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2022年03月22日

「B29搭乗員慰霊碑」と「安倍晴明神社」:龍神村殿原 =後編=


安倍晴明といえば、の五芒星(ごぼうせい):殿原の安倍晴明社


今回のドライブは「B29搭乗員慰霊碑」(前編参照)だけが目的地ではありませんでした。
同じ殿原の地には陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのはるあきら、せいめい)
が立ち寄ったという伝承が残っています。その地の景観と晴明のあらましの足取りを押さえておきたかったからという目的もありました。



安倍晴明という人物の足跡伝承は各地に残っています。それはちょうど修験道の始祖とも言われる役小角(えんのおづぬ、役行者)の足跡と同じく深山幽谷に及んでいます。しかし役小角が主に山岳、尾根を伝ったのと比べ、安倍晴明は山間を縫う川沿いの道を進んだように思えます。

また晴明は、”にゅう”の音のつく地名と深い関わりがあるようで、福井県の遠敷(おにゅう、大丹生か)、奈良県の丹生川上神社、和歌山県の丹生都比賣(にゅうつひめ)神社などの各地に晴明伝説が残っています。丹生とは丹(に)が生える場所、つまりは辰砂(しんしゃ、水銀の原料、赤色の顔料)採掘地のことです。

※丹生都比賣神社については過去のブログで考察しています。長文ですが、よろしければご覧ください。→『丹生都比賣神社:あなたは何者か、稚日女命』



辰砂(丹):wikipediaより


丹は邪馬台国の時代から重要な鉱物です。「奈良(の都)」の枕詞「青丹よし」は、青色と赤色をはじめとする色彩の豊かさを表しています。辰砂は川沿いで見つかることが多いと聞きます。安倍晴明の行動の謎を探るヒントになるでしょう。呪術には水銀が必要だったのでしょうか?それとも?






ここ龍神村殿原にも丹生川が、いえ、丹生ノ川が流れています。かつてはこの川のどこかで辰砂が採れていたのでしょう。その川に面した谷口という集落入り口に安倍晴明を祀る小さな祠(ほこら)と言いますか小社(やしろ)があり、鳥居も建っています。村民に大切にされていることがわかる手入れがされています。目の前の橋をわたって間も無く、晴明が妖獣猫又を封じ込めたと伝わる猫又の滝があるのですが、車では近寄れないと勘違いして行かずにおきました。また次の機会に猫又(ねこまた)に会いにいきましょう。それにしても、脳内で猫又像を描くと水木しげるさん描く猫娘になってしまう貧困な想像力!(呆)

※わずか下流に恩行司集落があります。この付近の川底で神秘の光を放つ玉石を村人が拾い上げ、これを晴明のご神体であると考え、谷口の里に祠を建て「安倍晴明大明神」と祀っている、という伝承があるそうです。またこの祠は近年場所を少し移動させて建てたという記述も見かけましたが未確認です。

ちなみにその妖怪は元は近くの山に住んでいて里の者や旅人に悪さをしていたそうです。(その時点では「猫又」とは呼ばれていないようで、よくある”猫が跨げるような細い滝”として名付けられていたのかもしれません。)通りかかった晴明は里の者に頼まれて妖怪を調伏しました。その際に妖怪は大雨を降らして抵抗したので、晴明は杖を柱にし笠を屋根にして雨を防いだため、その山を「笠塔山」と呼ぶようになった、という地名由来説が残っています。


晴明淵と名付けられた淵があると聞きましたが、どこがそれやら、、さしあたりこれだ、と決めておきます。晴明の大金を狙った一若という村人が晴明を崖からこの淵に突き落としたが、その晴明は生きていて石に腰掛けていた。一若の一族は晴明の呪文で死に絶えた、という伝承もあります。晴明が式神を操る者だとは知らなかったのでしょう。



紀伊半島は随所に吊橋がかかっています。車が交通を妨害しそうで渡らなかったのですが、ファンとしては良い景色です。


殿原に別れ、西に進みます。丹生ノ川も西流して間も無く日高川と出会います。その合流地点には案の定丹生神社が建っていますので、ご挨拶に行ってきました。丹生の神は水銀・辰砂の神であり、清流(&水害)の神でもあります。主祭神は丹生都比賣神でした。侮ってはならない神様ですので丁重に。ちょっぴり肌がピリピリ震えました。










原則、往復で道を変える私は、帰路を南部(みなべ)川沿いの国道424号にとりました。初めての道です。谷あいに梅の花の香りが充満しうっとりとなります。田辺市方向に車を向けます。

山崎ハコさんのCDが3周目の終わりに差し掛かる頃、自宅に着きました。
  


Posted by gadogadojp at 15:05Comments(0)

2022年03月20日

「B29搭乗員慰霊碑」と「安倍晴明神社」:龍神村殿原=前編=

”平和”はどんな時でも大切ですけれど、今はよりいっそう、、で、

「B29搭乗員慰霊碑(戦歿アメリカ将士之碑)」に行ってきました。

和歌山県田辺市龍神村殿原(とのはら)にあります。





殿原の住民は、”敵国”アメリカ兵士を救助し、遺体を埋葬した上、70年以上にわたって毎年慰霊祭を執り行ってこられたと聞き、感無量になったことがありますので、ぜひ一度は訪れたかった集落なのです。

詳しくは後ほど。まずは出発しましょう。自宅からストレートに通じる道は無く、少し寄り道をしながらの行程になります。



「ねむの木食堂」のランチの一例


国道311号(以下311と略す)沿いの「ねむの木食堂」さんで美味しいランチをいただいてから国道371号(以下371と略す)に入ります。白浜町・上富田町方面から龍神村の中心地(温泉、護摩壇山方面など)に向かう場合、ふつうは手前の県道198号(龍神中辺路線)を走るのですが、もう少し先の371ルートをとれば目的地の殿原にいきなり到着できます。

大阪府南部に住んでいた頃、371は和歌山県(橋本市)に向かう際によく通る道でした。また、高野龍神スカイラインという快適なドライブコースもこの国道の一部になっていて、
馴染みある道路でした。しかし一方で龍神以南は「酷道」としても有名で、当時は未開通
区間も三ヶ所あったように記憶しています。いまこの「酷道」を走る日が来ることに感動しました、というとちょっと大袈裟ですが。




目的地に向かって311から371に折れる交差点は、中川という川が富田川に合流する地点。交差点名は川合。地名は二川(ふたかわ)。わかりやすい。廃校になった二川小学校跡は「二川超学校」と呼ばれる施設になり、映画上映や朝市など各種イベントに使われて時折通っています。これを過ぎ、371をそのまま進んでいきますと温川(ぬるみがわ)。左手に「パラダイス・カフェ」という魅力的な空間を備える店舗があり、ここまではスムースに走ることができます。この辺りで標高180m。

「パラダイス・カフェ」を過ぎると道路はいったん狭まる場所や工事中の箇所もありましたが、通行に支障はなく、やがて小松原に入ると中川と分かれて高度を上げ、展望が楽しめるドライブコースになります。小松原トンネルを過ぎると標高は400mを超えます。500mになろうかという地点からは右手東側に笠塔山(1049m)がそびえている、、はずですが、私は見えている山がそうかどうか自信がありません。なお、この山は妖怪が棲む山という伝承を目にしましたが、詳しくは後で。




驚いたのは天狗嵓(てんぐら)橋。橋と笠塔山、そして眼下の急崖の風景は素晴らしいの一言。左に覆いかぶさる山塊と右下に落ち込んでいく急崖下(成川谷)との落差は300mに満たないのですが、とにかく急勾配なのです。この橋の完成は1991年1月、その先の笠塔トンネルは1992年10月。しかし371のこの区間が開通し供用になったのはずっと先のことで、数年前なのではないかなあ。(開通記事が見つからない)
ともあれ、今はつながっています。




天狗嵓の「嵓」は巨岩、岩の崖のこと。訓読みでイワと読むことが多いのでしょうが、地名ではクラと呼ぶことがよくあります。大蛇嵓、エボシ嵓など。つまりこの橋の名の元になる岩(ピーク?)が近くにあり、テンググラがテングラに縮まったのだと考えましたがどうでしょうか。登山マップには載っているのでは?

MBS TVの懐かしい「ちちんぷいぷい」の記録によると、
「スタートから15キロ、ゴールの天狗嵓橋(てんぐらはし)を渡りきる。この地に伝わる天狗伝説から、天狗嵓橋と名付けられた。伝説では、この辺りに住む男が農作業をしていると、昼間にもかかわらず空が真っ暗になった。そして、空から天狗が舞い降りて、その男をさらっていった。その後、男は無事生還したが、拉致されたときからの記憶は、まるでなかったという。」 と書かれてあります。2018年の踏破です。参考まで。


天狗像の後ろにそびえるのが笠塔山?

天狗嵓橋親柱に、つまり四ヶ所にブロンズ製の立派な天狗像が飾られていました。佐野俊郎さん作。私のイメージする天狗よりも恰幅ゆたかな、そして眉は厳しいが案外に人格者のような風貌の天狗でした。ところが、悲しいことに、南側の二体の鼻が欠けているのです。心ない悪戯なのでしょう、残念なことです。天狗に拉致されますよ。





殿原に着いたのは13時を過ぎていました。


清流丹生ノ川(にゅうのがわ)が激しく蛇行し山を削り取って生まれた細長い河岸段丘に、殿原の集落と田畑が並んでいます。
橋を渡るとすぐにちょっとした公園のようなエリアがあり、産土神を祀っているかのような小さな神社があります。そのすぐ隣に慰霊碑を見つけました。きちんと整備されています。WCもあります。


B-29爆撃機:wikipediaより引用



1945年5月5日。日本「本土」空襲真っ盛りの時期です。
ここ殿原に、B29 爆撃機が墜落しました。位置は確認できませんでした。
(紫電改が撃墜した、と言う真偽不明の情報があります。戦時中の共同幻想でしょうか。)

紀伊半島上空は、マリアナ諸島の基地から飛来する米軍機が京阪神を空襲する際の飛行ルートに当たっていました。余った爆弾・焼夷弾を紀伊半島の小さな町に落とし、漁船を銃撃することもありました。この日も、串本町で一人の犠牲者が出ています。ただ、この日の京阪神空襲の記録が見つかりません。私の調査が甘いのでしょうが、少し謎が残ります。(呉市にはこの日大きな空爆がありました)






その墜落したB29機には、11人の米軍兵士が搭乗していました。
轟音に驚いた殿原の住民が現場に向かうと、7人はすでに死亡していました。住民たちは遺体を川で洗い、十字架を立てて埋葬しました。生存者4人を救助し、食料を与えました。当時の厳しい食料事情の中、白米のおにぎりも用意したと伝わります。やがて4人は駆けつけた日本軍憲兵隊の捕虜となり、3人は大阪の収容所で死亡しました。(拷問など厳しい取り調べの末殺害されたことが後年米国資料で明らかになったそうです。ただし私は原史料を読んでいません。)






殿原の住民の素晴らしさは、「鬼畜米英」の強烈な同調圧力の時代にも関わらず生存者を虐待しなかったことに加え、戦中にも関わらず、翌月の6月9日に慰霊碑や墓標を設置したこと、そしてそののち毎年慰霊祭を欠かさず続けていることです。節々には、地元龍神村の寺院の僧侶による回向と併せて、キリスト教の牧師も参加し、祈りが捧げられています。



あの戦争では、死因が分類できない沖縄をのぞいて、56万人もの市民・戦闘員が空襲・原爆の犠牲になりました。私の叔父も神戸の空襲で焼死しています。母も、神戸大空襲では危機一髪の体験をしています。

われわれ

日本列島人から見れば”天空の悪魔”と思って不思議ではないあのB29の巨体には、しかし、国家の命令で死と隣り合わせの任務についているごく平凡な兵士たちが多数搭乗していました。判明しているだけで、B29機の内485機と、3041名の米軍搭乗員たちの命が失われています。

私は両国の死亡者は全て、敵国の犠牲になったのではなく、「戦争」の犠牲になったのだと考えております。


そして、戦争を起こすのは誰ですか。



この「B29搭乗員慰霊碑」の最下部に、旧約聖書イザヤ書の有名な言葉が引用されています。
「彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦い事を学ばない。 」※一部修整


後編に続きます。


  


Posted by gadogadojp at 17:10Comments(0)歴史エリアフィールドワーク

2020年12月05日

紀伊半島フィールドワーク 国道311号:中辺路コース2

「紀伊半島フィールドワーク」

国道311号線:中辺路コース2
:白浜から近野(近露・野中)まで

の内今回は滝尻王子から近野まで

・紀伊半島を横断する国道311号に沿って進むライトなフィールドワークです。

・決まり事と目次は最初のページをご覧ください。

大字(おおあざ)(あざ)は進行の目安になり、また地域の重要な歴史が潜んでいることもあるので赤字にしました。(すべての字を掲載しているわけではありません)

・お好きな地図(国土地理院地形図、googlemapなど)を伴侶にお読みください。




滝尻王子のすぐ裏手から中辺路の急坂が始まる。


◉滝尻王子+『熊野古道館』〜栗栖川
滝尻王子は富田川と石船(いしぶり)川が合流する地点にある。五体王子の一つで社格が高い。水垢離を行い、いよいよ本格的に熊野の神域に入る心構えを固める王子だったように思う。重要文化財の黒漆小太刀を所蔵する。

・王子はここも跡であって、現在の神社の正式名称は滝尻王子宮十郷(とごう)神社という。明治時代末期の悪名高い神社合祀政策の性格があからさまに表れた名称だ。西園寺公望内閣の内務大臣原敬が明治天皇に勅令を出させ、その後の桂太郎内閣が全国的に反対の声が高まったにもかかわらず強引に押し進めた。この神社でも”十郷”それぞれに、住民と村の守神との悲しい別れがあったに違いない。つまるところ国家神道の体面を保ちつつ国家や自治体の経費を節減する方策である。国家は宗教に手を染めてはいけないのだ。(大日本帝国は神道を宗教だと認めなかったが)

・前回にも書いたが、『熊野古道館』には立ち寄ってみよう。また、『滝尻茶屋』という茶店があり、良心的な軽食もある。火水休。FBで営業確認を。隣の『民宿古道の杜あんちゃん』の売店では季節によって天然アユやアマゴ(冷凍・生)、天然ウナギ、モクズガニ、テナガエビ、梅干しなどを販売している。巡礼のために荷物を宿まで運ぶサービスもある(有料)。

・プチ古道:有名な胎内くぐりや乳岩まで神社の裏手から500m進む急坂。良い雰囲気の道で、”蟻の熊野詣”がリアルにわかるすり減った岩が随所にある。乳岩の伝説はここでは省く。これ以降高原(たかはら)までずっと登りなので、プチ巡礼さんはここから引き返そう。

・なお、平安時代はここ滝尻までの区間も難所で、渡河が多かった。藤原定家も服まで水に浸かったという。そのため少し北の山地をいく潮見峠越えから高原に至るルートが次第に主流となり、滝尻王子は衰えていった。

。滝尻から車で5,6分登ると”天空の里 峰”のてっぺん。
高い場所まで集落が点在する。特別な見所はないが、途中のフクロウの焼き物がかわいい目印になっている。峰は南から東の山の眺望が佳い。集落の先に素朴な展望台Pがあるが目の前には畑。少し先まで歩くと眼下の富田川がみめよく見える。大パノラマなのだが、紀伊半島を探索していると少々では驚かなくなっている。ここは熊野古道(早駆け道)沿いではないが、潮見峠越えのルート(滝尻迂回)途中から滝尻王子に下る場合の抜け道としてとして古くから知られていたようだ。

・峰集落のてっぺんに小さな厳島神社があるが、隣接するように『熊野中辺路 峰の宿』という一棟貸の宿がある。バルコニーが広く、昼間の絶景も夜の満点の星も一人占めできるような立地。食事はなく、キッチンで自炊。平日二人で計2万円弱の料金。


                                   峰のフクロウ:宿の入り口で




・滝尻から国道371号を石船川沿いに通るとやがて日置川流域に至る。狭小な道が多く敢えて勧めないが、風情のあるポイントが多い。別項で。

・栗栖川集落に入る直前の鍛冶屋川口交差点で左に取ると龍神村に向かう県道198号線。カーブは多いがよく整備された快走路なので龍神にはこの道がベスト。途中に一ヶ所公衆WCのある公園がある。龍神村については別項で。


・なお、鍛冶屋という字は鍛冶屋川上流のさらに支流、大字熊野川の谷間にあってかなり距離がある。未踏。ここから栗栖川に”出稼ぎ”に来ていたのだろうか。



峰集落のてっぺんから富田川を臨む:遠くの山は麦粉森山や日置川上流の山並み?



◉栗栖川(くりすがわ)と川合

栗栖川(大字)は広い。滝尻も栗栖川の一部で縄文土器の破片が見つかっている。富田川もここでは栗栖川と呼ばれていた。旧中辺路町の中心地。

・”栖”は棲む、棲息するの意味。栗林が多かったのか。栗林に住むとの由来か。栗の字を使った地名は日本中に多い。椎の実や胡桃と並んでアク抜きをしなくても食べられるクリは縄文時代から愛された木の実。縄文集落の周囲に栗の木が生えている例がよく見つかる。栗の木は日向を好む。森を切り開いて集落を成すことで生育しやすくなったか、あるいは栽培か、両方の説がある。もちろん、クリとは関わりない表音なのかもしれない。でもそれならばクリスとは?マレー文化では聖なる短剣のことだ。

・このあたりには一休みや寄り道に適した店が多いので列挙する。

 ・栗栖川の『一菓』〜小さなケーキ店。シンプルな外見の洋菓子だが大阪で修行した店主による綺麗な味。二卓ほど席がある。旧道沿い。悪いが農協前に停車させてもらってる。
 ・栗栖川の『カフェ・ド・リッカ』〜高級感あるイタリアン創作料理。陶芸家である旦那さんの作品がいっぱいの趣味的な店。国道から北に入る。未食。
 ・川合の『菜菜』〜国道沿いの中華屋。美味しくてボリュームたっぷりの人気店。近辺では貴重な夕食が食べられる店。時々臨時休業があるので、予約が無難。FB参照。
 
 ・川合の『ふたかわ超学校』〜廃校(二川小中学校)を使って地域起こし。月に1回はミニマーケットと映画上映が。他にもイベントあり。

 ・川合の『ブルーベリーと山の幸 松平農園』〜夏季にはブルーベリー摘みができる。予約制で千円。時間無制限。FB参照。

 ・温川(ぬるみかわ)の『パラダイス・カフェ』〜地域振興を兼ねたとてもゆったりしたスペースにパスタ中心の良心的なランチ。地元産品を使ったスイーツ。国道から少し山奥(5分)に入るが道は良い。

川合。上記にも出てくる大字。言葉通り中川と富田川とが出会う。ここから北に向かう道はあの酷道371号線だが、温川までは快走できる。狭くなった道をさらに進めば、龍神村の殿原に行き着く。未踏破。

朝来平(あそだいら)。大字川合の一部。合流地点そばの段丘状の平地が住宅地になっている。穏やかな空気感を感じる。湿地でもないし狭い谷でもない朝来の由来はなんだろう。後で再登場する。



栗栖川の桜


とある標識と熊野古道


◉高原(たかはら)
高原は熊野古道沿い、栗栖川や川合の東方の高台の集落。王子は設定されていないため古道(王子)が成立した平安期には集落はなく、古道だけが通じていたと考えられる。
タカハラという呼称自体が住民目線ではなく栗栖川あたりから眺めて呼んだのだろう。

・高原に向かうには国道311号線原之瀬橋交差点を右折し渡って上る。橋には「熊野古道→」「古道ヶ丘→」「中辺路陶芸館→」などの文字がおどっているのでわかりやすい。道は1.5車線程度と狭いが他の道はもっと狭いのでこのルートがベスト。ルートは曲がりながらもほぼ道なり。一ヶ所、直進すると細い道になる場所で右に曲がるところだけに注意。

・展望スペースがあり果無(はてなし)山脈の眺めが素晴らしい。駐車場・WCあり。前の道が即熊野古道。
平安の昔、滝尻王子から登ってきた巡礼たちが見た風景を私も見ているはずだ。また棚田も良い。かなり田の枚数があるのだが、すべては見えないようだ。

・ホテル『霧の郷たかはら』ではランチもある。地元の野菜などを使った郷土料理がいい。ここからの眺めも良い。霧がかかれば幸運。目の前に古道。他にもおむすびや米パンの『じぞうど』など魅力ある小さな店が点在する。しかし現時点では店頭販売していない場合も多い。なお、『虹の花食堂』は残念ながら閉店。この店に行きたくて高原という地に注目したのだが未訪問。残念。上記のリンクには高原についてもう少し詳しく書いているし写真もある。


・『高原熊野神社』の小さな社殿がいい。近辺ではもっとも古く室町時代の建立という。

・プチ古道:王子社はないが、古道をぶらぶら歩くことができる。滝尻王子から徒歩で来る人も多い人気コース。古道はまだ先に進むが、プチ古道歩きだとバス停のある栗栖川に降りるのが一般的。



高原からの展望



福定宝泉寺の大銀杏


◉栗栖川〜近露
皆ノ川(かいのがわ、かいのかわ)。川合の少し先の大川(大字)に皆ノ川という小河川が流れている。そこから川沿いに北に遡ると皆ノ川という集落が。中上健次さんが訪れた印象的なルポがあったのだが、今は村を挙げて離村してしまった。廃屋が並んでいるが、一部は今も旧村民が農作業に戻ってきているようで、梅の木などが手入れされている。平地がなく日照がわずかしかないこういう谷になぜ人は住んだのか、黙考してしまう山村だ。



                    皆ノ川集落の簡易水道タンクか


福定の大銀杏は国道からも遠望できる。幹の周囲5.3メートル、高さは22メートルの大銀杏のある宝泉寺へは国道から750m入る。ふだんの緑葉も美しいが11月中旬〜の黄葉期は圧巻。休日には付近の狭い道が車であふれる。駐車場はあるけれど狭い。

・福定は富田川沿いの斜面の集落。この辺りから川は北流し、果無山脈安堵山に至る。その途中、かつて兵生(ひょうぜ、ひょうぜい)という人口200人強(明治)の村落があったが、S49年頃全員が離村・移住した。いまもまだ廃屋が残っているという。未踏。移住先は先述川合の朝来平。ヒョウゼイとはなんだろう。安堵山は大塔宮護良親王にまつわる伝承の残る地。なお、兵生には「兵生の松若」という若者の少々切ない伝説が残っている。詳しくは
「みちとおと」ブログのページで。

・『道の駅熊野古道中辺路』は小さな小さな道の駅だが手作り感溢れる佳店。ソフトクリーム、よもぎ餅各種美味。自然薯や椎茸など地物野菜に値打ちがある。軽食・喫茶コーナーは小上がり座敷のみ。店前に複製の大きな牛馬童子像が建つ。
バス停あり。

・プチ古道:熊野古道のアイドル牛馬童子像まで道の駅から登り坂で20分。キツくはない。そのまま箸折峠を超えて近露王子まで歩く人も多い。近露にもバス停がある。

近露。長い逢坂山トンネルと別の短いトンネルを抜けると日置川流域に入りすぐに近露盆地が広がる。トンネルが通じる前と後とでは訪れる利便がまったく異なったはず。近露は富田川が作り出した沖積平野と河岸段丘で、中辺路ではもっとも広々した平地。信憑性の低い伝承(血か露か)もあるが、近露とは近つ熊野(ゆや)だと私は見ている。中辺路の中間点に当たる。

・左手に見える『古道歩きの里ちかつゆ』は道の駅ではなく、熊野観光開発が営む大規模なドライブイン。311沿い。※古道歩きの里などいくつかの施設は閉鎖中
。食堂『ちかつゆ亭』がリーズナブルで水準越え。売店も広い。
同じ敷地にAコープがあり、地場の野菜や『朴』のパンや『じぞうど』のジャムが並ぶことも。すぐ隣に『かっぱ餅』の店舗。主人によれば今は近隣で杵つきで餅屋をしているのはここだけとか。だから正月前は忙しいと。配達等で閉まっている時間が長いが開店していれば近隣のスーパーで売られているより安く買える。



なかへち美術館


 
◉近露王子+近露の街並み
・近露王子については、藤原定家など多くの巡礼が書き残した記録がある。日置川の水の浄化信仰もあって九十九王子の中でも特に栄えた。神域の森の伐採に怒る南方熊楠の書簡や出口王仁三郎の直筆などエピソードも多い。出口王仁三郎は日本国政府から大弾圧を受けた宗教団体の教祖。だから直筆の石碑文などは徹底して破却されたのでとても希少だ。

・王子から東に200mほど続く”道中”は宿が多数並んでいた。いま宿は一軒だけだが、昭和の香りがする看板がそのまま残されていて楽しい。『箸折茶屋』は地元野菜など使った定食やモーニングが人気。足湯あり。予約すれば釜飯が食べられる。※コロナで県外客はお断り。
『CABELO』では美味しいオーガニック珈琲が飲める。安心な食材も販売。『熊野野菜カフェ』は7:00からモーニングあり。金・日はベーグルあり。

・王子の南に『なかへち美術館』がモダンな姿でたたずんでいる。


・東へしばらく行くと大塔宮を助けたエピソードが「太平記」に記されている野長瀬一族の広い墓所がある。
良い風情だ。

・野長瀬一族の墓をもう少し進んだところに『田舎ごはんとカフェ 朴』。Uターンの店主が地元で古民家を改装した落ち着く店。日月火定休。ベジタリアンにも対応できる野菜中心の美味しい食事、デザート、珈琲他。天然酵母のパン販売。





野中の清水:もちろん飲める


旧『とがの木茶屋』:なつかしい方が多いのでは


◉継桜王子付近
・国道311号沿いに進むと、『桶濱』、『すぎのき工房なかがき』の二つの木工店があり、それぞれ特徴がある。実用的で巧みな桶や木製品が好きならぜひ立ち寄りを。

野中に着く。近露と合わせて近野とも呼ぶ。
バス停から見上げられる高台には野中清水や継桜王子、秀衡桜、一方杉、とがのき茶屋などがあって中辺路のハイライトの一つ。近露王子から歩く人が多いが、バス停付近に駐車場がないので、車でくれば仕方なく車で上ることになる。

・野中の清水はマイルド。名水ファンは水筒など必携。数台分駐車できる。継桜王子と一方杉は健在で風情あり。新秀衡桜が育っている。
著名だった『とがの木茶屋』は惜しくも閉店。すぐ近くで今はボランティアが運営する建物があり、頭が下がる。名前が残る。
近くの古道ぞいに少しだけ駐車スペースあり。古道歩きの方の迷惑にならないようできれば軽で。バスで降りて歩いて登るのがベストだが。WCあり。一帯が熊野古道なのでプチ古道歩きには最適。雰囲気のある良いところなのでぶらぶらと。




継桜王子の文字が彫られた石


◉三体月の石碑
・近露と野中の記述で終了するはずだったところ、もう少し先の国道311号沿い、中辺路町湯川と本宮町大瀬の境目付近の道路南側に建つ石碑を紹介する。その昔三体月を目撃した行者や住民を記念して建てたのだろう。

・石碑自体は新しいが、この地は北側の笠塔(かさんどう)峰を経て、行者が最初に三体月を目撃した高尾山の麓に当たる。なお、行者は野中・近露の住民にこの奇跡を伝えたので、近露西側の逢坂トンネル上の古道にも案内板があるそうだ。(未見)





三体月の石碑

※この先の行程は別項に書きます。発表日は未定です。おそらく本宮町限定かまたは熊野三山というくくりで書くことになるかどちらかだと思います。その前に大島や潮岬、白浜の町内フィールドワークなどをアップできれば良いなと思っています。いずれにせよ少しの間インターバルをいただきます。

  


Posted by gadogadojp at 20:00Comments(0)フィールドワーク

2020年12月04日

紀伊半島フィールドワーク 国道311号:中辺路コース1

「紀伊半島フィールドワーク」

国道311号線:中辺路コース1
:白浜から近野(近露・野中)まで

、の内今回は白浜から滝尻王子まで

・紀伊半島を横断する国道311号に沿って進むライトなフィールドワークです。

・決まり事と目次は最初のページをご覧ください。

大字(おおあざ)(あざ)は進行の目安になり、また地域の重要な歴史が潜んでいることもあるので赤字にしました。(すべての字を掲載しているわけではありません)

・お好きな地図(国土地理院地形図、googlemapなど)を伴侶にお読みください。




中辺路コース(なかへち)

☆熊野古道中辺路と並行して走る国道311号をメインルートにするコース。

・この国道は1999年開催の「南紀熊野体験博」に向けて大きく改修された。
・白浜空港から中心地近露(ちかつゆ)までの所要時間は約1時間。
・白浜町→上富田町→旧大塔村(現田辺市)→旧中辺路町(現田辺市)を通ります。
・白浜町エリア、上富田町エリアの詳細については別項で。



富田川生馬の潜水橋(沈下橋):国道からは見えないので、左岸の県道220号から眺めてください。渡ることもできます。雨の後などはなかなかスリリングです。


◉富田(とんだ)川
・国道311号は大塔の分水嶺近くの福定(ふくさだ)までおおむねこの川に沿って通じる。

・(逢坂トンネルを越えて近露に入ると日置川流域に入る。ただし日置川と国道は直交するため川には沿わない。)

・和歌山県の主要河川では唯一ダムのない川として知られる。場所や時代により栗栖川、岩田川、石田川などと名を変えて呼ばれた。清流だが伏流水・地下水(白浜町の水道の水源)が多く、見た目の流量が少ない季節も。地元民によれば河原に大きな石が増えたと。また、かつて針葉樹が大規模に植林された(=紅葉少ない)こともあって渇水期の水量も減ったか。

・もともと一部地域では天井川である。砂利を採取した現在は解消している。堤防の高い場所は天井川だったのだなととりあえず判断している。

・1889年の大水害(109人死亡)などこれまでたびたび水害を起こしたが、山崩れによる土砂ダムの崩壊も原因。現在大規模な河床改修工事中。そのため水は濁っている。

・熊野詣の際の浄めの水(水垢離)として重要。川を渡ることで浄められるという信仰は富田川に限らないが。(日置川、熊野川、五十鈴川、、、)

・二ヶ所の沈下橋(潜水橋)がある。すべて国道からは見えない。一つは生馬(いくま)の『熊野水産』(鮎養殖)近くの山王橋。二つ目はバス停上岩田近く(宇立橋?:流れ橋との説明も)。前者は大辺路、後者は中辺路の徒歩巡礼のルートとして使われているところから、かつて渡しがあった場所と推定される。もう一ヶ所向越のあたりにあるというが未確認。なおwikipedia「沈下橋」にはいずれも掲載されていない。なぜ?



シュールな目つきを自認するひょうたんせんぱいはH29から上富田町のマスコットキャラ。せんぱいの絵がボディに描かれたバスが町内を走っている。稲葉根王子の近くで。妻の撮影。


◉スタート地点(岩崎交差点)〜滝尻王子
・白浜空港から県道・町道経由で42号線に入る。白浜駅前を通るのが最短ルート。郵便橋で国道に出会ったら左折。

岩崎。南西方向に流れてきた富田川が岩盤に当たって急カーブし、南に転じるのがこのあたり。車は岩崎交差点を右折して国道311号に入る。これが現代の中辺路の事実上のスタートか。岩が多いため、地名のもとになった岩の特定に悩む。

朝来(あっそ)から生馬(いくま)にかけて川が作った後背平地が広がる。かつて生馬荘(園)があった。西牟婁郡では最大の水田地帯。町並みの北側に旧国道(朝来街道)が通じている。現在の道(快走路)はそのバイパス。新旧の道は稲葉根王子付近で合流する。

・イクマにイクマ川が流れている。大字イクマの範囲にスクマダニ(救馬渓)がある。そこを流れる川を馬川という(読み不明、マ?ウマ?)。すぐ北にはタクマ(田熊)という字があり、タクマ川が流れている。何かがわかるわけではないけれど地図を見るのは楽しい。字面で由来を考えても良いが正しいと即断してはならない好例だ。とはいえ、horse と関わりが深い理由でmuma→uma→maと名付けた可能性はある。もちろん熊野(隈野)と同じく山蔭山並を表すクマノと同じ由来だとする説もある。大阪と奈良の境界の生駒(いこま)山の由来はどうなのだろう。ちなみに救馬谷観音には、私たちが知る説話とはいささか異なる小栗判官(おぐりはんがん、ほうがん)と照手(てるて)姫の伝説が残っている。詳しくはお寺まで。

・生馬川と富田川の合流地点そばには縄文遺跡が発見されているし、近くには古墳や中世の城塞跡も見つかっている。太古から人の影が濃い地域だったと言える。魚など川の恵みと森、後背湿地の水田、城を築くのに適した高台、道。


救馬渓観音の広大な境内では、祭祀と地質学上の奇観(ジオパーク)とが重なり合う場所がある。間違いなく古い時代の”パワースポット”だ。駐車場複数あり。紫陽花の時期の休日には混雑する。眺望良い。生馬橋から5,6分。


岩田。富田川のこの辺りの旧称は岩田川。稲葉根王子は九十九王子の中のさらによりすぐりの五体王子。国道からわずかに入ったところに神社と水垢離場の跡だとする標識がある。ここから足を川につけて一瀬王子跡まで渡河したのだなと眺めるには良い。つまりこの河原は”垢離場”(こりば)。熊野詣の巡礼たちはまずここで穢れを落とす水垢離(みずごり)を行い左岸に渡る。しかし駐車場が見つからず、近くのスーパーで買い物してサクッと見るだけになってしまった。



稲葉根王子そばの川岸から曼珠沙華植込を通して熊野の山を見る。右の高い山が麦粉森山。



市ノ瀬。一(ノ)瀬王子とうまく結びつかず、市場が河原にあったゆえの地名だと思い込んでいた。もともとイチイの大木があったからと伝わる。

・国道311号は右岸を走る。市ノ瀬の中心は市ノ瀬川を渡った左岸。支流の清水谷川から引く用水路(難工事)が江戸時代に完成し、河岸段丘上に水田が広がる。明治までは牛馬が多数飼われていた。興禅寺(だるま寺)があり、白い達磨大師が有名。天明の飢饉の際田辺領内で打ちこわしが起きたが、この村の2名が首謀者として死罪に。英雄。明治22年の水害で大被害を受けたので、村は村外地主に領有されたとか。悲劇。

・国道沿い『山儀商店』ではジビエ肉が売られている。『川よし』といううなぎの名店がある。他にも店舗が多い。バッティングセンターまである。


・鮎川。下鮎川(右岸)は上富田町、鮎川(中心は左岸)は田辺市(旧大塔)と行政区分が分かれる。古くは愛賀・相賀と書いた。アクセントを含めてきちんと読み方を知りたい。地名の由来はごく普通に川が合う(富田川と内の井川)アイカワからという。旧大塔村の中心地。なお旧大塔村は大塔山(1121m)に至る山深いエリアで、はるか奥まったところに鮎川や愛賀合、熊野(ゆや)といった名の集落がある。この鮎川(川の名でもある)の存在が合川を鮎川に変えたという人もいる。その人はこの変更をあまり快く思っていなかった。

・富田川を渡った県道221号線は合川ダム(ごうがわ:正式には殿山ダム)経由で百間山(ひゃっけんざん)渓谷や日置川町へ、分かれて県道219号線では富里温泉乙女の湯に通じる。別項で。221号沿いには『丸六本店』という金山寺味噌の専門店があり、無添加で好評。

・上富田エリアから麦粉森山(むぎこのもりやま:619m)が目立つなどすでに山は見えていた。しかし見えるということは川沿いが少し開けていて山頂がやや遠いということだ。しかし鮎川を過ぎる頃から左右に急速に山が迫ってくるので、山の頂が見えることが少なくなる。いよいよ本格的に熊野路に入ってきた感がする。

・『道の駅ふるさとセンター大塔』は富田川を見下ろす高台にある小さな施設。軽食もあるそうだが未食。夏には眼下の河原で水遊びする地元民ファミリーが。すぐ北に”茶屋の壇”があり、小栗判官と照手姫が立ち寄ったと伝わる。やはり近くに鮎川温泉『黄金の湯』があったが休業中。旧大塔村はまもなく終わり、旧中辺路町エリアに入る。

北郡(ほくそぎ)に入る。大字。バス停近くに少し民家があるが、ほんとうの集落は奥まった高台にあって国道からは見えない。熊野古道中辺路の北郡越えという高低の少ないルートが通っていて、集落はこれに沿っている。鮎川の、のごし橋あたりから歩くといいが、清姫の墓へ行くには65分かかり、プチ古道歩きには長いか。

・北郡の読みは難問中の難問。由来も難解。お手上げなので、「紀伊國続風土記」の信憑性の薄い記述を掲載してお茶を濁しておく。「当村は元禄の頃までは真砂村の枝郷であった。村の中央田地の字に保久曾耆(ほくそぎ)というのがある。村名はこれより起こる。名の意味は火草木(ほくさき)で柴薪とすることができる木が多いことからその名があるのであろう。曾耆に郡の字を借りて用いる事は詳らかでない。郡は割の誤りでもあろう。」



清姫の墓付近から西谷川と富田川合流地点を:清姫はここに身を投げたという:撮影は妻


真砂(まなご)に入る。大字。全国的に白い砂や石を神に奉納する習慣がある。大きな石を納めたり、〆縄で結界を張った神域に敷き詰める。その白い砂や石を玉石とか真砂(まさご)と呼んだ。山から落ちたばかりの石はゴツゴツして使えない。川で磨かれ海で揉まれた丸い石がいい。マサゴがマナゴに転訛するかどうかは知らないが、西谷川と富田川が合流し河原が広いこの場所で、美しい石を探すことはできそうだ。真砂は崖沿いの狭い平坦地に張り付くように並んでいる小さな集落。ただ国道からだけでは全貌はわからない。旧道を行くと見える。

・富田川では、少なくとも江戸時代末まで、河口からここ真砂まで舟運が通じていた。

・真砂は安珍清姫伝説の清姫の生地。ここで安珍と出会い、悲しみに身を投げたという淵や彼女の墓がある。西谷川が富田川に合流する地点。富田川の眺めがいい。妻は「こういうところで育った娘さんを騙しちゃだめだよね」と言う。「ピンカートンが蝶々夫人をたぶらかしたのと同じ」と。浄瑠璃などでは清姫は逃げる安珍を追って蛇に身を変え、安珍を道成寺(どうじょうじ)に追い詰めて焼き殺すと言うストーリーになっている。道成寺があるのは遠く日高川水系なので、山また山の地を追いかける情念が物凄い。ここ真砂という清姫の生地では、その怨霊系の清姫像とは違う初心で清らかで哀れな少女のイメージで伝えられていたそうだ。しかし中央で育ったイメージがやがて逆輸入され、清姫は当地でも怨霊化していったか。

西谷。大字。国道から逸れ西谷川をさかのぼると4,5分で一願寺(福巌寺)に着く。思いがけず清々しい里の清々しい寺だ。村が生きているから信心も生きている。時にお寺カフェも開かれるようだ。その一願寺は実は清姫の菩提寺だという。参拝して初めて気がついた。ただしこの寺に描かれた安珍清姫の絵物語(ごく新しい時代のもの)は、一般に知られる蛇型怨霊の清姫の姿をしている。結末にはめでたしになっているが。

・西谷を取り囲むようにそびえる山を北にさらにさかのぼると中辺路の別ルート潮見峠越えと出会う。ただし車道はきわめて狭窄で勧められない。国道に戻ろう。


一願寺の絵物語


・清姫の墓は北郡越えの古道が平地に出てくる場所なのだが、隣に『ねむの木食堂』という佳い飲食店がある。元は『清姫茶屋』だった。地元野菜など使った量も満足なランチなどメニューも各種。カフェ利用もできる。「朴」と同経営。水、2・4火定休
。巡礼に加えてこの店そのものを目的とした客で賑わっている。

・真砂から滝尻に向かう右岸に大規模な深層崩壊の跡があり、今も工事中。2011年(H23)9月の台風による大雨被害だ。ここでは人命被害はなかったが、国道は一部付け替えを余儀なくされた。右のgooglemapからの写真はその崩壊を斜め上から写したもの。国道から見ると巨大な土砂止めだが、崩壊全体から見るとミニチュアのようだ。そしてこの失われた土石や樹木がすべて富田川に流れ出たことを思う。紀伊山地に住むということはこういうことだ。しかし実は日本列島がそういう場所だ、ご存知の通り。




















・滝尻(たきじり)に着く。駐車場は少し先の橋を渡って右側にあり広い。もう少し近い場所にバス専用駐車場があり、WCがある。富田川沿いに『古道館』という資料館があり、ここでは古代衣装が借りられる。例えば女性用の市女笠(いちめがさ)を借りると着付け込み一時間着用で2500円。売店『あんちゃんの店』があり、茶屋『滝尻茶屋』もある。その奥が滝尻王子だ。

ここから先の行程は続きに書く。




滝尻王子跡


続く  


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2020年12月03日

紀伊半島フィールドワーク:国道42号線コース3:道の駅すさみ〜串本・橋杭岩


「紀伊半島フィールドワーク」

国道42号線コース3
:道の駅すさみ〜串本橋杭岩


・紀伊半島を廻る国道42号線に沿って進むライトなフィールドワークです。

・決まり事と目次は最初のページをご覧ください。

大字(おおあざ)(あざ)は進行の目安になり、また地域の重要な歴史が潜んでいることもあるので赤字にしました。(すべての字を掲載しているわけではありません)

・お好きな地図(国土地理院地形図、googlemapなど)を伴侶にお読みください。





橋杭岩ライトアップ:もっと素朴な照明でも中上健次さんが嘆いた。これはこれで美しいと思うのは、私が紀州人でないからか。


串本海中公園の海中展望台


◉『道の駅すさみ』〜和深
・『道の駅すさみ』のすぐ先に白亜の『カフェPanorama』があるが今のところ縁がない。一日二時間営業と聞くとやたら行きたくなるのはなぜ。


・江住の集落があり、江住駅がある。未踏。江住の由来も漢字そのまま入江に住む意味かもしれないが少し疑問が。江須之川の隣が江住。岬は江須崎。エスが語幹のように使われている。ならば江に住むというのは当て字かもしれない。
ではエスとは何だ。まさかイエスではない。フロイトやユングのかけらをかじった私は無意識に荒唐無稽な連想をしてしまう。

里野は大字。字は宇の平見中平見大平見と続く。いずれも平坦な場所なのでそのままの地名由来と思う。推理するに、地元民の視界ではなく大辺路巡礼の視点から作られた名称か。”宇の”の意味が気になる。ひさし?屋根?


・三つの平見は海岸段丘上の平坦な地形なので、水利はきびしそうに見える。事実水田は見当たらない。畑地は多い。地下(ぢげ、じげ)に入ると小河川沿いの沖積地が細長く続き、ここには水田がある。地下という土地の呼び名は紀州に多いが、「元々私らが住み着いた場所」的なニュアンスを感じる。後から来たあんたらはあっちに住んどき、という排他性があるかどうかは土地による。



里野海岸、右奥の建物が『マルカン』。その店横に小さな駐車場がある。


・里野の海には江戸時代に船が多数浮かんでいたというが、今は皆無ではないか。入江には突堤や港湾もない。その分、白砂と遠浅の海が美しい。調べてみると夏期には海水浴場になるらしい。もっともだと思うが、それなのに駐車場もシャワー設備も無いようだ。浜の前の『マルカン』のラーメンが気になっている。が、この店の営業時間も短い。

・里野はすさみ町の東端。その先は串本町和深。串本町に入ってすぐに宿が二軒あって目立つ。一軒は国道沿いの高台に『ブルーマーメイド』というコテージタイプ、もう一軒は眼下の小さなビーチに『ビーチテラス』という白い建物。ドミトリー部屋もある。周囲に人家もなく事実上のプライベートビーチ。ただし石が多い。

雨島という字に小さな港湾と陸揚げされた4,5艘の小さな船が見える。和深の最西端の集落。眺めの良い平坦な磯場で、釣りをしない私には釣りやすそうな風景に見えた。でも釣具店の案内を読むとかなり難しい磯らしい。素人はうかつに断定してはならない。わずかに車を停めるスペースがある。

・大字は和深。JR和深駅は海岸の目前にあって海風がまともに当たる立地。線路を通すために地盤を盛っているが、駅裏の川沿いなら標高は2,3mしかない。海が敵ならば駅を最前線にして集落は北方向の奥地に潜んでいる。すさみ町の口和深の項で触れたが、和深川沿いに和深の谷は細く深い。水田もある。しかし人家が絶える場所まで遡っても標高22mほど。湾内の水深が深いとも思えない。「続風土記」のいう和深地名の”海が深い”由来には納得できない。やはりその昔は湿地が入り込んでいたか。しかしこの標高の低い浜辺〜谷間が元々の和深。これもまた地下(ぢげ)だ。






・一方、その谷の方向と直角に、つまり東西にも町は広がっていて、段丘の上に家屋が建つ。少しばかり畑地もある。標高は35~45mの範囲だから、この両エリアは南海トラフ地震の大津波にも安心。西側など家屋も整頓されて並んでいる。私のような元都会住みから見れば(その元をたどればイナカ人というか漁師町生まれだが)標高の高い住宅街の方が住みやすく見える。しかしあくまで中心地は低地の川沿いなのだろう。古くから人が住み、漁業を活発に行い(もちろん海は単なる敵ではない。)、水田耕作に有利な川も流れている。神社や寺も谷にある。墓地は高台にあった。

・和深漁港は集落から少し東に離れた小さな入江に整備されている。私は車をうまく港に進入させられず一瞥しただけなのだが、あまり船はいなかった。午後だったが出航していたのかもしれない。古い地図が見つからないので推測だが、国道42号またはJR線路の拡張整備のために移動したのではなかろうか。南紀熊野ジオパークのあるあたりを散策すれば旧港の痕跡があるかもしれない。

・追記。その後ジオパーク看板まで行った。集落に広場があって駐車できた。移動販売者の女性が地元の女性とのんびり会話していて温かい。田辺方面のホームは小さなトンネルをくぐるのだがこれが佳い。ホームからの眺めも。海まで進むと、どうやら堤防状に整備されていて旧港の面影はなかった。なお現在の港に5,6艘の船が見えた。



田並劇場外観


◉和深〜田並

・この辺りの熊野古道大辺路は海岸沿いを通っていた。波かぶる難所もあったというが特定できていいるとは限らない。しかしここから先には新田平見道(にったひらみみち、石畳残存)という名が残っていて、海岸段丘上に古道が残っている。未踏だが、国道からも近いので少しは歩いてみたい。その後の古道上には富山平見道(石畳残存)などもあって、大辺路ファンには嬉しい場所だ。地名では安指(あざし)、九九平見(九ノ平見)、赤瀬田子(大字)、元峰平見中平見を通り、江田浦に着く。田子(たこ)は蛸だと思いたいが田子川沿いには水田があるのでこの説は劣勢か。


・江田海岸には双島(そうしま)という景勝地があり、国道から見える。双島にはワンジュという蔓性の大木が繁っているという。ダイビングや釣りのメッカ。その手前の海岸には”サラシ首層”と物騒に名付けられた岩塊。転がっているように見えるが、実は独立せずに地盤につながっている。江田海岸にもみごとな褶曲が見られるなど、ジオパークとしてこの辺りは絶好のポイント。双島前ドライブインの廃墟化が残念。ちなみにこのGS併設のドライブインは『シーサイドサンワ』という名で、1970年前後から40年ほど続いていたらしい。



双島とサラシ首層。後者はもう少し西側の方がよく見える。廃ドライブインから。


江田集落では、西側の国道沿いで集落の入り口に当たる場所に徳大明(とくだいみょう)神社が建つ。産土神だろうがまるで道祖神のような場所だ。小さいながら村をまもる気概の塊のような赤い鳥居が目立つ。この前に港があったらわかりやすいが無い。小さな船が繋がれている場所は浅い入江の反対側の細い突堤だ。港の変遷史を知りたい。近くに車の駐車スペースがなくて残念。伝聞だが、この神社には丸い石が奉納されているそうだ。紀伊半島には多い風習。とはいえ全国の神社でも見かける光景だ。例えば北陸白山比咩神社では力石として使われたという掲示があったが、いかにも持ち上げにくそうな丸すぎる形の石もあった。私には少し持論が芽生えているので、いずれ書きたいと思う。神社の先の『八瀬(はつせ)寿司』が評判高いが未食。江田集落は国道の奥にあって水田もある。



田並の古い看板


田並(たなみ)漁港があるのは字野なぎ。ダイビングショップが二軒見える。これを過ぎると田並集落に入る。田並は古座川の一枚岩のちょうど南に当たるのだが、山に阻まれ互いを結ぶ車道はない。

・地図を眺めると田並川沿いの谷は比較的開けていて、水田の多さが目につく。まさにそれが地名の由来か。ただし安土桃山時代の検地帳には田弁の文字が見える。海や川沿いの低地の面積は周辺ではもっとも広く、そのためか人口も多くかつては繁栄した。

・この海はサンゴ生育の北限に近く、サンゴを焼いた灰を石灰として生産していたと聞いた。ふと、石英を大量に含む白良浜の砂をガラス材料として掘っていた白浜を思い出した。それぞれどのような業者が実行していて、その業者は今はどうなっているのだろう。責めているのではなく、歴史的に推移を知りたいのだ。

・田並には境界争いや大火、サエラ(=サンマ)漁船の遭難、津波被害など歴史上の困難の記録は多いが、それでも生き抜いてきた町。ハワイなどへの移民が多く、その仕送りで豊かになったという。住民によれば、銀行や商店など都会にあるものは一通り揃っていた時代があったのだという。またハワイの漁師との交流から生まれたケンケン漁を日本に伝えたのも田並の漁師だという。

・地図を見ると田並の町中の道はきわめて狭い。どう見ても漁師町だ。調べてみると昭和44年の国道改修の際に旧田並漁港はなくなり、少し離れた西側に現在の田並漁港を作ったそうだ。
とするなら旧港の位置は川口の近くだろうか。少し歩いてみたい。

・田並駅前に『田並劇場』という魅力的な空間がある。移住者夫婦が手仕事で閉業中の元芝居小屋をリニューアルした。映画上映やイベントなどの際にはカフェもオープン。→HP ここでも移住者が伝統や歴史を大事にしながら新しい風を吹かせている。



串本海中公園で孵った子ガメ


◉田並〜串本(橋杭岩)

・田並から有田に通じる旧道大辺路は飛渡谷道(とびやたにみち)と呼ばれ、一部が世界遺産に。未踏だが石畳の道も残存。有田との境界争いの歴史を反映して、境界石が立っているそうだ。

・次の集落は有田(ありだ、駅名はありた)。目前に立派な有田漁港と有田湾。江戸時代にカツオ漁が急発達し、近在の漁師たちと境界争いが頻発したという。紀伊有田駅は有田川がうがった谷の奥にあるが、川に沿ってさらに奥まで水田が作られている。紀北の有田市などとの混同に注意。田が在る、のではなく、在る田、の語順になる理屈は何だろう。漢文の素養の効果なら、名付けた時代はある程度新しい。ちなみに紀北の有田(在田)の元は荒田であるとの説がある。

・有田川上流には吐生(はぶ)の滝がある。未踏。小さな滝だが、写真を見ると滝と祭祀とが一体化しているような神聖感が。午前中に詣って滝水を飲むと婦人病や腰から下の病気に効くそうだ。

・田子、江田、田並などこの海岸線の集落は車道で(多くは山道ですら)北側に抜けることはできない。国道や国鉄が開通するまでは船または険しい大辺路を歩いて東西の他郷に赴くことしかできなかった。言い換えれば船の威力は凄いとも思う。

・逢坂山隧道を抜けると『串本海中公園』。水族館はウミガメの飼育で有名。他にも見所は多いし、海中展望台までの道を歩くだけでワクワク。海中の透明度も高いので、併設のダイビングパークを利用して潜るのも魅力。『エビとカニの水族館』、『エネルギーランド』、『クジラの博物館』、『樫野崎トルコ記念館』のそれぞれと共通割引入場券あり。


・この公園の場所は錆浦(さびうら)。続いて東雨(あずまめ・弘法大師の伝説)、高富(虫送り行事)。ここまでは大字高富。この先は二色。二部(にぶ:丹生だろう。)、二色(にしき:丹敷?)などという趣深い字を通過していくと中ノ島が浮かぶ港(ふくろみなと)。白浜町にも同じ名の細長い入江があるが、こちらは袋の形が丸い。
このあたり海岸線から灯台の立つ潮岬がよく見える。砥崎という岬が潮岬を見えなくすると串本は近い。

・高富の国道沿いには尾鷲(おわし)牧場があり、少し離れて『尾鷲牛乳直売所』がある。紀南には珍しく地場の牛乳生産をしている牧場。低温保持殺菌をしていて美味しくて安い。地場だけに夏と冬とで味が変わるところが良い。白浜・田辺などの一部スーパーでは曜日限定で買える。またこの牛乳を使う飲食店はうまい。






串本。袋集落を過ぎると国道は一挙に南下し、ようやく串本の平坦な市街地に入る。白浜空港から80分見ておけばいい。高速を使えば60分。潮岬に行く道がまずあり、直後に紀伊大島に向かう道が分岐する(潮岬にも東回りで行ける)。そしてUターンするように北上する。

・串本市街地はかつて島だった潮岬との間に生じた砂州上にあって道が狭い。そのため国道は中心地を避けてぐるりと回って先に進む。駐車は串本駅周辺で。駅近くには『儀平』という和菓子屋や和食店『満口』(未食)がある。町の探索はそこから歩いて戻るといい。

・先に進むと右側に区画整理された町が続く。一歩入れば紀伊大島が目の前だ。先に進むと港湾や体育館、『大江戸温泉物語』などがある。つまりこの通りは埋め立てをして生まれたエリアだ。そこに『TSUBAKI COFEE』がある。倉庫を改造したアメリカンな建物がおしゃれ。コーヒーやデザートが美味いし、時期によるが軽食もある。その場で作るピーナツバターも安くて美味い。糖類無添加。






・埋め立てが始まったのは大正時代。昭和30年以降には大規模になった。その前は下浦海岸という白砂青松・遠浅の景勝があったそうだが、今は完膚なきまでに消え去っている。公共施設や港湾も含めてこの埋め立てが串本の発展を支えたことは間違いないが、今となってはとても大切なものが消え去った事になる。日本の近代化とはそういうことだと私は思っている。「下浦海岸道路は昔は道らしきものなく、只海浜を伝い歩いた・・・」(『串本町誌』)


・串本の詳細や潮岬・紀伊大島はまとめて別項で書くが、ここではクシモトという名前について一言。「串」という字だけで地理院の地形図で検索をかけてみると、全国のおびただしい地点に串の字が使われていることがわかる。まだすべての地点の地形図をじっくり眺めたわけではないが、使われた地形の大多数は二つに大別できることに気づいた。一つは岬、小半島に使われている。二つ目は内陸部で、川や平野・盆地に比較的近い場所の山付近に使われている。海と山、両方に使われていることから、仮に同じ意味だとすると、なかなかおもしろい謎が生まれる。もう少し考えたい。「続風土記」はここ和歌山県串本については”越”の意味だとする。あながち間違ってはいないかもしれない。

・すぐに『道の駅橋杭岩』に着く。とても賑わっている。橋杭岩が目の前という絶好のビューポイントだから。年末のライトアップも美しい。でも客が多過ぎるせいか、全体にホスピタリティーの不足を感じる。ただし尾鷲牛乳のソフトクリームなどを売る一角はローカル色があって接客も温かい。トコブシ煮などあれば買い。道の駅に用事がなければわずか手前の海水浴場駐車場が静かで良い。橋杭岩が遠望できるし、紀伊大島の眺めも堪能できる。

・橋杭岩(はしぐいいわ)という奇岩奇勝は百聞は一見にしかず、見ていただくのが一番良い。その成因についてはここで詳しく書くことは控える。ただ、周囲が砂岩や泥岩であるにもかかわらず、橋杭岩は火成岩であると言うことを言うに留める。いずれ紀伊半島の火成岩の貫入について素人なりのラフスケッチをしてみたい。なお、橋杭は文字通り橋脚を表すととるのが自然な解釈だが、橋を喰うととれば、別項で書く太地に棲むと言う岩を喰う魔物の伝説にたちまちスポットライトが浴びて面白い。

鬮野川(くじのかわ)。橋杭岩のある場所の大字は鬮野川。私はこの漢字は書けない。拡大する。




橋杭岩:手前の岩は、これまでの津波等で橋杭が壊れて転がったものだという

※以降の行程は別項で。発表時期は未定。本ブログとしては次に中辺路を扱う。  


Posted by gadogadojp at 20:00Comments(0)フィールドワーク

2020年12月02日

紀伊半島フィールドワーク:国道42号線コース2:すさみ〜道の駅すさみ


「紀伊半島フィールドワーク」

国道42号線コース2
:すさみ〜道の駅すさみ


・紀伊半島を廻る国道42号線に沿って進むライトなフィールドワークです。

・決まり事と目次は最初のページをご覧ください。

大字(おおあざ)(あざ)は進行の目安になり、また地域の重要な歴史が潜んでいることもあるので赤字にしました。(すべての字を掲載しているわけではありません)

・お好きな地図(国土地理院地形図、googlemapなど)を伴侶にお読みください。





『すさみエビとカニの水族館』の正月ディスプレイ


アマヤドリ岩?


◉すさみ〜婦夫波(恋人岬)
すさみを出ると小さな浜があるが名前がわからない。工場だけがポツンとあり、尾花組生コン工場とある。ここで石灰石を採取しているわけではない。工場のすぐ先に大辺路への入口がある。後述の西浜から入っても良いが、ここから登った馬転坂(うまころびざか)付近からの眺望は圧巻らしい。白島隧道と覆道(シェード)が連続し、次の浜が見える。港はない。紀勢本線の馬越トンネル出口も近く、ほんのわずかな距離を国道42号と並走するが、鉄道の軌道は高くほとんど見えない。すぐ先にごく小さな集落がある。大字口和深字西浜。このあたりは山と海との距離がきわめて近いため、旧道らしき小道が崖の上に向かって通じているのが見える。崩壊続く崖なのでスリリング。

西浜の民家の手前に山に入る道がある。紀勢線がすぐ横に見えるギリギリ1車線程度の舗装道路だが、途中で地道の古道が別れる。熊野古道大辺路(おおへち)はここから海岸を避けて内陸に入り、タオ峠、和深川王子を過ぎたところから長井坂(長柄坂)が始まる。往時は枯木灘の眺望が良かったはず。見老津付近で古道はようやく海辺に戻る。
なお、タオについて、”『たわむ」を地元では「たおる」ということから、タオの峠という名前は「なだらかに起伏した峠」を意味しています。”と「わかやま歴史物語100」で解説されている。私は峠の別称がタオなので馬から落ちて落馬しての類の重複かと思ったが間違いだったようだ。

口和深の集落は和深川が削って土砂を溜めた細長い谷に沿ってある。集落は主に右岸(北側)にあって、左岸は丁寧に作られた水田。和深という地名は串本町にもあり、やはり川(これも和深川)によって土砂が堆積した海沿いの細長い谷の集落。さてワブカとは?フカはサメだろうと以前は思っていたが、地形の類似が気になる。地名がつけられた時点では入江があったのか。日本では他にワブカという地名は見つからない。なおアイヌ語でワは岸辺。また、口は和語で入り口、手前の意。紀南では口熊野のように”口”をよく使う。


・次の入江に行く前に国道は丘陵の間をすり抜けるように走る。その海側の丘陵に黒潮台という別荘地があり、空き地多数。山側にも開発途中で放置された別荘地がある。その放置された別荘地入口の向かいに駐車スペースがあり、海岸に行ける。干潮時には天鳥の褶曲(”フェニックスクリフ”)と呼ばれる奇岩が。泥岩砂岩互層がプレートからの圧力でほぼ180度みごとに屈曲している。未踏だしぜひ見たいが足元は悪いようだ。

黒崎海岸、その先はアマドリ海岸と呼ぶそうだが字でもなさそうで境目がよくわからない。いま天鳥と漢字表記するのはバス会社が停留所を漢字表記したからだと聞いた。人家もないそのあたりの風景は凄まじく、枯木灘という語感がぴったり。山肌も荒れている。広い駐車スペースあり。海岸に降りる階段はあるが歪んでいるし下まで届いていない。国道からは見えないが山側に珍しく池があり、今ここに太陽光発電パネルが建設中。昔のゴルフ場建設ラッシュ時の山野の荒廃のようだ。すさぶ海岸に荒んだ山野をさらに広げる策。
管理は大変だろうが、ありのままのこの荒々しい風景を好む人は多いだろうに。

・黒崎付近に橋が架けられていて、渡るとすぐ右側の空き地に密入国を警戒する看板が。その右の道を下ると磯まで出られる。車高の低い車は危険だと「釣太郎」の動画は教えてくれる。つまりここは磯釣りの重要なポイントだ。駐車スペースがあるので、車に乗ったまま波打ち際まで行けることになる。

天鳥(アマドリ)はもとはアマヤドリだという。ハングオーバー気味の断崖が国道に迫っていて必見。ここで雨宿り?目前の名切崎(波切りか)を小さく周回する遊歩道?旧道?は波浪に削られ通れなくなっている。
惜しい。






・すぐ先に『道の駅イノブータンランド・すさみ』がある。王と王妃はいるがどうにも活気がない。高速道路ができて、同じすさみの江住の道の駅に客が集中しているのだろう。しかし無人の休憩室のwi-fiはサクサクで便利。トイレも清潔。そこに長野県から九日かけて自転車旅をしている兄さんに出会う。どこで働いても空気を読めと言われるのが苦痛だと。わかる。別の人間になって働くとどうにかなったと言ったがこれはこれでモラハラ説教臭かった。反省。

・道の駅の山側には牛の飼育をしているくろしお牧場。国道からは見えない。和歌山県畜産試験場の施設だ。どこの市場に出荷しているのだろう。


・道の駅の先の風光明媚な位置に空き地があって、イノブータン大王が釣竿を持って立っている。大好きな場所。この奥の岩場は高浜海岸千畳敷と呼ぶそうだ。千畳敷に降りずに岬をぐるりと回り、恋人岬側で国道と合流する歩道がある。黒島隧道開通前の道か。




イノブータン大王とワタクシ:撮影は妻


・話は逸れるが、国土地理院の地形図で試みに”千畳敷”を検索してみると、青森県から八丈島まで17項目ある。他にも、前述の志原千畳敷のように検索でヒットしない呼称も多いだろう。”銀座”のようだ。最初に”千畳敷”を名付けた場所はどこだろうか。

・トンネルを抜けるとすぐ海側に駐車スペースが。黒島の展望所。黒島は沖ノ黒島と陸(おか)ノ黒島の二島で、前者にはソビエトという名の岩礁があり、後者は干潮時に砂州で陸と繋がる。ソビエトは漁師が名付けたとも言うがよくわからない。そびえたっているわけではない。近くの海面がコルホーズと呼ばれていたら一層歴史的郷愁を誘うのだが。釣りに好適な岩礁らしい。二軒の渡船宿が一日交代で客を運んでいると知ってそう思った。壮大な名前の割に足場が小さいのだろうけれど。



『BUSH』からの婦夫波:妻の撮影


・すぐ先が恋人岬。婦夫波(めおとなみ)または合掌波で有名。夫婦という語順でないことに注目。江戸末期の頃から悪化した日本社会のミソジニー化より前に命名されたのか。岬名も婦夫岬にすれば良いのに。ともあれ、陸ノ黒島で切り分けられた波が砂州上でめでたく両側から打ち寄せて出会うタイミングに訪問できればあなたがた夫婦いや婦夫の運は絶好調に違いない。
私たちは80%くらいの完全な波を見たぞ。

・恋人岬に『BUSH』というカフェがある。展望台と店の駐車場が共通。調理の腕が上がったので窓からの展望だけが売りの店ではもうない。ピッツア窯あり。子供ルームあり。
カップルはぜひカウンターへ。地下にアウトドア用品のセレクトショップがある。



見老津駅からの風景


◉見老津
・大字見老津(みろづ)のエリアへは前述の高浜からすでに入っている。
長井では長井(長柄)川の河口にこれも前述の大辺路の長井(柄)坂が終盤の下り坂を終えて海に出て来る。このあたりの美しい海岸の名称は不明。とりあえず見老津海岸と呼ぶ。

・見老津駅の立地がなんとも素晴らしい。全国でも有数の駅からの眺望ではないか。ホームから枯木灘とその先の太平洋がドカンと見える。あまりに海が青く光るので近景と海とがうまく同時にカメラに写らない。いや腕のせいか。

・駅舎内に『のんびり屋』というカフェができていて居心地がいい。コーヒーやケーキで一服を。雑貨もある。すさみ町が駅舎を借りているそうだ。良い試みなので応援したい。

・駅近くの国道海側、堤防から石垣を組んで建てた民家が佳い。元はうどん屋だったそうだと駅カフェのママさんから。そういえば長井川河口の先に見える複数の民家の石垣も精緻。(その先には白石神社があるが未踏。
)素晴らしい技術を持った職人がいたのかどこからか呼んだのか。うどん屋民家は今は使われていないようなので、私がお金持ちなら欲しい。住みたい。ママさんにそう言ったら、他にも時々そういう客がいるが、持ち主は売らないそうだと言われた。好事家は私だけではないことがわかった。

・長井に駐車スペースがほしいが、見老津港まで行けば停められる。
風光明媚な見老津港は戎島に守られた小さな良港。大正時代からカツオ漁が盛んになった。カツオ一本釣り漁船が47艘あったという記録がある。船も多く今も活気を感じる。

・集落内に鰹節製造の「匠創海」という会社があるが、カツオはベトナムで漁獲し、鰹節に加工して日本で削っているそうだ。ナマのカツオを使うのが大切だと。

・海外への出稼ぎや移住者はこの町でも多かった。地名のミロの由来はまったくわからない。同様の発音では弥勒しか思いつかない(紀北には箕六あり)が弥勒仏の伝承はないようだ。奥地では水晶を産したと聞くとイメージも良く、好きな場所だ。



見老津の元うどん屋



日本童謡の園の鳩ぽっぽ像


◉見老津〜『道の駅すさみ』
江住(えすみ)方向に向かう。
国道の『日本童謡の園』という表示で右折する。見通しが悪いカーブなので慎重に。曲がってから左へ行くと集落への道、まっすぐ右の道を進むと公園Pに着く。
駐車場は広く、WCや自販機。周囲は芝生でその奥は太平洋の絶景。

・1987年完成の『日本童謡の園』は見ておきたい。
1)たくさんの童謡の碑や像があり、近寄ると歌が流れる 2)公園からもその先の遊歩道からも景観が素晴らしい 3)荒れていない 4)先端までは車椅子でも通行可 5)先端には海岸に下りる階段があって、そこから陸繋島の江須崎まで徒歩で行ける 6)そこでは海遊びもできる(トビには注意) 7)江須崎は遊歩道で一周できるし灯台や神社も。大潮・満潮に注意。  
 なお江須崎にも公園にも飲食店はない。また、冬場は北西風が強いかもしれない。


江須之川漁港は国道に戻って走るとすぐの小さな漁港。現在はここを本拠とする専門漁師は一軒だけとか。しかも高齢。隣の江住漁港から来た漁師が教えてくれた。渡船を営む彼の持ち船のうち一艘はここに係留しているのだとか。ただし陸に揚げている小漁船が複数見える。砂浜から東の港へとぶらぶらと歩いたが人の姿は彼だけだった。






・まもなく『道の駅すさみ』。大きな複合施設でいつも賑わっている。高速道路終点(すさみ南IC)からまっすぐ降りて正面だから便利なのだろう。向かって右に『枯木灘鮮魚商会』の鮮魚店がある。とれとれの魚が持ち込まれ、切り身もあるが一匹ものなら捌きもしてもらえる。(※現在コロナで休業)

・道の駅店内には広い売店があり、野菜、イノブタ肉やジビエ、魚の干物など現地の食材が買える。土産物の種類も多い。奥には簡易なカフェスペースがあり、その奥に眺めの良い食堂がある。すべて夜は閉まっている。(道の駅のすぐ先にイノブタが食べられる『みき食堂』があるが未訪問。)総じて気が良いが、忙しいときは無愛想に感じるスタッフがいるのは紀南あるある。


・隣接して『エビとカニの水族館』があり、私たちはひいきにしている。マイナーな生き物がたくさん。入り口にはウミガメに餌もやれる。経営が苦しいのでぜひ来館を。→HP

・次号に続く。



『エビとカニの水族館』:妻の撮影
  


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2020年12月01日

紀伊半島フィールドワーク:国道42号線コース1:白浜〜すさみ


「紀伊半島フィールドワーク」

国道42号線コース1
:白浜〜すさみ


・紀伊半島を廻る国道42号線に沿って進むライトなフィールドワークです。

・決まり事と目次は最初のページをご覧ください。

大字(おおあざ)(あざ)は進行の目安になり、また地域の重要な歴史が潜んでいることもあるので赤字にしました。(すべての字を掲載しているわけではありません)

・お好きな地図(国土地理院地形図、googlemapなど)を伴侶にお読みください。





志原海岸ベアーズロック:クマが見えますか


◉白浜〜椿

・白浜空港から才野、栄、富田とフラワーラインを使って東に進み、国道42号と出会って右折。この交差点をまっすぐ進むと高速道路(無料)だが、トンネルの連続でつまらないから、先を急ぐとき以外は使わない。旧白浜町エリアについては別項で。


。42号で富田川を越え短いトンネルを抜けると一挙に雰囲気が旅気分に変わる。多肉植物が充実した喫茶『ジャングル』や『釣太郎』を過ぎると袋漁港。波静か。『ふくろ食堂』がボリューミーで人気(未訪問)。

・次の短いトンネルを抜けた海沿いには道路脇に少さい駐車スペースが何ヶ所かある。
佐兵衛ノ鼻。ここからは太平洋越しにアドベンチャーワールドの観覧車など白浜半島南部がよく見える。緑の丘陵に白っぽく点在する建物は黒潮台や緑光台の別荘群だ。好天なら日ノ御岬も見えるし、四国の蒲生田岬のあたりが見える日も。

見草(みぐさ)漁港。漁港は整備されているが、残る磯には情緒の名残が。車が停めやすく、釣り人が多い。WCなし。見草の語源がわからない。海草(ウミグサ)由来と仮に決めた。

・紀南の海ではテングサやアオサ、ヒジキはふつうに育つが商業化はあまりされていないのか、ブランド化されていないのか。ただ地元のスーパーでは、アオサノリとして売られる、乾燥寒天が陳列される、あるいは田辺湾岸ではヒトハメという名でヒロメを食すなど地元では消費される。海藻・海草に限らず紀伊半島ではスーパーや道の駅の地元産品コーナーにぜひ。土産物店はとても少ないから。

朝来帰(あさらぎ)漁港。江戸時代に朝羅岐と書いた文献があることからも、漢字の意味で由来を考えるのは危険。朝来(あっそ、あさご)と同源との説がある。アソを重視すると湿地、サコを重視すると狭い谷の意味か。朝=麻説や朝凪のなまり説も。

・この地の大字地名は椿。朝来川沿いに東に入り込む谷は椿谷。ツバキ(ツバク)は崖が崩れることを意味すると言う説がある。海岸の様子を見るとそれも肯けるが、それは椿に限ったことではなく、プレートが押し寄せる西日本の太平洋側ではふつうだ。



椿温泉の廃ホテル


椿温泉の海沿いで



◉椿温泉

・1960年代に一度だけ、親に連れられて宿泊したことがある。国鉄の白浜駅からタクシーに乗った。海の眺めは文句なく素晴らしい。落ち着いた温泉町で、母などは気に入ったような記憶がある。

・椿谷に温泉が湧くことが知られたのは古い。ぬるいが上質の湯で、明治時代後半には樽に詰めて和歌山市内まで運んでいたという。当時は紀勢本線も国道42号もないから、朝来帰漁港から船で運んだ。やがて鉄道は来たが、駅は椿谷の奥にあって少し遠い。今の駅には紅椿と白椿が植樹されているが、町にツバキの木が多く育っているわけではない。現在の主な源泉は海のそばにある。


・夏には小規模だが海水浴場も開かれる。砂はやや黒っぽい。


・共同浴場でもあり道の駅でもある『椿はなの湯』がある。単純硫黄泉。pH9.9. 32℃。足湯もある。ヌルヌル湯が良い塩梅だがどうも活気がない。物産も少ない。椿という土地のパワーが消えかけている。ただ、のんびりした時間が流れるこの駐車場ではエホバの証人の信者に軽く勧誘されたり、ミニバンに家財道具を詰め込んで放浪している老夫婦と会ったり、この温泉を各別荘地に販売する価格が高すぎると怒る中年男性に出会ったりして面白い。


・温泉街の裏山に開発を途中で放置した形跡があり、その裏側の谷は宅地造成されたまま。海沿いの建物は台風の被害もあって荒れ放題だ。バブル期に全盛だった椿の温泉街は今は見る影もなく寂れた。かといってさらに昔の静かな湯治湯にも戻れない。ただ、若々しくて小さな宿『XYZ』が誕生しているし、民宿『若竹』の居酒屋部門が評判良い(共に未体験)。
小さく穏やかでリーズナブルな温泉街として復活する手はないかと思う。良い湯と良い眺望を生かしたい。

・椿のマンション(プレジデント椿)は和歌山県で一番背が高いビル。99m。アドベンチャーワールド観覧車からもよく見えて白いランドマーク。
1976年築造。30階建28階の63.8平米の部屋が380万円で売られている。眺望の素晴らしさにもかかわらず、建物の老朽化に加えて南海トラフ大地震と津波への警戒、そして椿温泉の寂れ方を重ね合わせると無理もない下げ幅か。しかしこの衰退は日本社会全体の象徴、黄信号でもある。バブル的なものへの信仰を消さない限り、44年間にわたってこれより高いビルを建てられない和歌山経済の沈滞を嘆くことしかできない。多分この嘆きは間違いだ。
 
・温泉街の最奥にかつて200匹の猿を飼っていた、いや餌付けしていた公園(「椿 野猿公園」)があったが、2002年に閉園。跡地ではいまも海岸まで散歩できる道は通じている。猿はいまどこに。

・近くの少し奥まった場所に由来不明の大きな地蔵像が。付近を散歩している穏やかそうな夫婦と話をした。このあたりのマンションを別荘として利用しているそうだ。あれこれ椿の現状を聞いた後、地蔵尊について尋ねた。今まで気がつかなかったと言う。この夫婦にとっての散歩は西欧的散歩なのだなと思った。「西欧人は健康のために散歩をするが、日本人はしない」(ルイス・フロイス)
 
・野猿公園跡の先は伊勢ケ谷(いせがだに)。両サイドを標高100mを超える山に挟まれている深い谷で人家はない。しかしサイクリングロードが通じていて、地面が整備されている光景に異和感。それなのに生き物の気配に満ちている。おそらく猿だろうが、ここは紀伊半島。物の怪かとも妄想して暗くなって自転車を走らせたら怖いだろう。



JR椿駅:右側に白椿の花が咲いている。


市江漁港:対岸に繋がる車道はない。磯伝いに歩くことはできる。


◉椿〜志原海岸

・椿からしばらく国道は山中を行く。


市江(いちえ)漁港。国道から少し入るために道路などで集落が分断されていない。細い谷に細い道。わずかな耕地に恵比寿神社。典型的な昔からの漁村。イカ釣りで有名。港の駐車スペースは広い。WCあるらしいが飲食店は見当たらない。港の対岸に旅館「市江崎荘」。船で渡るのだろうか。渡船店裏の集落(目戸の谷)が隠れ里のようで少しドキドキする。入江や港の端まで来たつもりが、実はまだ先に集落があると知った時はいつもこういう気分になる。スコール降る西表島の白浜集落もそうだった。

・市江集落から徒歩15分、標高にして85m登ると無人の市江埼灯台に着く。なお、弥生土器、石鏃などが発掘された市江遺跡があると聞くがまだ調べがつかない。

笠甫(かさぼ)漁港。国道沿い。市江と同様に入江の奥にある。埠頭はない。漁船も見かけない。浜側に駐車場あり。国道沿いにわずかな集落。カサボという発音の地名は全国どこにも無い。由来は不明だが、私には紀伊半島のもののけ”カシャンボ、カシャボ”が連想される。夏には河童(ゴウラ)の姿だが、冬には山籠りをしてカシャンボと呼ばれるのだ。志原に抜ける岬越えの道があり、途中の鳥毛洞窟上に廃墟施設があるようだが未踏。そこからだと志原千畳敷が見えるのだろうが。


水木しげるさんのカシャボ:wikipedia


・間も無く食事どころ『たつのや』がある。宿も営む。魚介類から丼ものまで献立は幅広いが良心的な調理。温かい対応で店内も広い。季節には予約で鮎づくしも。
私たちはランチ利用しかしていないが、ある夕食時に店の前を通りかかったら、駐車場に車がぎっしりだった。

志原は国道沿い。ここには旧日置川町時代(古い看板に”鮎とテニスの町日置川町”とある)からの大規模なテニスコートがある。白浜町営なので1000円/hと手頃。→HP

・『リヴァージュ日置川』の温泉は椿をしのぐアルカリ泉。日帰り入浴680円。宿泊可能。

『道の駅志原海岸海来館』:みらいかんと読む。1F売店は広くはないがよく選抜された物産が並ぶ。あゆチョビ必食。冷凍ものも上質。奥に喫茶・ケーキコーナーがありプロが作っている。2Fには佳い食堂があり、たくさんのメニューを用意して賑わっている。曜日によってはイタリアンも加わる。BBQもできる。

・駐車場に車を停めて志原海岸を楽しもう。志原海岸は長い浜辺。サイクリングロードが貫く。ジオパークとして砂岩泥岩互層、生痕化石など多様。船でないと見られない場所もあるそうで、船の便もある。泥岩でできたベアーズロックはこの浜のシンボル。砂浜を行けばクマに会える。


道の駅志原海岸2Fからの眺望:クマの後ろ姿が見える


◉志原海岸〜すさみ港

日置(ひき)の町は旧日置川町の中心。市街地は国道より海側の砂州に広がる。平坦で寺社のある落ち着いた町なみだが私は探索不足。『藍の里あさもと工房』が気になる。


・県道37号や36号を使って上富田に抜けたり合川ダムを眺める道も良いが、別項で。


・日置川の川からすさみ町朝来(あさら)までは二つのトンネルを通ればすぐだけれど、ここはぜひ海沿いの旧道を通りたい。時間はかかるが絶景の連続。帰路でも良い。


・白浜側の日置大橋を渡るとすぐに左右に分岐道路があるがこれを右にとる。これが県道243号で、川を渡るまでは42号と並行しながらやや下がる。


・左手の中洲に車海老の養殖場があり、朝のうちなら直接買える。冷凍・生の両方あり。ここの車海老は近隣に卸しておらずぜんぶ東京に行くそうな。


塩野にはまもなくやや古い橋を渡ると着く。川の左岸。散歩中の方に尋ねると、ここからわずか川上に進んだあたりが塩野だと。ただし大字塩野の範囲はもっと広いと。この橋の近くでかつて塩を作っていたらしく製塩土器が出土している。

安宅。道なりに高度を上げて安宅(あたぎ)崎方向に進むと、林を抜けて海が見える。車を停めると小さな入江がわかる。名は不明。50m下には石だらけの浜辺が見える。この突端に熊野水軍安宅(あたぎ)氏の出城跡(大向出城)が。日置川河口から志原海岸まで一望できる立地。安宅氏の本拠は先述の塩野の先に安宅という地名が残る。平城跡は国の史跡。南北朝・室町時代に関心があればぜひ。私はいずれ一項目を充てるつもり。



大向出城へはここから入る。道路にわずかな駐車余地あり。先日一台停まっていたが釣り人だろう。なにげなく近づくと知らない外国語で警告音?が流れた。センサーに反応?


名立。読み不明。しばらくの間常緑広葉樹に遮られて海はあまり見えないが、ほどなく字名立。人家が一軒ありここから絶景となる。左に向かう道はオートパークひきがわ(閉鎖)跡地を経て梅畑に上るが、行き止まる。人家の脇から右側の浜に降りる地道がある。

・海食崖を切り開いた道は左手に落石防止柵、右手にかつて崩落した岩石を見ながら下っていき、伊古木(いこぎ)漁港に着く。古くは居漕と書いたようだ。今も漁船を有する。ここも大字は塩野。真上に国道が横切ってうっとうしいが、それにへこたれない荒々しいパワーを感じるのはなぜだろう。
地形のせいだろうか。

・県道を進むと国道42号へは左折の標識があるがかまわずまっすぐ進む。チラチラと海が見え隠れするがまもなく渡る潮来橋(しおき:すさみ八景の一つ)からが素晴らしい景色。少し先に駐車スペースがあるので、枯木灘(かれきなだ)眺望の好みのポイントを探りたい。


・少し下ると左手にイノブータン大王が建つ空き地がある。それ以降はさらに海沿いに下って国道と合流する。その間の太平洋の景観には茫然。

朝来(あさら)。ここはすさみ町。入江の名は不明。住宅は見えず、工場が二軒。(手前の工場の横から深く朝来谷に入れるが未踏)すぐ先に『ホテルベルデヴェーレ』への坂道が。
道は整備済み。

小泊(港あり)を過ぎて国道を進むとすぐにすさみ(周参見)の町に入る。





『ホテルベルデヴェーレ』からの眺め。ハンモックが佳い。未宿泊。



稲積島と繋がる防波堤の上からすさみの町を眺める


◉すさみの町

周参見はすさみ町の中核。よく開けた気持ちの良い土地。かつては紀南の中心地。繁栄は6世紀からと伝わる。のち木材の出荷港として、またカツオ漁など紀南の沿岸漁業の要になって近世まで栄えた。多数の村民が海外で働き、仕送りを受けて豊かだったが、いまは潮枯れしたかのように中心街はくすんだ色をしている。1950年には12000人を超えたすさみ町の人口も今は4000人余り。日本で二番目に生まれた『cafe Amazon』も閉店。若い人を留められない。


・町には知恵者がいるようで、過疎化を食い止めるために”イノブータン王国”を樹立する奇策や、八景を選定して観光客を誘う策を講じたが、大きな効果があがっているようには思えない。但しイノブタは本当に美味い。国道沿いにはイノブタ飼育業の一つ『イブファーム』の直売所がある。生協もこの肉を扱う。
ただ昨今のジビエブームは”害獣”駆除の名目があり飼育ものより倫理的に有利。その流れに負けず逆に乗っかっていくタフさが欲しい。良い飼育はなまじの天然物より美味を成すという実績とPRを積み上げて欲しい。

・すさみの平野はすさみ川と太間(たいま:絶間か)川の二つの川が作った沖積平野。白浜富田から新宮までの間ではもっとも広い平野。沿岸は黒潮が当たって波が強く、その名の通り風が吹き荒ぶ(すさむ)が、稲積(いなづみ)島が荒波を防ぐ天然の良港になっている。古老が「すさび」と発音すると書いたのは中上健次「紀州」だった。


・こんもりして可愛げのある稲積島はすべて山王王子社の境内。古くはイナヅミヤマオウジ神と呼ばれた。どこかで弁財天を祀るように改変された。日本人は昔から大切なことを上からの意向で簡単に改竄する。入江の南東に防波堤ができ稲積島までつながった。ここは歩けるし波浪が壮観だが、島に入るには特別な許可が必要。信仰のためだけではなく、暖地性植物群落として国の天然記念物指定を受けているからだ。現在の山王王子社は踏ん張って入山規制を守っているのかもしれない。

・集落の南に淡褐色の浜があり、美しい。夏には海水浴客で賑わう。その南側の温泉旅館付近に無料の駐車場がある。夏季以外はここに車を停め、町を散策できる。すさみ駅まで徒歩5.6分。駅には小さなカフェスタンドがある。最近無骨な、いやむしろ骨格だけの避難タワーができた。まず避難するのは大事。でも冬の雨風の日に津波が来たらどう凌ぐのだろう。



『Festa di salveza』の入り口


下地という字は駅前周辺。いかにも漁村らしい狭い道が通じているが、一画に『Festa di salveza』というユニークなピザ屋があり、民家を改造したおもしろい空間でおもしろい料理が生まれている。使う食材も地元産品。向かいの寺の若い住職の店なので基本は土日が休み。『なかのかわ農園』(すさみ山奥の放飼鶏園)と親交があり、絶品プリンが食べられることも。FB参照。こういう思い切った取り組みが他府県からの客を呼び、紀伊半島の地盤沈下を救うのだと思う。


・西端の丘陵上に、紀伊半島最南端と言われる古墳が。上ミ山(カミヤマ)古墳。6世紀の円墳で直径20m。徒歩5分。ここからの枯木灘の眺めが良いそうだが未踏。すさみ八景の一つになっているが、遊歩道は完備されているのだろうか。

・すさみ川の上流には琴の滝、しずくの滝があるが別項で。

・次号に続く。




すさみの海水浴場から稲積島を眺める。こんもりかわいい。左は温泉街。
  


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2020年12月01日

紀伊半島フィールドワーク〜決め事と目次と


「紀伊半島
フィールドワーク」


という名のシリーズをゆっくりとアップしていきます。

ここでは決まりごとを一括して書きます。

後半には目次があります。




◉大きな方針

・便宜上の起点や終点を白浜空港とします。ですから文中で何分と書けばそれは空港からの所要時間です。

皆さんの出発点からまずは白浜空港までの所要時間を割り出してください。なお白浜空港は白浜の主なホテル旅館、とれとれ市場、高速道路白浜IC入口(国道42号上)など行動の起点となる場所からすべて10分以内の距離です。

・車で動き、時々停車し、時々散策します。

紀伊半島は長い間日本国中央に冷遇されてきました。日本列島最大の半島なのに
横断・縦断する鉄道はありません。道路整備もとても遅れています。ですからどこに行くにも時間がかかりますし、狭小な道もたくさんあります。当たり前ですが人口が少ない場所ほどそういう傾向にあります。探検するなら小さめの車で行かれることをお勧めします。

・原則として実体験をもとにします。

私たち夫婦は2017年に紀南に移住しました。その後は二人で紀伊半島のあちらこちらに出没しています。このブログはその記録でもあります。
実際にその場に立ったポイントは、単なるビューポイントであっても駐車場の有無も含めて可能な限り詳しく掲載していきます。
ただ、未踏・未食のポイントについても明記した上で紹介することもあります。その場合私たちがまだ(行きたいのに)行けていない場所です。

・飲食店については実食しお勧めできる店を掲載します。

私の別ブログ(グルメ)へのリンクを示しておきますので、詳しいことはそちらで。

・名所旧跡の紹介だけでなく、地域の歴史や文化、集落の現状にも少々立ち入ります。

たくさんの書物やネット情報を漁っていますが、「角川日本地名大辞典」と「紀州」など一連の中上健次さんの著作からは特に多くの知見をいただいております。ただし鵜呑みにはせず、できるだけ現地の空気感から湧く疑問を重視しています。とはいえ、自分の疑問にたちまち答えてくださるだろう各地教育委員会や郷土史の研究家は訪ねないように心がけています。完全に解決してしまってはつまらないですから。でも現場でたまたま出会った方との会話は大切にしています。

・同じく、地学・地質を(ごく軽めですが)扱います。

私のような素人にとっても、紀伊半島の成り立ちや地質はとても興味が持てます。プレートに押され続けて生まれた、いや今も変化し続けているのですから。

要は、単なる観光案内ではなく、ライトなフィールドワークとお考えください。

地図が大好きな私ですが、ブログ上で地図が多くなると煩雑になります。ですので、地図掲載は最小限度とします。ご自身で各種地図を参照してください。

文章中の地名、特に大字(おおあざ)・字(あざ)については赤字で示します。標識や電柱に書かれていることが多く、車の進行上も便利ですし、その名前が語るものが少なくないからです。ですから地名の由来についての推量が多くなります。ただしすべての字を書くわけではありません、あしからず。

写真についても、たくさん掲載したいのですがなるべく絞ります。原則として自分や妻が撮影した写真を掲載します。そうでない場合は出典を明示します。

・適宜加筆修正を施していきます。

新しい経験・知見は、いちいち断りを入れずに加筆修正していきますのでご了解ください。つまり、もし幸にしてこのブログを参考に紀伊半島を旅される場合、最新の文章を読み直してくださるようお願いいたします。

なお、今日のコロナ禍によって大きく状況が変化している場合があり得ます。





◉目次・・順次増やしていきます。

円月島:妻の撮影



1)国道42号線コース1:白浜〜すさみ

2)国道42号線コース2:すさみ〜道の駅すさみ

3)国道42号線コース3:道の駅すさみ〜串本・橋杭岩

4)国道311号:中辺路コース1:白浜〜滝尻王子

5)国道311号:中辺路コース2:滝尻王子〜近野(近露・野中)

  


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2020年03月09日

新型コロナウィルスに負けるな


          ま、お茶でも一服。妻のお手前です。



新型コロナウィルスに負けるな


神戸に住む高齢の叔母が我が家に来てくださる予定が延期になりました。

毎年、義妹夫婦と楽しんでいた芦屋の桜祭りともう一つのプチイベントが中止になりました。
そのために大阪の宿を2泊分キャンセルさせてもらいました。(ほんとごめんなさい)

この2件だけで、それも私たち夫婦が支払う分だけで5〜6万円の消費活動が抑制されたことになります。

net上では、子育て世代、非正規労働者、観光業者、学校関係者、医療関係者、在日外国人、、あらゆる個人の悲鳴と怒りの嵐が見えます。また、リアルに訪問した飲食店スタッフからの「しかたないです」「なんとか耐えます」の言葉の裏に隠れる不安を感知せざるを得ません。

このウィルスの正体は依然不明ですし、再感染事例や心臓・脳・肝臓などへの障害が報告されはじめた現在は不安が増す一方。その不安を軽減する役割の政府のグダグダぶりは今や世界から心配されるレベルでむしろ不安を拡大しています。日本からの旅行者入国になんらかの制限を設けた国は85か国に達し、まだ増えます。不安が軽減されなくては、人々の冷静さや消費行動は回復しません。トイレットペーパーの買いだめ行動を責めるのは簡単ですが、マスクの供給問題一つ解決できない国に暮らしているのですから私は無理ないと思っています。買い溜めは不安のなせるわざです。不安を放置すると不況の一語で済まなくなります。

那覇市の「お肉とチーズのてだこ亭」飯塚みどりシェフから、首里城復興へのチャリティの報告が届きました。首里城焼失後どこよりも素早く動いたシェフに敬意を表します。他にも内外からたくさんの支援があり、いずれ首里城は再建されることでしょう。旗を降る人、行動する人がいて、これに賛同する人がいて、、人々は助け合って多くの試練を乗り越えてきました。

けれどこの新型コロナウイルスの流行は世界に広がってきました。イタリアでも地域封鎖が始まります。人的にはもちろん、経済的な損失も世界的になる恐れがあります。そうなると、もはや困った人を”助ける人”がいなくなります。たとえば欧州で大流行すれば、シリア難民を受け入れる国がなくなるかもしれません。

ですがただ呆然と推移を見守るだけなら脳とハートを持った人類として情けない。
そうならないように私たちができることはいろいろ考えられます。

日本ではまずは不安製造機の現政権を辞職させ、ただちに与野党合同の危機管理内閣を樹立させましょう。人々の命を最優先し、不安を軽減させる政治家を応援しましょう。新年度予算から明日に延ばせる予算をすべて収入の補償に当てさせましょう。森永卓郎さんはこの4月の1ヶ月間、すべての人々に自宅に引きこもらせる案を提示しておられます。収入保障等には12兆円あれば足りると試算されています。一考に値します。新政権ならできるかもしれません。

次にできることは、各人がほんの少し財布の紐を緩めること。バスや電車などの交通手段が心配でしょうから、通販の利用や近場限定でも構いません。大手の通販やチェーン展開の飲食店の利用よりむしろ個人経営の商店や飲食店に足を運びましょう。どこにでも労働者は働いていますから、大規模飲食店も助けたいところですが、個人店はやはり体力・余力がありません。この流行が終焉した後に個人経営の店が軒並み壊滅している状況になっていれば、その時はこの国の終焉を意味するとすら考えますので。(長くなりますからその理由は割愛します)

また、企業や商店にも腹を据えて試みていただきたい事があります。たとえば利用者が激減している航空機・鉄道やバスなどにおいては、一列、または二列を予め空席に設定し、各人どうしの距離を広げること。そしてその対策を大きく喧伝する事。たとえば個人経営レストランなら、規模に応じて1時間帯1組にするとか、2組だが席を離す、ドアノブなどは徹底して消毒するなどの対策を行い、これもしっかりPRする事。・・・ほんの一例ですが、要は安心感を政府が与えてくれないのなら、こちらがやるしかないじゃないかという発想です。

きょう、胡散臭いおっさん(by my wife)の私は、初めて会ったある小学六年の女の子に、「こんな(長い休校)経験は人生に二度とないよ。今まで敬遠していた本や映画を見ましょう。とにかく初めての体験をしましょう。他人に言われる前に自分で、楽しみながら。」などとアドバイスしてしまいました。その女の子は喜んでくれました。

考えられる手は打った上で、どんなに厳しくても主体性と好奇心と知的向上心と楽しむ心を失ってしまったら、免疫力はきっと下がるに違いありません。
煮詰まったら、ま、一服。
  


Posted by gadogadojp at 01:15Comments(0)評論・エッセイ

2019年07月18日

あかりちゃん復帰おめでとう!




いや、めでたくはないかな。

新作動画は4本あります。
あかりちゃんを知らない若い方もぜひ、youtubeをご覧ください。


https://www.youtube.com/channel/UCHP_iPauObsdYr1HBCqlj5g  


Posted by gadogadojp at 22:31Comments(0)評論・エッセイ

2019年07月12日

山本太郎さんの本気が政党政治を次のステージへ

まずは8分ほどのこの動画を見ていただきたい。

うたさんの投稿


2015年、参議院における安保法制(戦争法案)の採決のとき、山本太郎さんはたった一人で牛歩した。
それまでは、「頑張ってるなあ、太郎さん」と思っていた私の上から目線が、その牛歩からは敬意に変わった。

その上で、今回の参院選での「れいわ新選組」の候補者選びでは度肝を抜かれた。

私は以前にこのブログでも書いたが、政党政治はほぼ役割を終えたと考えている。
議会制民主主義の形式を維持するなら、近い将来に政党を禁止するしかないと。
しかしそれが実現するまでの過渡期においては、1)政党の寿命をあらかじめ定めておくこと 2)議員一人ひとりが自立した行動者・表現者・思想者として、投票を各自の自由に任せること。ただし投票までに党内でとことん議論を尽くすこと  この2点の綱領を掲げる政党を立ち上げるべきだと。

今回の「れいわ新選組」の候補者は、私の考えた近未来の政党像の2)にピタリと当てはまっている。
一人ひとりが戦う行動者・表現者・思想者であるから。
さらに加えて、全員が今日の日本国で”弱い少数者”の立場で戦っている人たちだ。
それはつまり、国民の99パーセントに当てはまる普遍性を持っている政党だ、ということだ。
99パーセントは弱者・奪われる側だからだ。
左でも右でもない、上と下の本気の戦いだとする山本太郎さんの考えは、これまでの政党では徹底できなかった潔さだろう。
候補者のプロフィールを読むだけでそのことがよくわかる。
素晴らしい候補者選びという他ない。

私は山本太郎さんと「れいわ新選組」を応援する。
50年間ずっと無党派で生きてきた私が、初めて政党を推している。自分でも驚いている。

それだけ、このままでは日本の終わりが近いという危機感があるからだけど。
  


Posted by gadogadojp at 18:54Comments(1)

2019年06月24日

スカラ・ニスカラ

スカラ・ニスカラ


スカラ・ニスカラとは
見える世界と見えない世界
バリ島の一種のことわざです。

バリの人は見えない霊を実在しないなどと決めつけません。







私たちは、自分が見えるものだけが実在すると考えてはいけない、と以前に書きました。

この”見える”を”わかる”と言い換えても同じです。


小・中学生の頃は、外向きにはなんでも知ってるよふふんそんなことくらいわかるよというフリをしましたが、
内心ではそんなはずがないことはわかっていましたので、
こっそりあらゆることを学び考えようと必死でした。
フリの中味を後から埋めようとしたわけです。


高校一年生くらいでしたか、あるとき気がついたのです。
どこか一つ高い山に自力で登ることができたら、その標高くらいの他の山の頂きは見ることができるのではないかと。
たとえ霧がかかって見ることができなくても、他に無数の頂きがあることさえ想像できれば、わたしはダメではないと。
自分で自分を救った瞬間でした。
フリの必要すらなくなりました。
それから自分の足でいくつかの山に登りました。
もちろん、自分で探した信頼できる先達に教わったことは無数にありますが、その登山道を踏み作ったのはわたしです。






スカラ・二スカラ。
たかが一人の人間が、あるいはたかが人間という種が、
この世界の全てを見ることができるはずがありません。


人におぶってもらわずに、一つ高い山に登りませんか。
霊や妖精が見えるかもしれませんし、
自分が言っていることが、誰かの都合の良いように仕向けられただけだということに気がつくかもしれませんし。

自力で小山ひとつ登ったことがない人が、
他人の考えを、ましてその存在を丸ごと否定するような発言をして良いはずがありません。
まして大人なら。

  


Posted by gadogadojp at 21:00Comments(0)評論・エッセイ

2019年04月30日

元号を使わないようにしませんか

今日という日に、どうしても表明しておきたいわたしの考えがあります。

天皇由来の元号を使わないようにしませんか。
いえわたしだって、昭和歌謡はいいなあ、などとこれからもひっそり便利に使いますけれど。
ですから、主権を持つ日本列島人みんなで時代名を決めませんか。
例えば、そうですね、白浜のAVWでパンダが生まれたらその名前にするとか。
今年は”彩浜二年”になります。
元号は中国由来の記号ですから、同じように中国文化に敬意を表することになるのでは?


日本列島の歴史を学ぶとき、
旧石器→縄文→弥生、、、、平成
と17の時代に区分するのが一般的です。わたしも高校生に暗唱してもらいました。

なぜ時代をこのように区分し、名付けるかというと、試験出題に便利で他人と歴史についてコミュニケーションする場合に便利だからです。たとえば「平安時代の作家」という言葉を聞けば、「紫式部」などと思い浮かぶからです。これを「10世紀末から11世紀初めに活躍した作家」と言いかえると「・・・」と答えを言いよどむことが多いはずです。ですから時代区分は便利なツールなのですが、それ以上のものではありません。だいたい時代区分名は後で学者が作った造語であって、清少納言が「わたしは平安時代の女よ いとをかし」などというはずはないのです。歴史は連続しています。

後で作ったのですから、時代区分の名付け方にはルールがあります。原則は”最高権力者がその政府を置いた場所”となっています。つまり地名です。鎌倉や江戸を思い浮かべてください。ただし日本列島の大半を支配する権力がまだなかった時代は”文化”の名をつけます。縄文とか古墳とかがその例です。

このルールにしたがえば、現在は何時代でしょうか。主権在民の精神をちょっと横に置いて答えると、いまは東京時代ということになります。1868年、天皇を頂点とした明治政府の中枢が置かれた東京が時代名になるはずです。

ところが、学校教育の内容は政府の意向で決まります。1868年以降の歴史学習については、天皇の名前(諡号)と事実上一致する明治、大正、昭和などという元号で区分するように強制されます。上で書いたようにコミュニケーションとしては便利ですから、わたしも時代区分の暗唱では(説明を加えた上で)採用しました。でも、さきほど横に置いた主権在民の精神を手元に戻して言えば、主権者のわたしたちの生活や人生が、明治時代に始まった近代天皇制(天皇大権)によって区分されているというおかしなことになっています。(明治より前は、天皇名=元号ではありませんでした。また、古墳時代までは天皇はおらず、中国に教わるまでは元号もありませんでした。)

わたしは教員としてではなく、大切な趣味として日本の歴史を学び、考え続けてきました。
日本列島の歴史を読み解く上で天皇制の問題は避けて通れません。わたしは歴史研究のカテゴリー内ではむしろ天皇制について強く熱い関心を持っています。他地域(国家)の皇帝制度、王制度とは明らかに違いがあるように思えてならないからです。大げさに言えば、「日本」の秘密がここに隠されているのではとさえ感じる時があります。

しかしながら、そもそも天皇という存在を認めることは、あらゆる差別に正当性を与える根拠になります。象徴天皇と定められた現行憲法のもとでも、天皇の人権はわたしたちの人権と違っているからです。これはいまの天皇(一家)への好き嫌いとは全く別の問題です。

天皇制国家としてスタートした明治政府が定めた元号制度を、いまなお政府が継続して使用し続けることにわたしは強く抗議します。
  


Posted by gadogadojp at 02:39Comments(2)評論・エッセイ

2018年12月15日

2018神戸ルミナリエ





いつもは温厚なわたくし(異論は受け付けません(๑•̀.•́ฅ✧)
が暴れまくりたいレベルの暴虐が国家の手によって沖縄辺野古でおこなわれている今日この頃ですが、両親・親族が被災した我が身として震災鎮魂の思いの詰まるルミナリエはやはり欠かせません。

今年のルミナリエは照明の意匠デザインがここ数年では一番かわいくてほっこりしました。
寄付をただ募るだけではなく、微笑ましいアイデアもあちこちに登場し、規制のアナウンスからもヒステリックさが薄れました。
また、老祥記・オリエンタルホテル・ドンクなど神戸の有名どころの屋台がずらり並ぶエリアも昨年に続いて充実していて、楽しいです。
賛否はあるでしょうが、笑顔になれるルミナリエになってきたように思います。
それにしてもあの震災のとき、
自衛隊のヘリの超低空飛行の振動で、実家の壊れた壁がボロボロと崩れてきた時や
手抜き欠陥工事では?と報道されたとたんに超高速で撤去された倒壊した阪神高速の橋脚(跡)を見た時の怒りが
今日はしきりに思い出され、つい書いてしまうのは、
上記の憤懣がたまっているからでしょうな。
すみません。

写真はあえて順不同で載せてみました。

2018年の開催は12月16日までです。



奥様撮影


奥様撮影「希望の灯」


「お金を入れると色が変わって器械?がクルクル回り出します(^^)」





奥様撮影:手前は六甲IPA。右は老祥記の豚まん。揚げたてアーモンド美味。クロワッサンサンド。中は淡路牛。この日はここで夕食。
  


Posted by gadogadojp at 13:00Comments(0)できごと災害アート

2018年07月14日

『焼肉ドラゴン』:在日家族の物語




金曜日に和歌山市で映画『焼肉ドラゴン』を観てきました。
1970年前後の尼崎「朝鮮人部落」内のホルモン屋さんのお話。
生駒山と伊丹空港が借景になっています。
西宮市に住み、父が尼崎で働いていた私にはかなり懐かしい風景でした。

一家が(一帯が)立ちのきを迫られていること、
息子が中学校でイジメにあっていることを除くと、
済州島四・三事件や戦争のことなど大状況の難しい話は背景に収めていて、
映画の中心は家族の物語です。

苦しいことが続いても、明日はきっと良い日になるに違いないという父親のモットーが反映された、明るい映画だと言っておきましょう。
ただし長女が北朝鮮、次女が韓国へ移住する(帰国する)シーンで、
地上に影を落としながら爆音を立てて飛行機が上空を横切リます。
不安の暗喩ですよね、これは。

真木よう子さん、井上真央さん、桜庭ななみさんの三姉妹を始め、日本の役者陣も熱演していましたが、その両親役のハン・ドンギュさんとキム・サンポさんの年季の入った確かな芝居はもう感涙ものでした。それを見るだけでもおすすめできます。

ちょうど私は火曜日に鶴橋・桃谷あたりをうろついていたのでテーマもタイムリー。その時買ってきた岡村商店さんのキムチとマッコリで、昨夜は夫婦で映画に乾杯しました。

そうそう、もうすぐ『済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語』の中古本が届くはずなので、
これでもっと勉強せなあきまへん。


封切り上映が終われば、いずれ「映画の水たまり」にて加筆修正したいと思います。



写真は全て映画の公式HPから









  
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Posted by gadogadojp at 22:49Comments(0)映画

2018年06月13日

『万引き家族』の提言

『万引き家族』

→下記の文に加筆修正の上、「映画の水たまり」ブログに掲載しました。
(このページの文も後日削除します。)




パンフレットより



封切り直後ですので具体的には触れませんが、
どなたにも十分お勧めできる傑作でした。


私は是枝監督作品に相性十分な鑑賞者とは言えません。
好きなのですが、突き抜け不足を感じてしまうのです。

たとえば『海街diary』はその不満が小さく、満足度・完成度の高い佳作でしたが、
スケールは小さく、普遍性の広がりを感じさせない点が、私の好みとしては物足りませんでした。
親不在の三人姉妹家族が、異母妹のすずちゃんを新たな家族に迎え入れる物語で、
とてもステキな気分になれましたし、
家族とは何かを考えさせる作りにはなっているのですが、
現実社会で崩壊しつつある家族制度のはるか後方を歩く物語でした。

その点今回の『万引き家族』は、
ほぼ血縁関係のない(と推測される)6人が、
つまり、
いったんそれぞれの家族が崩壊した(と推測される)6人が集まって「家族」を形成していく物語なので、
明日の、未来の人間の「家族」像を模索していることになるのです。
また、
その6人の結合には万引きという犯罪が介在していますので、
今日の社会ではいつか必ず瓦解することになりますから、
新しい「家族」の接着剤としては何がありうるのかを考えさせ、
そしてその先の地平で、
家族はほんとうに必要なのかと問いかける作品でもあるのです。

さらに、
このような新しい家族も含めて日本の家族が一斉に崩壊しつつある現状に観客が向き合うことを期待し、
その直接原因や根本原因に思いをはせることを本作は暗に求めています。

これは是枝監督が、
本気で(映像作家として)<情況>に向き合う決意を表明した映画だろうと私は受け止めました。

パンフレットが秀逸です。ぜひお買い求めください。
最後にその中で、
本作には端役ながら大いに存在感を発揮した池松壮亮さんの文の一部を引用しておきます。

「今作を観て、はて是枝さんはどこまで行くつもりなのか、はたまた行かないつもりなのか、わからなくなってしまいました。」




  
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Posted by gadogadojp at 00:37Comments(0)映画

2018年05月19日

『タクシー運転手』


韓国映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』のレポートです。


パンフレットより


まだ上映中ですから簡単に。
いずれ「映画の水たまり」で論評したいと思います。
でも少しはネタバレが含まれています。

すげえ!映画でした。
おすすめします。
事実に基づいたフィクションです。
ソン・ガンホさんをはじめとする役者たちの演技になんども涙しました。

韓国映画・TVドラマがちょっぴり苦手な方は多いですよね。
実は私もその一人。
登場人物が軍人や王などの一般人でない映画を数本見てしまったせいか、
娯楽性、というか、泣かせる、笑わせるなどの情動に訴える作風が多いせいか、
これまで大好きになった作品は『グエムル』だけでした。

本作と同じくソンガンホさんが主演する『グエムル』は、
韓国映画らしい娯楽性の中に、基調として反米の精神がこっそり貫かれていて、
そのバランスが好もしかったのです。

本作『タクシー運転手』も同じです。
いえ、批判精神は「こっそり」ではありません。
たっぷり美味しい娯楽の皮の中に、めちゃ辛いキムチ入りの真実の餡が詰まった肉まんみたいです。
韓国風に名付ければ、キムチ入りのワンマンドゥ(肉まん)

娯楽性も豊かで、真実あるいは批判的精神の両者の調和がうまくとれていますから、
私のように韓国映画が苦手な方も大丈夫では?


パンフレットより


本作は光州事件が題材になっています。
光州事件とは、1980年5月、チョンドファン(全斗煥)が大統領だった時代に起きた、
軍隊が韓国南部のクァンジュ(光州)市で民主化運動に参加した民衆を銃弾で射撃し、
多数が犠牲になった事件です。
政府・軍は光州地区を封鎖し、強力な報道管制を敷いたため、この事件が内外に知れ渡るのは遅れました。

本作では、事件を世界に報じたドイツ人記者が、タクシー運転手と共にもう一人の主人公になっていますが、
実は日本でも朝日新聞の特派員が事件に遭遇し、紙面でスクープ記事を掲載しています。
彼がのちに行った講演の記録から、現場の状況が垣間見えます。
http://hikaku-kyoto.la.coocan.jp/080715saitou_kousyuujiken.pdf

このように国内の新聞にも掲載されたのですが、当時は多くの日本人にとっては韓国のニュースはよそ事でした。
日本政府もアメリカ政府も韓国の軍事独裁政権と親しかったため、事件に対するアクションもほとんどありませんでした。
無関心であったのは外国人だけではありません。
この大事件に対して、北部の大都会ソウルの人々さえ関心を持たなかったことは、この映画を観てつくづくと思い知らされました。

沖縄の抱える苦難を無視する内地マスコミ、無関心な私たち内地の日本人を思い起こさせるとは妻の感想でした。
報道管制の問題も人ごとではありません。

ドイツ人ジャーナリストを光州まで乗せて、さらにソウルまで帰った実際のタクシー運転手キム・サボクさんは、
本作とは違って意識あるインテリゲンチャだったようですが、
(映画を観られた方は、運転手さんの息子さんを扱った記事をぜひお読みください。
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30571.html
ソンガンホさんが演じるキム・マンソプ運転手は本当に市井の平凡な父親に設定されています。
つまりは学生デモや民主化運動などは北朝鮮に扇動されたアカのやる愚行だと信じて疑わない人物だったのですが、
お金欲しさに光州に行き、そこで起こった惨劇を目撃することで、
人間としての怒りに目覚めるという筋書きです。
製作者、監督の意図がよくわかります。

なお、本作の撮影は、2016年。
朴槿恵大統領のスキャンダルが明るみに出る直前です。
朴槿恵大統領は、光州事件の徹底調査には消極的だったと聞いています。

また、2018年になって、
光州のあるビルの10階建部分に残っていた170発を超える銃弾あとが、
軍部のこれまでの<否定>にもかかわらず、
韓国軍のヘリコプターによって撃ち込まれたということが判明したそうです。
民衆は空からも無差別銃撃されたのです。

あらゆる国家の軍隊の銃口は、
外敵にだけ向けられるわけではないということを
改めて教えてくれる映画でもあります。
まして軍や政府は平気で国民に嘘をつくことを、
ここ数年で日本人も十分に学びました。

他人事ではない映画です。


光州民主化運動において、国家権力による虐殺の犠牲になった韓国民衆の皆さんに、
心から哀悼の意を表明します。

そしてその事件の1〜2年後に5度目の韓国旅行をしながら、
十分にこの事件について学びもせず、
光州にも足を運ばなかった当時の私をいま叱ります。





パンフレットより  
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Posted by gadogadojp at 00:59Comments(0)映画

2016年12月25日

2016年12月19日

オスプレイ墜落で記念撮影

墜落したオスプレイ改修作業中に記念撮影する米兵



  


Posted by gadogadojp at 14:12Comments(0)できごと

2016年11月26日