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2016年11月21日

大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

大阪近代史フィールドワーク:6 
「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」



大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

現在のジャカルタのスラム:123RFさんより借用



1980年代のジャカルタ。8月某日。
熱気がさらに燃え上がるような天候でした。
整然と高層ビルが立ち並び、植樹もみずみずしいビジネス街を歩いていたとき、
その町に不似合いな身なりの女性を見かけました。
襤褸(ぼろ)のようなベージュのショールに乳飲み子をくるんで抱きかかえています。

彼女は人通りが途絶えるのを待っていたのでしょう。
焼けつく街路を小走りに横断し、
ビルの麓の緑の植え込みに入りました。
そして植栽用のホースをつなぐ蛇口をひねって水道水を流し、素早くあかちゃんの身体を洗い、足早に立ち去りました。

衝撃的な風景をうまく消化できず、
気になって彼女が去った方向に歩いていくと、
まだ若い並木の向こう側が急な崖になって落ち込み、その先の平地には川が流れ、両岸に累々と掘建(ほったて)小屋が並んでいる風景が広がっていました。
貧民街、スラムです。※① 

崖を下る道をさがして近づいてみると、スラムの手前の橋にたどりつきました。
異臭が鼻をつく眼下の川には得体のしれない汚物が流れています、いえ澱んでいます。
川に張り出した板がトイレです。
よく目を凝らすと、小屋の屋根の多くは赤錆びたトタン、穴の空いたプラスティックの波板、そしてくすんだ色の布を組み合わせてできています。

米の三期作さえ可能な豊かな農地で暮らすジャワ島農民は、
本来信心深く清潔好きで、毎日の沐浴(マンディー)を欠かしません。
ここに住む人々は、なんらかの理由で農地を失ったため、現金収入を求めて都会に出てきたのです。 
しかし大都会が彼らを手厚くもてなすはずもなく、貧しいまま集まって暮らしているのでした。
大人はもちろん、乳飲み子のマンディーすら叶わないここスラムで。

スラムの中に足を踏み入れる度胸はありませんでしたので、わたしは立ち去ろうとしました。
でも暇を持て余す男たちとたくさん出会いました。
私を見つけた彼らは異口同音に「カワサキ!」「アジノモト!」と笑顔で声をかけてきます。
服装などから日本人とわかるのですね。
同時に、たちまち了解したことがあります。
彼らはたとえばカワサキのバイク一台分の借金を払うため、
故郷の田を売り払って都会に出てきたのです。

成長めざましいアジアの国々は高度成長期の日本と同じ道を辿るのです。




大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

バリ島の沐浴風景:これは宗教上の沐浴であって、本文の沐浴とは趣旨が少し異なります。私はジャワ島やバリ島の川、水路で体や髪を洗っていたインドネシアの人たちの姿が目に焼き付いています。



大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

緑色のエリアが旧長町(名護町)。その中央を南北に貫くのが堺筋(紀州街道)



現在の大阪市の日本橋(にっぽんばし)という町は1丁目から5丁目まである細長い町です。
町の中央を南北に貫く堺筋※② は全長1600mにも及びます。
そのためか江戸時代には長町(または名護町)と呼ばれていました。※③
その通り沿いの(現在の黒門市場から恵美須町交差点くらいまでの)表通りに、旅籠(はたご)や木賃宿(きちんやど)が立ち並んでいたのです。
『東海道中膝栗毛』の弥次喜多も大坂ではここの安宿に泊まっています。

そういう想像をしながら(←難しいですが)ぶらりと歩いてみましょう。


大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

安藤広重の描いた「きちん宿」:ただしここに描かれているのは木曽の山中なので、大坂長町の風景とはずいぶん異なります。木賃宿とは、4〜6畳程度の部屋に数人が泊まる自炊宿です。


このエリアは、18世紀末から明治はじめにかけて日本橋(筋)と名が変わったものの、表通りの景観はあまり変化がなかったようです。
道幅も江戸時代以来の6m弱の幅のまま20世紀を迎えます。
ただし、裏通りには急激な変化が見られました。貧民街の成立と成長です。

明治になって大阪の近代都市化が急速に進むと、江戸時代に保たれていた一種の調和が乱れ、「ゴミ」が増えます。一例をあげれば人糞尿が増えます。
江戸期なら、江戸でも大坂でも人糞尿は金肥(きんぴ)であって、集めて小舟で運んで近郊の農村に持っていけば売れました。人口増はゆるやかでしたから、リサイクルのバランスがとれていたのです。


大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

肥船(こえぶね:人糞尿運搬船)と肥たご。出典不詳につき、ぜひご一報を。


ところが都会の人口が急増し、道頓堀などの運河が引かれていないエリア(たとえば日本橋3~5丁目)に人が集住すると、金肥はとても回収しきれず、おまけに需要(農業)は痩せ細る一方。結果そのエリアに人糞尿があふれかえることになります。
明治日本では幾度もコレラが流行しましたが、その一つの原因はこういう都市の調和の乱れにあったのでした。※④

人糞尿を運搬する職業の需要は激減しましたが、新しいゴミが増えるとそのゴミを処理する人々が必要になります。
たとえば紙屑拾(かみくずひろ)いという職業は江戸時代から成立していましたが、明治時代に急増しました。
新聞紙、雑誌を筆頭に近代文明が紙を多用するようになったからです。


大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

「紙屑拾い」出典不詳:ぜひご一報ください


ただしゴミを集めてもたいした金になりませんから、紙屑拾いの人にとって持ち家は無理です。けっきょく家賃の安い木賃宿(後の「ドヤ」)に泊まり続けるしかありません。
そのような木賃宿は地価の安い周縁部に建っています。名護町(特に裏通り)はそういう場所になったのです。
スラムの誕生です。

都会のスラムに住む人の職業は、もちろん紙屑拾いだけではありません。他に車夫(しゃふ:人力車曳き)、ラオ屋(煙管=きせるを清掃する仕事)、土方(どかた:工事などで働く肉体労働者)など日雇い労働者(立ちん坊)、下級売春婦(立ちん坊)、露天商、傘修理、そして乞食(こじき)・物乞(ものごい)などがスラムに居住する代表的な職業です。

日本橋筋沿いの表通りには商店や比較的程度のよい宿が並び、横道沿いや裏通りには狭い部屋の木賃宿(きちんやど)ばかりになったようです。最低ランクの木賃宿なら二、三畳一間。ここで六、七人、時に十人が暮らしている、と当時の新聞にあります。※⑤ 劣悪な環境に暮らす彼らスラムの人々が、近代の都市活動を下支えしていたことをまずご理解ください。

工場に雇われた労働者のような(低いとはいえ)給料取りは、こういう最下層の町にはあまり住みません。



大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

「小乞食・・・・・十歳前後のコジキ、五人三人群をなし、府下市内に徘徊(はいかい)するもの少なからず。衣は体を全く蔽(まと)はず、いもの皮を拾ふて食とする等見るに忍びざる様なり。」当時の新聞記事より。(東京)


2016年5月に惜しくも亡くなった新屋英子さんの一人芝居『身世打鈴(シンセタリョン)』をみましたか。この芝居の朝鮮人オモニの生業は紙屑拾いという設定でした。
そもそも長町スラムに住む人は農村出身者が多かったのですが、江戸期に非人階級に属させられていた人々もここに住むようになりました。
その流れで行くと、「ソテツ地獄」の後には沖縄人、「韓国併合」後には朝鮮人もここに住むようになることが予想されます。がしかしそうはなりませんでした。
間もなく名護町スラムはクリアランスされるからです。※⑥


大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

故新屋英子さんの『身世打鈴』:ハナの願いサイトさんから借用


1885年前後、大阪ではコレラが大流行し、民衆を恐怖に陥れました。
世論の不安の矛先が、すぐに名護町に向けられたのは言うまでもありません。
その声に後押しされた大新聞(朝日、毎日、読売)は、スラムの一掃を紙面で訴え始めました。
「虎列拉(コレラ)の巣窟(そうくつ)」「不潔汚醜」「貧民の巣窟」「悪漢の淵叢(えんそう)」等々の見出しが踊ります。
名護町・近辺の商家(ブルジョワジー)なども、行政に対してスラムの移転を請願します。

そんな折、大阪府の知事と警察は、名護町の移転計画を検討中だと漏らします。
朝日新聞の社説は「旧名護町に在る不潔なる裏長屋の移転を決行する府の計画は美挙とも称すべき」と持ち上げます。
この時の計画は実施されなかったのですが、大部分の大阪府民・マスコミ・行政は、スラム民の生きるすべや尊厳を無視して、「(コレラの伝染元である)乞食追放」の大合唱。

名護町住人たちは「我々は貧民に違ひはなけれど親代々ここに住居する事なれば去るに忍びず又他に行くべき所もなければ」と訴えて反対集会を開くなど「不穏」な動きを見せたものの、世論の支持は得られません。

ついに1891年、行政(警察)によって「不潔長屋」の取り払いと改築がスタートします。移転先は用意されず、「きれいにすれば貧民は住めない」という無責任な施策でした。
一軒、また一軒と古い木賃宿や住宅は(暴力的に)取り壊されていき、名護町を追い出された住民たちは、都市周縁の別の場所を求めて移動を始めます。たとえば御蔵跡(現なんばパークス)、高津、阿倍野、平野、今宮などの周縁部、つまり場末地域です。
ところがいく先々では元々の住民が「非常に迷惑を感じ居れり」と反対運動を起こし、その町の警察署は退去命令を出して追い払いました。つまり、警察が追い出した先にやはり警察が待ち構えていて追い払うというわけです。スラム民の落ち着く先はなさそうです。※⑦


大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

石炭酸によるコレラ退治の絵図:明治村の展示より



そんな折に持ち上がったのが、第五回内国勧業博覧会の大阪での開催でした。会場と決まったのは、日本橋筋の南端恵比寿町交差点のさらに南側一帯。
そこはまだ都市化が進んでおらず、田畑が広がっていて、したがって木賃宿も並んでいないエリアでした。現在の新世界、そして天王寺動物園がある場所です。名護町スラムの南方に当たります。
「皇国」の威勢、繁栄を内外に示そうとしたこの博覧会は、当然のことながら明治天皇の来場を持って正式開催になる運び。天皇は梅田ステンショで列車を降りて、まっすぐに堺筋(日本橋筋)を南下して会場を訪れるしかありません。外国人もたくさん訪れます。
少しずつ始まった「スラムクリアランス」にさぞかし拍車がかかったことでしょう。

とはいえ実際には道路の表通りにはあまり手をつけず、アーケードのような商家の「軒」を切っていった程度のことだと考える研究者もいます。天皇の馬車が通れる程度になればよかったはず、と。
もしその説が正しいのなら、裏通りが小綺麗な街に変わったわけではないので「スラムの一掃」はできていません。いえ、急速には進んでいなかったことになります。

真相はまだまだわからないことが多いのですが、
(いわゆるえらいさんの歴史以外はほんとうに記録が残っていないのが日本史なのです。)
控えめに見てじわじわと長期的にクリアランスが進んだことは間違いありません。
現状の<釜ヶ崎>と<日東町>を一目見比べればそれはわかります。

行政は、要は貧民が都市化の進んだこの地を出て行き、都市の新たな周縁部に移動すれば良かったのです。※⑧

都市という怪物が身の内に置きたくないものがもう一つ見つかりました。墓地、遊郭、そして加えて貧民街(スラム)です。




大阪近代史フィールドワーク:7 「日本橋(名護町)のスラムクリアランス」

2014年の日本橋(旧名護町)はでんでんタウンと呼ばれている:wikipediaより引用


※①スラムは明治時代には貧民窟などと呼ばれました。ずいぶんな言い方だなあ、と思うのですが、その点「スラム」だって住んでいる人々にとってはとても不愉快な呼び名でしょう。ですがここでは、止むを得ずスラムと呼びます。なお、ここで書いたエピソードは実話ですが、ジャカルタで出会った三度くらいの体験をひとまとめに書いています。

※②堺筋は日本橋筋と呼ばれることがあります。通称でんでんタウン。
またかつてはもっと先まで含んで「紀州街道、熊野街道」と呼ばれたこともあります。ただしこの二つの呼称で呼ばれた道は他にもあり、この道だけを指すわけではありませんので注意が必要です。
なお、江戸の日本橋(にほんばし)周辺も、初期には木賃宿が並んでいたと言います。偶然でしょうが興味深いところです。

※③少なくとも鎌倉時代までは、この堺筋がちょうど海岸線で、ながはま(なごはま)と呼ばれた記録が残っています。町が長いのではなく、浜が長かったのですね。すぐ東は上町台地です。平安時代の英才菅原道真が太宰府に左遷させられるとき、まずは安居(台地上の地名)で風待ちをしたのち、台地を下ってこのながはまから船に乗り込んだものと思われます。現在の安居神社が立つ場所から想像すると、恵比寿町交差点あたりが港だったのでしょう。なお、この長い浜はさらに南に伸びていて、釜ヶ崎、岸里、粉浜、そして住吉大社までのラインが波打ち際であったと思われます。

※④実際に長町スラムではコレラが流行し、他地域から蛇蝎(だかつ)のように嫌われました。1885年頃の大阪朝日新聞の記事では「日本橋四丁目五丁目(旧名護町)には年中伝染病の跡を絶たず〜〜貧民の巣窟にして衣食住とも衛生に適さざる〜〜」とあります。ちなみに当時の衛生管理は、警察の業務でした。

※⑤いわゆる「困難校」を経験した教員は、「今でも変わらん」と思うでしょう。ただし、この木賃宿の部屋にはトイレも台所もありませんので、そこは違うかもしれません。ちなみに新世界の北東の日東町は特にスラム化が激しかった地域です。
なお、女性や子供、年寄り、不具者(身体障碍者)は朝から物乞(ものご)いに出て、ふつう夕刻に帰ってきます。身体を売ってわずかな現金を得る女性たちは、主に夕刻からに仕事に出かけます。時間差で部屋を共有できたともいえるでしょう。

※⑥『大阪のスラムと盛り場』の著者加藤政洋氏は、クリアランスと呼ばれるくらいの短期間の行政施策はなかったと、データをあげて主張しておられます。私もいまのところこの説に共感しています。ただ、世論や行政側の圧力が木賃宿主やスラム民にかかり続け、また、長町の地価が上がったため、けっきょくはスラムが大きく減少し、大阪周縁部に貧民が移動し、少し遅れて釜ヶ崎にもスラムが誕生した、という道筋はまちがいないところ。長いスパンでのクリアランスがあったと言えないこともない、と考えています。

※⑦当時今宮村の西浜地区(現在の西成区。釜ヶ崎から見て1kmほど西。)には大規模な被差別部落がありました。皮革業の集約化に成功して発展中だったため、この地が彼らクリアランスを受けた貧民の一部を受け入れたという、出所不明の伝聞があります。

※⑧幅の広い道路御堂筋が開通するのは大正時代。それまでは堺筋(紀州街道)が大阪南北を結ぶ唯一のメインストリートでした。それなのにその道幅は6m弱しかなかったのです。



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この記事へのコメント
管理人様はじめまして。
かつてでんでんタウンに住んでいましたやしむと申します。

数年ぶりに「長町スラム」で検索してみたら、とてもわかりやすくスラムクリアランスについてまとめられているこのページにたどり着き興味深く拝見させていただきました。
「大阪のスラムと盛り場」の新説も取り上げられた上での考察が大変面白かったです。
なかなか名護町まで遡って日本橋の歴史を書かれている方が少ないので、また日本橋を題材にされた記事を執筆いただけたら嬉しいです。
Posted by やしむ at 2019年05月29日 17:53
やしむ様はじめまして。gadogadoです。
お誉めいただいて恐縮です。こちらこそ、色々教えてくださいませ。
Posted by gadogadojpgadogadojp at 2019年05月31日 11:13
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