2016年09月08日
神戸の歩き方:神戸の街フィールドワーク
神戸の歩き方:神戸の街フィールドワーク
以下の小文は、神戸の中心部を自分で初めて歩く方への道案内です。
食事時間なども含めるとある日の日中をゆったり楽しむことができる典型的なルートです。
元は高校生の校外学習(遠足)の資料用に作成しました。
歴史や地理にも軽く触れていますから、ちょっとしたフィールドワークガイドになっています。
遠足では、別に観光地図を配られますし、美味しい店情報などはスマホなどで得られます。
両面印刷のB4版のプリントにおさまるよう作りました。
そのため、ショップのリストや写真、地図などは一切添えていません。
(後日、写真入りバージョンもアップする心算はしています)
各自でスマホなどを見ながらこの文に沿って歩いていただければ、
観光で神戸に行くみなさまのお役にも立つとおもいます。

今回、簡単なルート地図を作って見ました。文章と厳密に一致するわけではありません。
神戸フィールドワークのヒント
~地図やガイドブック、スマホのマップなどを見ながら読んでください。iPadで国土地理院地形図を見るのもいいですね。そのため、この文には地図も写真も掲載していません~
1)神戸市の概観
・神戸市は兵庫県の県庁所在地で、近畿地方では大阪市、京都市に次ぐ人口154万人の大都市です。
・戦後は北部に市域が広がり、そこに住宅地が数多く建設されましたが、商工業活動は相変わらず南部の海沿いの地域で活発です。
・その旧市域の北側には六甲山脈(最高地点標高931m)が東西に屏風(びょうぶ)のようにそびえ、南側には大阪湾が広がっていますから、市街地は東西に細長く、密集しています。山と海との距離が近いので、坂の多い町になります。
・その細長い市街地に、北から順に阪急電鉄、JR、阪神電鉄と三本の鉄道がほぼ平行して走っていて、通勤通学や行楽に便利です。
・その三本の鉄道は、東に向かうと大阪市の梅田地区で束ねられ、西に向かうと神戸市最大の商業地である三宮(さんのみや)地区でまとまります。
・つまり、三本の異なる鉄道には、それぞれの「三宮駅」が存在しています。
※正確に書くと、阪急と阪神電鉄は神戸三宮駅という名称です。現在は地下鉄にも三宮駅があります。
・とはいえ、神戸が栄えた歴史は意外に新しいのです。平清盛が神戸に都を置き(1180年、福原京)、大輪田泊(おおわだのとまり)を築造したことは有名ですが、やがて衰え、静かな漁村が並ぶ海辺の地域に戻りました。
・南北朝時代にはこの地で湊川(みなとがわ)の合戦があり、足利尊氏が勝ち楠木正成が敗死しましたが、その当時も人口は少なかったでしょう。
※ただし、街道(山陽道)沿いには宿場を中心に商家も多くあったようです。特に灘の酒造業は江戸時代に全国的に知られるようになりました。現在の灘区や東灘区にかけての地域です。
・ところが江戸時代末に幕府が開国を決め、条約に従って神戸港が開港すると、外国との貿易船が次々と訪れ、神戸の町は急速に発展することになりました。
・山と海との距離が近い神戸の地形は斜面が急に海に落ち込むので、港のすぐ近くの海底が深く、大型の船舶の航行に適していたのです。
※大阪港は水深が浅いため、埋め立てることで沖に港湾を造る必要がありました。
・1995年の阪神淡路大震災で、市街地南部は壊滅的な打撃を受けましたが、その後はたくましく立ち直り、再び商業(貿易、アパレル、パール、シューズ他)、観光の町として元気を取り戻しています。
※三宮駅周辺のビル群に新しい建物が多いことに注目しましょう。これは震災の結果です。
・神戸市街地をフィールドワークする時は、このように港、坂(山と海)、外国人(外国文化)、震災復興の四点に注目していくとその特色が把握しやすいと思います。
2)北野異人館街とは
「異人館」とは、近代(開国以降)の日本にやってきた外国人が住んでいた家屋です。
彼らのほとんどが貿易商人などのリッチなセレブでした。
建てたのは主として欧米人ですが、その後インド人や中国人のセレブが移り住みました。
その旧家屋つまり異人館が、いま日本でもっとも集中して残っている場所が、神戸の北野付近なのです。
江戸時代末の開国から明治前期までの近代初期には、外国人の住まいは原則として「居留地」に限られていました。そこに日本人は住むことができず、外国人だけの町でした。神戸の場合それは港に近い地域(現在の大丸百貨店から南側)に設定されました。
そこは現在「旧居留地」と呼ばれる、高級ブランドショップが並ぶおしゃれな地域になっています。
しかしここには古いビルはあっても個人の住居としての異人館は残っていません。
幕末の徳川幕府は不平等な条約(安政の五カ国条約)を結ばされたのですが、明治になってその改正が試みられました。その結果、逆に外国人の住む場所も自由になっていきました。1899年(明治32年)以降になると、ようやく外国人と日本人が<雑居>できるようになり、神戸の外国人セレブたちは競ってここ北野の高台に欧米風の高級な家屋を建てて住むようになりました。
神戸市街の地下には東西方向に何本もの活断層(かつだんそう)が走っています。活断層とは過去の直下型地震の爪痕(つめあと)に他なりません。
1995年の阪神大震災では、この内一本が何度目かのエネルギーを放出し、6434人の犠牲者を出しました。この地震によって、残念ながら10軒以上の異人館が倒壊しましたが、今も40軒余りの異人館が、ここ北野を中心に保存されています。
3)北野坂を登る
学校の遠足などでしばしば点呼・出発地点となる「JR三宮駅」付近の標高は12m。
やはり遠足のチェックポイントに適した「風見鶏の館(かざみどりのやかた)」周辺の標高は65m。
北野に向かう一番ポピュラーかつ最短距離のルートは「北野坂」経由なので、この道をたどると 南から北に直登することになります。
このルートは1200~1300mの距離でわずか53m登るだけ。
ですから、行程全体としてそれほどの坂道ではないのですが、「異人館通り(山本通り)」を超えたゴール直前に急坂があるため、結構な山登りをした気分になります。
それもそのはずで、東西に細長い神戸の市街地は、北側に六甲山脈がそびえているため、
北野異人館街までたどりつくと、そこはもう山の中腹部になります。
およそ150年前までは森林に覆われた山中だったのです。
その頃は、山腹にぽつんと「北野天満神社」だけが建つ静かで眺望の素晴らしい場所であったことでしょう。
つまり、ゴール直前だけは登山並みの傾斜なのです。
※ただし、六甲山脈は明治以降に樹木の伐採が進み、いたるところが禿山の状態になりました。そのため、何度も激しい水害が街を襲いました。その反省から植林が進み、いまでは緑一色の山並みが続いています。
遠足で行く場合、「風見鶏の館」とその前の「北野町広場」を見ただけで満足する中・高生が多いのですが、異人館街のもっとも有名な散策ルートはさらにその北東部の一帯です。観光客が主に訪れるのもこの付近ですから、見ないで済ませるのはもったいないかも知れません。
その北東部地域のいちばん奥には「うろこの家」が建っていて、ここは外国人セレブが住んでいた時代そのままの家具や内装が残されている、異人館街最高の見所なのですが、入館料千円の負担が重いなら、せめて美しい外観だけでも眺めておき、そこからの海や港の眺めを楽しんでみてはどうでしょう。
「うろこの家」付近の標高は約100mです。「風見鶏の館」からわずかに歩くだけで35mの登りになり、急ぐと息が切れる傾斜です。
※ここに限らず、坂道の多い神戸の街、なかでも阪急線以北のエリアでは、自転車を見かけることが少ないことに気がつきますか?神戸生まれの私ですが、幼い時に西宮市仁川に越したあとは自転車が必需品でした。しかし再び神戸市灘区に越したとたんに愛車を手放しました。
「うろこの家」の南側には異人館が多数残っています。今は観光化された建物がほとんどですが、 細い道をあれこれたどり、異人館の外観を眺めることで、かつての外国人たちの暮らしぶりが少しは想像できるのではないかと思います。道に迷っても、「風見鶏の館」「北野町広場」に戻ればいいだけですから。
※他のエリアにも数軒、後年に移設された異人館が保存されています。阪急王子公園駅近くの「旧ハンター邸」はその代表例です。公開時期以外の内部の見学はできませんが、美しい外見だけでも見る価値はあるように思います。
4)海に向かってトア・ロードを下る
「風見鶏の館」付近から「南京町(なんきんまち)」のある「元町(もとまち)」エリア付近に向かって坂を下るには、いくつものルートが考えられます。それぞれの道が、神戸らしく各国料理のレストラン(特に多いのがインド料理。神戸にはインド人が多いので。)やカフェ、パール(神戸は日本一の真珠の流通拠点)の店などがポツポツ点在していて楽しめます。ショップウォッチングが神戸観光の醍醐味です。
どの道をどう通って下っても、やがてJR線の高架に出会います。そこで西(右)に折れれば元町方向です。迷うことはありません。
中でもっともポピュラーな道は、「トア・ロード」を下るルートでしょう。
ここを行くには、「風見鶏の館」からなら、登って来た急坂を下って北野坂に入って少し下り、最初の信号を右折し、「異人館通り(山本通り)」を西に歩きます。
この道沿いには「シュウエケ邸」という異人館もあって、風情があります。
するとまもなく「山本通三丁目」の交差点に出ますから、これを左折して下ります。
この坂道が「トア・ロード」と呼ばれる歴史ある道です。
わずかに下ってすぐ左手に煉瓦建築風の「北野ホテル」があります。ここはフランス発の<世界一の朝食>が食べられることで有名です。ホテルの向かいにはJAZZ喫茶、カバンの店、高級パンやコンフィチュールの「イグレック」などが並んでいますが、そのすぐ南隣りに美しい異人館があるのを見逃さないでください。現在ここは高級中華料理「東天閣」として運営されています。
※かつて「北野ホテル」周辺には(たぶん日本で最初の)オリーブ畑があったことがわかりました。ハイカラな神戸らしい歴史です。ホテル前に説明の碑文があります。
「北野ホテル」前から「トア・ロード」を下ると、二筋目の細い道を左に入るとすぐに、「神戸ムスリムモスク」があります。ここは日本では珍しい、イスラム教の礼拝所です。神戸には古くからイスラム教徒が住んでいたことの証明です。信者以外は建物内にはいることはできませんが、外から一目見ておくのもいい経験になるかもしれません。
「ムスリムモスク」から「トア・ロード」に戻って下り始めるとすぐに、「北野工房のまち」という建物があります。団体客の多い施設ですが、昔の小学校を利用したレトロな建物の中には、神戸名産の店がいくつも入っていますので便利です。
さらに下ると、「中山手通り」という広い道に出会います。この道は市街地の幹線道路の一つですが、この道をはさんで北と南では大きく地質が異なります。北側は六甲山脈と同様の山の地質ですが、南側は海洋性の土壌。つまり、人がまだ住まなかった古い時代、ここより南は海底であったのが、その後土地が隆起したことがわかります。工事現場から海の生物の化石がみつかるそうです。
また、この「中山手通り」の南側に阪神大震災を起こした断層が走っているため、ここから海側はあの震災で格段に激しい被害を受けた地域に入ります。
5)南京町へ
この「中山手通り」を横断してさらに下ると、まもなくJRの高架に出会います。
ここから「南京町」に向かうには、主にニ通りのルートが考えられます。
※高架の北側一帯が、実は本物の神戸の中華街です。中国系の会社や学校が多くあり、中華料理や台湾料理の名店がたくさんあります。神戸では昔から中国人と日本人の関係が良好だったせいで<雑居>が進んでいたので、このあたりに中華街らしい情緒はまったく見当たりません。観光客や遠足の学生にとっては人為的に作られた「南京町」の方が楽しいはずです。でも本格的な中国料理を食べる時には、この地域の店がおすすめです。
①高架下の商店街を通る
ここ高架との交差より東側(左手)の阪急三宮駅から西に向かってJR元町駅まで(実はさらに西にのびて)「高架下商店街」があります。ここはJR(+阪急)高架下を利用した小さな商店がずらりと並んでいる人気スポットです。
神戸の地場産業(じばさんぎょう)には、上記の真珠製品と並んで靴(シューズ、サンダル等)生産が知られています。ですからこの商店街には靴屋さんもたくさんあります。
靴屋以外にも、アパレルやアクセサリー、台湾料理の店、刃物の店などが並び、見るだけで退屈しない庶民的な通りになっています。時間がある方は、この商店街をもういちど三宮方向に向かった後、また戻ってくるのも楽しいかもしれません。
この「高架下商店街」は、西に向かうとJR元町駅でいちど途切れます。その元町駅前を南に下れば、「元町通商店街」に出会います。「南京町」はすぐその南です。
②センター街、大丸を楽しむ
トアロードをそのまま下りJR高架下をくぐると、すぐ左手(三宮方向)に「センター街」という名のアーケードが伸びています。三宮方向に逆戻りすることになりますが、この通りはセンスの良い店が並んだ、神戸随一の商店街です。ただしその対象は主に大人客ですから、学生にとっては「高架下商店街」より退屈かもしれません。
センター街に寄り道せずにさらに南に進むと、「大丸百貨店」の美しい建物が見えて来ます。その建物の東側と南側が、上述した旧居留地を含む高級ショッピングエリアです。毎年恒例の12月のルミナリエ(震災の鎮魂)の会場もここです。
「大丸百貨店」の西側に回り込めば、「元町通商店街」のアーケードが目の前です。そのすぐ南が「南京町」です。
6)南京町とは
<南京(なんきん)>とは、中華人民共和国の大都市の名です。
近代の日本へやってきた中国人は、南京など長江流域出身者が多かったため、<南京>という呼び名が<中国(日本側からの旧呼称はシナ=チャイナ)>とほぼ同義語になったのでした。
しかし、(いわゆる南京大虐殺を含む)日中戦争を経た戦後は、『シナ』と同様に『南京』という呼称を避ける動きが日本で広がったため、長崎や横浜などにあった南京町はこぞってチャイナタウンや中華街と名を変えました。
しかし、開国以来、外国人と良好な関係を保ち続けてきた神戸では、戦勝国/敗戦国の違いや、差別意識/被差別意識にはあまり縁がなかったのか、全国で唯一「南京町」の呼称が生き続けたのでした。
南京町は東西わずか200mのメインの通りに加えて、北側の元町通りとの間にはさまれた狭い横丁部分から成り立っています。横浜の中華街に比べると圧倒的に狭い地域に、小規模な店がぎっしり詰まっています。すみずみまで歩いてショップをさがすのも簡単で楽しいものです。
ただ、屋台風の店はメインの通りに集中しています。ここにはテイクアウト/立ち食いできる食べ物がいろいろ売られていますから、端から端まで歩いてみて、気に入った食べ物を選んで食べるのがコツです。なぜなら、店によって当たり外れが大きくあるからです。これは観光地の宿命ですね。
※その中でいつも行列ができている「老祥記(ろうしょうき)」という店の豚まんや、「攤販街 (タンファンツエ)」の刈包(クワパオ=台湾のふわふわバーガー)などには安定したファンがついています。とはいえ、独特の香辛料が使われるなど、やはり個人の好みによって好き嫌いが分かれるようです。
けれど、この南京町のもう一つの楽しみは、その場で食べるだけではなく、中国料理やエスニック料理の調味料や菓子、調理道具、食材、衣服や、店先にぶらさげられた焼豚(チャーシュー)などを見たり買ったりするところにもあります。(焼き豚では「堂記」「和記」が有名です。)屋台前の混雑から一歩奥に進み、いくつかの店内に入ってみましょう。
特におすすめしたいのは、東の入り口(「長安門」)から入ってすぐの右手にある「廣記商行」の一階奥と地階です。一階には中国茶や菓子、地階には食材や調理道具が並んでいて、観光向きだけではない、神戸の中国人生活の息吹(いぶき)にふれることができます。
一つ付け加えておきます。
メインストリートの店先には、中国なまりのたどたどしい日本語で食べ物を売る売り子さんが大勢います。その言葉に海外旅行気分を味わうのもいいでしょう。でも彼女たちは最近日本にやってきた人々。店の経営者のほとんどは、明治~昭和前半から日本に居住している人々ですから、実は私たち以上に日本語が達者な、日本人と呼んでも違和感がないほど神戸に馴染んで成功している人たちです。
※以前は「華僑(かきょう)」と呼ばれていました。神戸における私の中学・高校時代には、張・黄・毛・陳・王などの姓を持つクラスメートがふつうにいました。
彼ら中国系の人々はあの震災の直後から、自分たちの店や家が大きな被害に遭いながらも、ここ「南京町」で被災者のために料理を作り、無料で配ってくれました。たくさんの神戸市民が、震災後初めて温かい料理をここ「南京町」で食べることができたのでした。
これは、神戸という町の特質がよくわかるエピソードだと思います。
※「南京町」の南側の栄町エリアは、個性的なブティックやアクセサリー店、カフェなどが点在する人気スポットに成長してきました。時間があるときにはぶらりと散歩してみてください。
7)モザイクで
「南京町」からは西南方向に神戸ハーバーランドがあります。海が目の前のこのエリアも、観光客や学生には人気のスポットです。
元町通りを西に歩き尽くして南に下る市街地ルートか、あるいはポートタワーを眺めながら海沿いに散策する港湾ルートか、どちらかを選ぶのが一般的です。
距離の短い港湾ルートを寄り道せずに歩いても「モザイク」まで最短で20分ほど必要です。
「モザイク」は、小さなかわいい店が並び、港の展望が楽しめる素敵な場所です。でも、ここは元々港湾の一部だった所を、観光商売が上手だった当時の神戸市の行政が人為的に作り上げた地域ですので、あまり歴史地理的に説明できることがありません。隣接する「umie」と共に、イマドキのショッピングを楽しむ場所ですから、買い物をしない人は、モザイクのデッキでぼんやり船を眺めたり、小さな観覧車に乗って景色を楽しんだりすれば、まあのんびり楽しめるでしょう。
ただ、フィールドワークという観点で、おすすめできるポイントがあります。
それは、モザイクから一歩出て海に向かった先の一角です。港湾だった時代の名残の「煉瓦倉庫」がレストランになっていたり、昔の運河が一部保存された静かなエリアです。そういう風情が好きな方はぜひ散歩してみてください。
また、モザイクに行く観光客はふつう、景観の美しい東側(港側)を眺めますが、もしも西側の眺めが得られる機会があれば、一瞬思い出してください。今は埋め立てられて原型はとどめていませんが、モザイクからほど近い、工場や倉庫が並ぶ一角に、大工事・難工事の末、平清盛が修築した港=大輪田泊(おおわだのとまり)があったのです。
※人柱(ひとばしら)まで立てた悲話はよく知られています。
また、これはモザイクそれ自体ではありませんが、ここから東側に見えるポートタワーのさらに先の第三突堤(見えません)や中突堤は、日本人のブラジルへの移民の出発地だったことを知ってもらうのも意義あるかもしれません。
19世紀末に始まった日本国の移民政策は、たとえばブラジルに計13万人の移住者を送り込んだのですが、(戦前の)ほとんどの移民船はここ神戸港から出発しました。沖縄を初め全国からの貧しい移民希望者はいったん神戸に集まり、希望を胸に熱帯の国に向かったのでした。
毎年5月に開かれる「神戸まつり」にサンバのパレードが繰り広げられるのはそういう歴史的背景があったからなのです。
近年、神戸の山の手にあった旧外務省神戸移住斡旋所が、「海外移住と文化の交流センター」として生まれ変わりました。記念館的な役割を果たすべく、各種の展示物など用意されていますので、関心のある方は足を運んではどうでしょう。場所は、北野の「風見鶏の館」に近い場所にありますので、散策のついでに立ち寄ることができます。
<作gadogadojp >
以下の小文は、神戸の中心部を自分で初めて歩く方への道案内です。
食事時間なども含めるとある日の日中をゆったり楽しむことができる典型的なルートです。
元は高校生の校外学習(遠足)の資料用に作成しました。
歴史や地理にも軽く触れていますから、ちょっとしたフィールドワークガイドになっています。
遠足では、別に観光地図を配られますし、美味しい店情報などはスマホなどで得られます。
両面印刷のB4版のプリントにおさまるよう作りました。
そのため、ショップのリストや写真、地図などは一切添えていません。
(後日、写真入りバージョンもアップする心算はしています)
各自でスマホなどを見ながらこの文に沿って歩いていただければ、
観光で神戸に行くみなさまのお役にも立つとおもいます。

今回、簡単なルート地図を作って見ました。文章と厳密に一致するわけではありません。
神戸フィールドワークのヒント
~地図やガイドブック、スマホのマップなどを見ながら読んでください。iPadで国土地理院地形図を見るのもいいですね。そのため、この文には地図も写真も掲載していません~
1)神戸市の概観
・神戸市は兵庫県の県庁所在地で、近畿地方では大阪市、京都市に次ぐ人口154万人の大都市です。
・戦後は北部に市域が広がり、そこに住宅地が数多く建設されましたが、商工業活動は相変わらず南部の海沿いの地域で活発です。
・その旧市域の北側には六甲山脈(最高地点標高931m)が東西に屏風(びょうぶ)のようにそびえ、南側には大阪湾が広がっていますから、市街地は東西に細長く、密集しています。山と海との距離が近いので、坂の多い町になります。
・その細長い市街地に、北から順に阪急電鉄、JR、阪神電鉄と三本の鉄道がほぼ平行して走っていて、通勤通学や行楽に便利です。
・その三本の鉄道は、東に向かうと大阪市の梅田地区で束ねられ、西に向かうと神戸市最大の商業地である三宮(さんのみや)地区でまとまります。
・つまり、三本の異なる鉄道には、それぞれの「三宮駅」が存在しています。
※正確に書くと、阪急と阪神電鉄は神戸三宮駅という名称です。現在は地下鉄にも三宮駅があります。
・とはいえ、神戸が栄えた歴史は意外に新しいのです。平清盛が神戸に都を置き(1180年、福原京)、大輪田泊(おおわだのとまり)を築造したことは有名ですが、やがて衰え、静かな漁村が並ぶ海辺の地域に戻りました。
・南北朝時代にはこの地で湊川(みなとがわ)の合戦があり、足利尊氏が勝ち楠木正成が敗死しましたが、その当時も人口は少なかったでしょう。
※ただし、街道(山陽道)沿いには宿場を中心に商家も多くあったようです。特に灘の酒造業は江戸時代に全国的に知られるようになりました。現在の灘区や東灘区にかけての地域です。
・ところが江戸時代末に幕府が開国を決め、条約に従って神戸港が開港すると、外国との貿易船が次々と訪れ、神戸の町は急速に発展することになりました。
・山と海との距離が近い神戸の地形は斜面が急に海に落ち込むので、港のすぐ近くの海底が深く、大型の船舶の航行に適していたのです。
※大阪港は水深が浅いため、埋め立てることで沖に港湾を造る必要がありました。
・1995年の阪神淡路大震災で、市街地南部は壊滅的な打撃を受けましたが、その後はたくましく立ち直り、再び商業(貿易、アパレル、パール、シューズ他)、観光の町として元気を取り戻しています。
※三宮駅周辺のビル群に新しい建物が多いことに注目しましょう。これは震災の結果です。
・神戸市街地をフィールドワークする時は、このように港、坂(山と海)、外国人(外国文化)、震災復興の四点に注目していくとその特色が把握しやすいと思います。
2)北野異人館街とは
「異人館」とは、近代(開国以降)の日本にやってきた外国人が住んでいた家屋です。
彼らのほとんどが貿易商人などのリッチなセレブでした。
建てたのは主として欧米人ですが、その後インド人や中国人のセレブが移り住みました。
その旧家屋つまり異人館が、いま日本でもっとも集中して残っている場所が、神戸の北野付近なのです。
江戸時代末の開国から明治前期までの近代初期には、外国人の住まいは原則として「居留地」に限られていました。そこに日本人は住むことができず、外国人だけの町でした。神戸の場合それは港に近い地域(現在の大丸百貨店から南側)に設定されました。
そこは現在「旧居留地」と呼ばれる、高級ブランドショップが並ぶおしゃれな地域になっています。
しかしここには古いビルはあっても個人の住居としての異人館は残っていません。
幕末の徳川幕府は不平等な条約(安政の五カ国条約)を結ばされたのですが、明治になってその改正が試みられました。その結果、逆に外国人の住む場所も自由になっていきました。1899年(明治32年)以降になると、ようやく外国人と日本人が<雑居>できるようになり、神戸の外国人セレブたちは競ってここ北野の高台に欧米風の高級な家屋を建てて住むようになりました。
神戸市街の地下には東西方向に何本もの活断層(かつだんそう)が走っています。活断層とは過去の直下型地震の爪痕(つめあと)に他なりません。
1995年の阪神大震災では、この内一本が何度目かのエネルギーを放出し、6434人の犠牲者を出しました。この地震によって、残念ながら10軒以上の異人館が倒壊しましたが、今も40軒余りの異人館が、ここ北野を中心に保存されています。
3)北野坂を登る
学校の遠足などでしばしば点呼・出発地点となる「JR三宮駅」付近の標高は12m。
やはり遠足のチェックポイントに適した「風見鶏の館(かざみどりのやかた)」周辺の標高は65m。
北野に向かう一番ポピュラーかつ最短距離のルートは「北野坂」経由なので、この道をたどると 南から北に直登することになります。
このルートは1200~1300mの距離でわずか53m登るだけ。
ですから、行程全体としてそれほどの坂道ではないのですが、「異人館通り(山本通り)」を超えたゴール直前に急坂があるため、結構な山登りをした気分になります。
それもそのはずで、東西に細長い神戸の市街地は、北側に六甲山脈がそびえているため、
北野異人館街までたどりつくと、そこはもう山の中腹部になります。
およそ150年前までは森林に覆われた山中だったのです。
その頃は、山腹にぽつんと「北野天満神社」だけが建つ静かで眺望の素晴らしい場所であったことでしょう。
つまり、ゴール直前だけは登山並みの傾斜なのです。
※ただし、六甲山脈は明治以降に樹木の伐採が進み、いたるところが禿山の状態になりました。そのため、何度も激しい水害が街を襲いました。その反省から植林が進み、いまでは緑一色の山並みが続いています。
遠足で行く場合、「風見鶏の館」とその前の「北野町広場」を見ただけで満足する中・高生が多いのですが、異人館街のもっとも有名な散策ルートはさらにその北東部の一帯です。観光客が主に訪れるのもこの付近ですから、見ないで済ませるのはもったいないかも知れません。
その北東部地域のいちばん奥には「うろこの家」が建っていて、ここは外国人セレブが住んでいた時代そのままの家具や内装が残されている、異人館街最高の見所なのですが、入館料千円の負担が重いなら、せめて美しい外観だけでも眺めておき、そこからの海や港の眺めを楽しんでみてはどうでしょう。
「うろこの家」付近の標高は約100mです。「風見鶏の館」からわずかに歩くだけで35mの登りになり、急ぐと息が切れる傾斜です。
※ここに限らず、坂道の多い神戸の街、なかでも阪急線以北のエリアでは、自転車を見かけることが少ないことに気がつきますか?神戸生まれの私ですが、幼い時に西宮市仁川に越したあとは自転車が必需品でした。しかし再び神戸市灘区に越したとたんに愛車を手放しました。
「うろこの家」の南側には異人館が多数残っています。今は観光化された建物がほとんどですが、 細い道をあれこれたどり、異人館の外観を眺めることで、かつての外国人たちの暮らしぶりが少しは想像できるのではないかと思います。道に迷っても、「風見鶏の館」「北野町広場」に戻ればいいだけですから。
※他のエリアにも数軒、後年に移設された異人館が保存されています。阪急王子公園駅近くの「旧ハンター邸」はその代表例です。公開時期以外の内部の見学はできませんが、美しい外見だけでも見る価値はあるように思います。
4)海に向かってトア・ロードを下る
「風見鶏の館」付近から「南京町(なんきんまち)」のある「元町(もとまち)」エリア付近に向かって坂を下るには、いくつものルートが考えられます。それぞれの道が、神戸らしく各国料理のレストラン(特に多いのがインド料理。神戸にはインド人が多いので。)やカフェ、パール(神戸は日本一の真珠の流通拠点)の店などがポツポツ点在していて楽しめます。ショップウォッチングが神戸観光の醍醐味です。
どの道をどう通って下っても、やがてJR線の高架に出会います。そこで西(右)に折れれば元町方向です。迷うことはありません。
中でもっともポピュラーな道は、「トア・ロード」を下るルートでしょう。
ここを行くには、「風見鶏の館」からなら、登って来た急坂を下って北野坂に入って少し下り、最初の信号を右折し、「異人館通り(山本通り)」を西に歩きます。
この道沿いには「シュウエケ邸」という異人館もあって、風情があります。
するとまもなく「山本通三丁目」の交差点に出ますから、これを左折して下ります。
この坂道が「トア・ロード」と呼ばれる歴史ある道です。
わずかに下ってすぐ左手に煉瓦建築風の「北野ホテル」があります。ここはフランス発の<世界一の朝食>が食べられることで有名です。ホテルの向かいにはJAZZ喫茶、カバンの店、高級パンやコンフィチュールの「イグレック」などが並んでいますが、そのすぐ南隣りに美しい異人館があるのを見逃さないでください。現在ここは高級中華料理「東天閣」として運営されています。
※かつて「北野ホテル」周辺には(たぶん日本で最初の)オリーブ畑があったことがわかりました。ハイカラな神戸らしい歴史です。ホテル前に説明の碑文があります。
「北野ホテル」前から「トア・ロード」を下ると、二筋目の細い道を左に入るとすぐに、「神戸ムスリムモスク」があります。ここは日本では珍しい、イスラム教の礼拝所です。神戸には古くからイスラム教徒が住んでいたことの証明です。信者以外は建物内にはいることはできませんが、外から一目見ておくのもいい経験になるかもしれません。
「ムスリムモスク」から「トア・ロード」に戻って下り始めるとすぐに、「北野工房のまち」という建物があります。団体客の多い施設ですが、昔の小学校を利用したレトロな建物の中には、神戸名産の店がいくつも入っていますので便利です。
さらに下ると、「中山手通り」という広い道に出会います。この道は市街地の幹線道路の一つですが、この道をはさんで北と南では大きく地質が異なります。北側は六甲山脈と同様の山の地質ですが、南側は海洋性の土壌。つまり、人がまだ住まなかった古い時代、ここより南は海底であったのが、その後土地が隆起したことがわかります。工事現場から海の生物の化石がみつかるそうです。
また、この「中山手通り」の南側に阪神大震災を起こした断層が走っているため、ここから海側はあの震災で格段に激しい被害を受けた地域に入ります。
5)南京町へ
この「中山手通り」を横断してさらに下ると、まもなくJRの高架に出会います。
ここから「南京町」に向かうには、主にニ通りのルートが考えられます。
※高架の北側一帯が、実は本物の神戸の中華街です。中国系の会社や学校が多くあり、中華料理や台湾料理の名店がたくさんあります。神戸では昔から中国人と日本人の関係が良好だったせいで<雑居>が進んでいたので、このあたりに中華街らしい情緒はまったく見当たりません。観光客や遠足の学生にとっては人為的に作られた「南京町」の方が楽しいはずです。でも本格的な中国料理を食べる時には、この地域の店がおすすめです。
①高架下の商店街を通る
ここ高架との交差より東側(左手)の阪急三宮駅から西に向かってJR元町駅まで(実はさらに西にのびて)「高架下商店街」があります。ここはJR(+阪急)高架下を利用した小さな商店がずらりと並んでいる人気スポットです。
神戸の地場産業(じばさんぎょう)には、上記の真珠製品と並んで靴(シューズ、サンダル等)生産が知られています。ですからこの商店街には靴屋さんもたくさんあります。
靴屋以外にも、アパレルやアクセサリー、台湾料理の店、刃物の店などが並び、見るだけで退屈しない庶民的な通りになっています。時間がある方は、この商店街をもういちど三宮方向に向かった後、また戻ってくるのも楽しいかもしれません。
この「高架下商店街」は、西に向かうとJR元町駅でいちど途切れます。その元町駅前を南に下れば、「元町通商店街」に出会います。「南京町」はすぐその南です。
②センター街、大丸を楽しむ
トアロードをそのまま下りJR高架下をくぐると、すぐ左手(三宮方向)に「センター街」という名のアーケードが伸びています。三宮方向に逆戻りすることになりますが、この通りはセンスの良い店が並んだ、神戸随一の商店街です。ただしその対象は主に大人客ですから、学生にとっては「高架下商店街」より退屈かもしれません。
センター街に寄り道せずにさらに南に進むと、「大丸百貨店」の美しい建物が見えて来ます。その建物の東側と南側が、上述した旧居留地を含む高級ショッピングエリアです。毎年恒例の12月のルミナリエ(震災の鎮魂)の会場もここです。
「大丸百貨店」の西側に回り込めば、「元町通商店街」のアーケードが目の前です。そのすぐ南が「南京町」です。
6)南京町とは
<南京(なんきん)>とは、中華人民共和国の大都市の名です。
近代の日本へやってきた中国人は、南京など長江流域出身者が多かったため、<南京>という呼び名が<中国(日本側からの旧呼称はシナ=チャイナ)>とほぼ同義語になったのでした。
しかし、(いわゆる南京大虐殺を含む)日中戦争を経た戦後は、『シナ』と同様に『南京』という呼称を避ける動きが日本で広がったため、長崎や横浜などにあった南京町はこぞってチャイナタウンや中華街と名を変えました。
しかし、開国以来、外国人と良好な関係を保ち続けてきた神戸では、戦勝国/敗戦国の違いや、差別意識/被差別意識にはあまり縁がなかったのか、全国で唯一「南京町」の呼称が生き続けたのでした。
南京町は東西わずか200mのメインの通りに加えて、北側の元町通りとの間にはさまれた狭い横丁部分から成り立っています。横浜の中華街に比べると圧倒的に狭い地域に、小規模な店がぎっしり詰まっています。すみずみまで歩いてショップをさがすのも簡単で楽しいものです。
ただ、屋台風の店はメインの通りに集中しています。ここにはテイクアウト/立ち食いできる食べ物がいろいろ売られていますから、端から端まで歩いてみて、気に入った食べ物を選んで食べるのがコツです。なぜなら、店によって当たり外れが大きくあるからです。これは観光地の宿命ですね。
※その中でいつも行列ができている「老祥記(ろうしょうき)」という店の豚まんや、「攤販街 (タンファンツエ)」の刈包(クワパオ=台湾のふわふわバーガー)などには安定したファンがついています。とはいえ、独特の香辛料が使われるなど、やはり個人の好みによって好き嫌いが分かれるようです。
けれど、この南京町のもう一つの楽しみは、その場で食べるだけではなく、中国料理やエスニック料理の調味料や菓子、調理道具、食材、衣服や、店先にぶらさげられた焼豚(チャーシュー)などを見たり買ったりするところにもあります。(焼き豚では「堂記」「和記」が有名です。)屋台前の混雑から一歩奥に進み、いくつかの店内に入ってみましょう。
特におすすめしたいのは、東の入り口(「長安門」)から入ってすぐの右手にある「廣記商行」の一階奥と地階です。一階には中国茶や菓子、地階には食材や調理道具が並んでいて、観光向きだけではない、神戸の中国人生活の息吹(いぶき)にふれることができます。
一つ付け加えておきます。
メインストリートの店先には、中国なまりのたどたどしい日本語で食べ物を売る売り子さんが大勢います。その言葉に海外旅行気分を味わうのもいいでしょう。でも彼女たちは最近日本にやってきた人々。店の経営者のほとんどは、明治~昭和前半から日本に居住している人々ですから、実は私たち以上に日本語が達者な、日本人と呼んでも違和感がないほど神戸に馴染んで成功している人たちです。
※以前は「華僑(かきょう)」と呼ばれていました。神戸における私の中学・高校時代には、張・黄・毛・陳・王などの姓を持つクラスメートがふつうにいました。
彼ら中国系の人々はあの震災の直後から、自分たちの店や家が大きな被害に遭いながらも、ここ「南京町」で被災者のために料理を作り、無料で配ってくれました。たくさんの神戸市民が、震災後初めて温かい料理をここ「南京町」で食べることができたのでした。
これは、神戸という町の特質がよくわかるエピソードだと思います。
※「南京町」の南側の栄町エリアは、個性的なブティックやアクセサリー店、カフェなどが点在する人気スポットに成長してきました。時間があるときにはぶらりと散歩してみてください。
7)モザイクで
「南京町」からは西南方向に神戸ハーバーランドがあります。海が目の前のこのエリアも、観光客や学生には人気のスポットです。
元町通りを西に歩き尽くして南に下る市街地ルートか、あるいはポートタワーを眺めながら海沿いに散策する港湾ルートか、どちらかを選ぶのが一般的です。
距離の短い港湾ルートを寄り道せずに歩いても「モザイク」まで最短で20分ほど必要です。
「モザイク」は、小さなかわいい店が並び、港の展望が楽しめる素敵な場所です。でも、ここは元々港湾の一部だった所を、観光商売が上手だった当時の神戸市の行政が人為的に作り上げた地域ですので、あまり歴史地理的に説明できることがありません。隣接する「umie」と共に、イマドキのショッピングを楽しむ場所ですから、買い物をしない人は、モザイクのデッキでぼんやり船を眺めたり、小さな観覧車に乗って景色を楽しんだりすれば、まあのんびり楽しめるでしょう。
ただ、フィールドワークという観点で、おすすめできるポイントがあります。
それは、モザイクから一歩出て海に向かった先の一角です。港湾だった時代の名残の「煉瓦倉庫」がレストランになっていたり、昔の運河が一部保存された静かなエリアです。そういう風情が好きな方はぜひ散歩してみてください。
また、モザイクに行く観光客はふつう、景観の美しい東側(港側)を眺めますが、もしも西側の眺めが得られる機会があれば、一瞬思い出してください。今は埋め立てられて原型はとどめていませんが、モザイクからほど近い、工場や倉庫が並ぶ一角に、大工事・難工事の末、平清盛が修築した港=大輪田泊(おおわだのとまり)があったのです。
※人柱(ひとばしら)まで立てた悲話はよく知られています。
また、これはモザイクそれ自体ではありませんが、ここから東側に見えるポートタワーのさらに先の第三突堤(見えません)や中突堤は、日本人のブラジルへの移民の出発地だったことを知ってもらうのも意義あるかもしれません。
19世紀末に始まった日本国の移民政策は、たとえばブラジルに計13万人の移住者を送り込んだのですが、(戦前の)ほとんどの移民船はここ神戸港から出発しました。沖縄を初め全国からの貧しい移民希望者はいったん神戸に集まり、希望を胸に熱帯の国に向かったのでした。
毎年5月に開かれる「神戸まつり」にサンバのパレードが繰り広げられるのはそういう歴史的背景があったからなのです。
近年、神戸の山の手にあった旧外務省神戸移住斡旋所が、「海外移住と文化の交流センター」として生まれ変わりました。記念館的な役割を果たすべく、各種の展示物など用意されていますので、関心のある方は足を運んではどうでしょう。場所は、北野の「風見鶏の館」に近い場所にありますので、散策のついでに立ち寄ることができます。
<作gadogadojp >
Posted by gadogadojp at 15:00│Comments(0)
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