと一般に考えられています。つまり、「丹生」の地名がつくところには、もとは赤い砂が採取されたということです。その顔料はしばしば川の水によって露出します。
この顔料は日本列島に住んでいた人々にとっては、刺青・化粧・石棺塗料・防腐剤などなどひじょうに重要であったため、そばしば神の宿る場所とも考えられたのでしょう。そういう場所(川)がたくさんあったのです。
したがって、高山の壬生川が起源だとは考えにくいですね。
Posted by gadogadojp at 2016年08月27日 00:36
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