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2010年04月17日

伊勢神宮(内宮)〜その1

さて、そろそろ伊勢神宮の超大物の神様二柱に思いを馳せようと思う。


伊勢神宮(内宮)〜その1




一柱は豊受大御神(トヨウケノオオミカミ):豊受大神宮(とようけだいじんぐう)すなわち外宮(げくう)に祭祀される神。
この神についてはいずれ書いてみたい。

もう一柱は天照大御神(アマテラスオオミカミ):皇大神宮(こうたいじんぐう)すなわち内宮(ないくう)に祭祀される神。
この神について、今回は少々言及する。
というか、無責任な空想話を展開する。


その前に、カミについての私のスタンスを整理したい。

完全無宗教無宗派なgadogadoだし、
いわゆる敬虔な信仰心もたぶん持ち合わせていないけれど、
カミという名で呼ばれる存在には、それなりの敬意を払っているつもり。

カミとは何か云々〜のような論議にはとても参加できる資格はないが、
長いあいだ人間たちはカミを信じて暮らして来たのだから、
少なく見積もっても人間たちの思いが凝縮されたその依代(よりしろ)または空間があることを信じるし、
場合によっては、人間でないものが依代に現れることがなかったとは言えない。
私は無宗教主義者であるのと同じくらい、アンチ科学万能主義者だからだ。
(ただ、いずれはその科学が、はやりのスピリチャル/パワー・スポットの意味くらいは解明するだろう。神社の位置と科学的スポットとの一致がわかればとてもわくわくできる。)

そんなわけで、
国内外各地を旅行した時も、
可能であればその地のカミに拝礼してきた。
正しい作法で礼儀を示せるとは限らないが、
こんにちはおじゃましますの精神で、
信仰の場所/対象をなるべく大切にしてきた。
(明らかな失敗もしたけれど)

つまり、「かみさまなんていねえよ」という心根では生きていない。

ただ、近代日本の国家神道とそれに基づく皇国史観には呆れ返ってうんざりするばかり。
皇室の祖神とされたアマテラスを頂点にして、人間たちがカミの序列を定めるなど、
日本列島の八百万のカミの世界への冒涜に相違ない。

全国どこへ行っても、アマテラスを合祀する神社だらけ。
これ、変でしょ、やっぱり。

その意味で、
今も多くの神社に翻る日の丸の旗は、
しばしば神社の拝殿や依代としての磐座(いわくら)を見下ろしていて、失礼この上ないと思う。
アマテラスの歴史は、日の丸の歴史より古いからだ。
伊勢神宮においても、日の丸の旗は高く掲げられ、
清澄な神域に違和を生じさせている。


さて天照大御神
私は汎日本的合祀は行き過ぎだと考えるものの、アマテラスを否定したりしない。
イザナギが左目を洗ったときに生じたこの神は、高天原を任された。
弟神のスサノヲとの軋轢から、天岩戸(あまのいわと)に隠れたエピソードは誰もがおなじみ。

ここでは、それらの神話を完全な虚妄と切り捨てず、すべて正しいとも考えない。
ニュートラルを守ることにする。
それを前提にしたうえでいま話題にしたいのは、その<死>後のこと。
アマテラスは、なぜイセの地に祀られたのかという疑問に一定の仮説を立てたいと思う。


伊勢神宮(内宮)〜その1



江戸時代に大流行した「お伊勢参り」、幕末の狂信的「お陰参り(おかげまいり)」。
伊勢神宮は、中世までの「熊野詣(くまのもうで)」にかわり、日本列島人の巡礼先の頂点に立った。

加えて、
上述の通りの皇国史観が歪めた歴史もあって、
さらに加えて、
この神宮独特の20年に一度建て替える式年遷宮のため、いつも清々しく真新しい社殿が見られること、
などなどの相乗効果で、
比較的新しい神社だとのイメージを持つ人がいる。

ところが、
1920年に鎮座祭が行われた<ばかり>の明治神宮や、
1895年に創建された<ばかり>の平安神宮とは違って、
この伊勢神宮の歴史はたいへんに古い。

このあたり、創建の事情を、当の神宮はどう説明しているのだろう。
「伊勢の神宮」(伊勢神宮)HPを読むと、あたりまえだがほぼ日本書紀と同じ説明だった。

すなわち、

天照大神=ご神体の八咫鏡は、
1)崇神(すじん)朝に宮中から祭祀が分離され、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)で豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が祭ることになった。
2)垂仁(すいにん)朝に、倭姫命(やまとひめのみこと)によって安住の地を探し求め、ついに伊勢の国の度会(わたらい)の地、宇治の五十鈴川の川上に祀られることになった。
3)これが今の伊勢神宮(内宮)の由来である。   とある。

ちなみに、崇神の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、その子の垂仁の和風諡号は「イクメイリヒコ」。
この二人に共通するイリの語をもって、『イリ王朝』とする学者がいる。
私は他所から<入って>きた一族という意味だと思っている。

また、崇神から後の天皇は実在だとする学者も多く、その場合の崇神期の時代比定は、3世紀後半から4世紀初めではないかとされることが多い。
そうだとすると、邪馬台国畿内説を採るならば、崇神朝はその次の王権とも考えられる範囲にある。
(ヒミコはおそらく3世紀半ば頃に死去)

仮にこの崇神が、他所からやってきて、
たとえばミマ=任那の城(キ)からやってきて、
あるいはミマ=美馬の城(キ)からやってきて、
奈良盆地の桜井周辺(三輪山麓)の旧王権を奪取したグループの長だったとすると、
しかも純然たる軍事力による侵略ではなく、
血縁を利用した三輪神の祭祀権の奪取、などと考えると、
旧王権の象徴たる天照大神=八咫鏡を敬して遠ざける理由に納得がいく気がする。

だいたい、
イズモ系の三輪の神オオモノヌシ、オオナムチと天孫系のアマテラスの相性が良いはずがないのだ。
したがって、崇神は、
権力の地ヤマトにはオオモノヌシ、オオナムチを祀り、アマテラスの分離政策にでて、
せがれの垂仁がこれをイセに遷して完成させた、
と私は仮定しておく。

神武天皇はハツクニシラススメラミコト
崇神天皇もハツクニシラススメラミコト
…二人が同一人物であるとする研究者もいて、示唆に富む。

しかしアマテラスの威勢はいまだ衰えず、
人びとの信仰を集めていた、つまりカミとして生きていたため、
たとえはじめから目指す地はイセであったとしても、
しかるべき手順を踏み、
アマテラス納得の上、
アマテラスグループ納得の上、
イセに落ち着かねばならなかった。

それが倭姫命の迂回ルート旅の意味であったのではないか。
(『日本書紀』では、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある。)
倭姫命という異様な名前の秘密も、このあたりにあるような気がする。

伊勢神宮(内宮)〜その1




しかしなぜ伊勢なのか。
本題のその考察は次号にて。




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Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)神社/仏閣
 
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