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2016年10月30日

大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」

大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」


大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」

法善寺水掛け不動さん



「人間に見えないものは存在しない」、
「証明されないことは真実ではない」、
と断言する愚かしさが横行していますが、
それなら地動説以前は地球の周りを太陽が回っていたことになってしまいます。

もっとも悪質なのは
「わたしにわからないこと、わたしにつごうのわるいことは真実ではない」、という反知性の空気の充満です。
本来口に出しただけで軽蔑されてしまうこのセリフを、
インターネットの世界では簡単に言えるようになってしまいました。

他者にかけた呪いが戻ってくるように、
いったん表現した言葉は力を持ち、世界に振動を与え、自分の身に帰ってきます。

私にはいわゆる霊感はなく、ふつうの人に見えないものは何も見えませんが、ケモノとしての警戒本能のかけらくらいは持ち合わせています。
そう、たぶんあなたと同じように。

だから自然や人間の優しさも凶暴も予感できます。
だから原発や戦争が怖ろしくてたまりません。

「わたしにわからないものは真実ではない、存在しない」というあなたは、霧の中、断崖の上のヒップホップダンサー。

ヒトの歴史は200万年。
あなたがいま唾を吐いた場所だって、
きっといつか誰かが命を落とした場所。
生物の歴史はその2000倍。

警戒心を研ぎ澄ましながら優しくなりましょう。
言葉は大切にしたほうがいいですよ。
万物に敬意を払っておいたほうがいいですよ。





大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」


ピンク塗り=難波新地跡(江戸時代から明治時代末期まで。現在は飲食街。)
ブルー塗り=芝居小屋ゾーン(色町宗右衛門町を含む。江戸〜現代。現在は飲食店が繁栄。)
グレー塗り=千日幽界ゾーン(江戸時代から明治時代初期まで。現在は歓楽地。)
グリーン塗り=木賃宿ゾーン、明治からは貧民街ゾーンが加わる(現在は商業地、でんでんタウン、住宅)




水掛け不動で有名な法善寺や、ミナミの繁華街千日前の場所はみなさんよくご存知ですが、きょうはちょっぴりマニアックなルートでご案内しましょう。

まず、巨大な蟹で有名な「かに道楽」を目印に、道頓堀筋をぶらぶら東に向かってください。
インバウンドのさまざまな楽しみ方を見てこちらも和みながら進むと、すぐに右手「道頓堀今井」の店舗が見えます。
出汁の香りのいい大阪うどんの店です。
そのすぐ横に細い道が見つかりますか?
これが浮世小路です。明治〜昭和の道頓堀の風情が感じられる仕掛けが施されている楽しい通りです。
ここを通り抜けましょう。

下の絵図はこの小路に貼ってあったものを撮影しました。
明治時代末期のこのエリアを復元し絵図ですが、「中座」「今井楽器店(現在の「道頓堀今井」)」の右側に小道があることがわかります。
江戸時代から存在していたことがわかっているこの小路こそ、千日墓への近道だったのです。
(確証はありませんが、メインの道は現在の千日前筋だったと思われます。)


大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」




小路を抜けると、そこはもう法善寺横丁です。
右に折れてすぐ左に曲がると、法善寺(千日寺)に出会います。
境内のお初天神や水掛け不動(巻頭写真)への参拝客が今も絶えません。

この寺はかつてはもっと広い境内(現在の法善寺横丁くらいの)を有していました。
法善寺横丁を東に進みます。高い塀に囲まれているところは墓所です。ここが大阪七墓の名残ではないかという人もいます。内部は見られません。
千日前筋に出ます。
ここから南に折れます。
江戸時代には、この法善寺付近から先こそが幽界でした。
怖いもの見たさの町人にとっての。

ここで、皆さんには「十三の今昔を歩こう」ブログさんが、ここ千日墓所について書かれたページをぜひご覧いただければと思います。下の図はそこから引用させていただいたものです。このブログ主さんの調査研究にはおおいにお世話になりました。

この絵図にはありませんが、手前に法善寺があります。
そして南に向かって右側に竹林寺、左側に自安寺。
ここで黒門が見えます。
黒門の先には刑場があり、東西に広大な墓地があります。
その先の三途の川の手前に迎仏(むかえぼとけ)が待ち受けています。
そこを越えたところに祭場、焼場、灰山が描かれています。


大阪近代史フィールドワーク:6 「幽界テーマパーク千日墓」




1972年5月、千日前デパートが火災を起こし、118人が犠牲になる大惨事が起きました。日本ドリーム観光が所有していたこの複合ビルの立っていた場所には、元は大阪歌舞伎座がありました。その前は楽天地という大繁盛した歓楽ビル。さらにその前(明治三年まで)には千日墓がありました。
墓地の全てが刑場だったという誤解がありましたから、火災はすでに戦後だったにもかかわらず、処刑者の祟(たた)りだという噂が流れたものです。


刑場が整備されたのは上記の徳川による墓地整理に伴う事業でしたから、もちろん江戸時代初期のことです。
獄門(打ち首)、晒し首に特化したこの刑場(=せんにち)の周囲には、寺院、葬祭場、墓地(=千日墓)、火葬場、灰山までそろい、それはあたかも幽界のテーマパークでした。
怖い、でも興味がある、というわけで、江戸時代後半には周辺に夜店や見世物小屋まで並ぶようになった別世界だったといいます。
江戸時代の処刑は原則的に公開だったことを思い出してください。

処刑に当たる者も墓地や灰山を管理する者はすべて非人、賎民が担っていました。

墓地のすぐ西側に難波新地という大規模な色街があったことも忘れるわけにはいきません。
都会における「死」と「性(生)」、「聖」と「賎」とはいつもセットで、町の周縁部に用意されるのです。



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