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2011年07月22日

摩湯山古墳も橋頭堡古墳

摩湯山古墳も橋頭堡古墳




1)摩湯山古墳と五色塚古墳


先日、「五色塚古墳は橋頭堡か」という記事を書きました。
兵庫県垂水区の五色塚古墳の記事

その後しばらく古墳巡りをしていませんでしたが、昨日たまたま何気なく岸和田市の摩湯山(まゆやま)古墳に行った折り、
ふとひらめくものがありました。
摩湯山古墳も、五色塚古墳とまったく同じ意図で築造されたのではないかと。





この摩湯山古墳の簡単な説明を、古墳前に建つ文化庁や大阪府/岸和田市教委の手による石碑から引用します。

「西北流する牛滝、松尾の二川の間、南より延びる丘陵の西北端に位置し、前面の平野を一瞬に望む景勝は、…(中略)…丘陵の先端を利用して築造されたもので、丘の方向に従って東南から西北に主軸を置く前方後円墳で全長約200m 、前方部幅約100m、後円部径約130メートルを測り、墳丘には埴輪列も認められる。その形態の特徴から古墳時代前期のものと思われ…(後略)」

また、前述教委発の他のデータによると、
築造は4世紀後半と見られること。
後円部高さ21m 前方部高さ15m 。
造り出しがあること。
川原石の葺石が認められること。
竪穴式石室であること。
などなど、まだ発掘作業は行われていないものの、私のアイデアの裏付けには十分な証拠が見つかりました。
神戸市垂水区の五色塚古墳とたいへん良く似た古墳であることがわかるからです。

五色塚古墳の墳丘長は約194メートル。形態も似ていますし、築造時期もほぼ同じです。
そして、私にとってもう一つ重要な相似が両者にはあります。
それは、共に孤立した大古墳であるということです。

五色塚古墳、摩湯山古墳ともに、大きな古墳群の中に位置していません。
すぐ近くには、(陪冢や時代の異なる小さめの古墳はあるものの)これに匹敵するようなほぼ同時代の大古墳がありません。
つまり、これら大古墳が築造されて以後、これに連なる勢力が支配を継続した雰囲気が薄いのです。
まして、当該古墳以前に当地に古墳が形成された形跡はまったくありません。

このことは、いくつかの可能性を示唆しますが、
私はこれは他の地域の勢力=ヤマトの勢力(によって派遣された人物の手)による橋頭堡であった証ではないかと考えるのです。
言い換えれば、その地域の在地豪族とは出自の異なる古墳だったのではないでしょうか。

この傾向は五色塚古墳に顕著です。
付近には(陪冢の可能性の高い円墳の小壺古墳以外)同時代の大きな古墳や古墳群は存在しません。
すぐ西の舞子ヶ平古墳群はきわめて小規模で古墳も小さなものしかありません。

摩湯山古墳では少し様子が異なります。
約1km西には、牛滝川をはさんだ丘陵に久米田古墳群があるのですが、中で最大の貝吹山古墳は墳丘長135mの大きな古墳で、軸線の方位も摩湯山古墳と同じ西北〜東南です。摩湯山古墳に続いて4世紀後半に築造されたと考えられています。
摩湯山古墳の被葬者の系譜につながる者がこれを築造したと考えても良いと思いますが、しかし同一丘陵上に造らなかったのは何らかの理由があったはずです。(付近の地形については下記2)参照)

私の推定通り、まずは橋頭堡として築造された大古墳のその主が、土着後に既成の在地勢力とどのような関係を結ぶかについては地域によってことなるでしょう。垂水には垂水の、和泉には和泉の事情があったはずです。もっとも一見すると摩湯山古墳の主の方が、在地勢力との婚姻などの関係構築に成功した、と言えそうですが。




摩湯山古墳も橋頭堡古墳

     前方部


2)摩湯山古墳の果たした役割

それでは次の課題に取り組みます。
五色塚古墳の橋頭堡としての役割はすでに推理しました。
それではこの摩湯山古墳の場合はどんな勢力や政治情勢に対して打たれたくさびなのでしょう、あるいは恫喝なのでしょう。
私はまだその問いに確答することはできませんが、推理の卵のようなものは脳裏に浮かんでいます。
ここではあいまいながらもその根拠を示したいと思います。

ここ摩湯山古墳の立つ場所は、石碑にも書かれているように、牛滝川と松尾川が浸食し残した丘陵です。
和泉葛城山脈の岩雄山裾から西北に向かうこの丘陵は、現在の地名で言えば岸和田CC、テクノステージ、積川、包近(かねちか)、あゆみ野、山直(やまだい)、唐国(からくに)、東山、等等の集落や畑地を経由し、ここ摩湯町の下で平野とつながり、西側を眺めると田治米(たじめ)、今木(いまき)、久米田(くめだ)、春木などの田園や住宅越しに大阪湾を遠望します。

大阪湾岸は、古くから人々がすみついていました。
阪南市の向出遺跡などに見るように、縄文後期から晩期にはかなりの数の集落があったのではないかと私は見ています。
弥生時代に入っても、たとえば「観音寺山遺跡」のように、弥生後期に入っても永住用の高地性集落を形成し、稲作に重きを置き過ぎず、縄文以来の狩猟、採集、漁労が充実した暮らしを送る人々も多かったように見えます。
このことの解明のためには、海の恵みをはじめとする和泉の自然の豊かさを物語ると同時に、降雨量の少なさゆえに稲作にはやや不向きな土地柄という両方の要素を考慮すべきだと思います。

上記のような集落はすべて、細長い丘陵上に形成されていました。※
和泉葛城山脈から北西方向に流れる数十の中小河川は、熊手の刃のような丘だけを残しながら台地を削って行ったからです。
その刃先部分には、それぞれ弥生集落が立ち並んでいたのではないかと、私は少々粗雑に想像しています。

これら高地性の弥生集落に住む人々は、その縄文色の強いスタイルから、大国家に従う習慣や必要の乏しい「まつろはぬ人々」であった可能性が高いと推測できます。「記紀」に言う国栖や土蜘蛛でしょうか。
ところが、河内、和泉に打って出て河内湖や大阪湾を押さえて自国を富ませ、列島統一と外交ルート確立をねらうヤマトにとっては、和泉地方はどうしても従わせなければならない土地だったでしょう。
石津川河口に港を確保したいならなおさらです。
彼らをひれ伏さすために、熊手の刃先の一つの丘陵に王族の一人に兵をつけて派遣し、大きく光り輝く前方後円墳を築造したのではないでしょうか。
この前方後円墳体制に従え、と。
かなり強引に単純化しましたが、そう想像するのです。


摩湯山古墳も橋頭堡古墳




一方、もう一つの要素も考慮したいと考えています。
簡単に申せば、それは渡来人が築いた高い文明とこれに基づく生産力、外交力です。

先述のように、この摩湯山古墳付近には唐国(韓国)、今木(今来)のように渡来人を思わせる地名が残っています。
和泉全体に視野を広げれば、それは数え切れないほど見つかります。
大阪湾岸は、畿内にたどりついた渡来人にとっては、どの時代であっても第二の故郷のような場所ではなかったでしょうか。
彼らはその高い技術で灌漑し、溜め池を造り、稲作を行います。
金属加工を行います。
塩田を作ります。
硬質の陶器を焼きます。
故郷の朝鮮半島とのルートを確保しています。
そんな彼らの援助または服従は、
ヤマトにとってどうしても必要な要件だったのではないでしょうか。

摩湯山古墳は、
ヤマトの戦略にとって服従さすことが必須であった人々〜しかし簡単には服従しない人々〜「古代泉州人」たちへの示威行動としての橋頭堡だったのです。



摩湯山古墳も橋頭堡古墳

古墳近くの溜め池の土手から久米田方向の丘陵を眺める



※有名な「池上・曽根遺跡」は平地に形成された60万平方米もの大規模な弥生集落跡です。この規模は、大規模な稲作を基盤にすると考えることもできます。
戦いに備えた環濠集落ですが、当然、大量の農具が出土しています。
このような(環濠)集落が、大阪湾岸の平野部や谷間に点在していたと考えられます。
この状況が古墳時代に入ってさらに発展したとするなら、ヤマトの狙いはここにもあったかもしれません。稲作地帯の生産力です。
高地性の集落とどのような関係であったかは定かではありませんが、このような並立併存は、摂津(阪神間)でも見られるようです。
反面、この池上・曽根遺跡の至近には河川流量が乏しいことから、ここは渡来人の灌漑技術を暗示しているようにも思いますし、
蛸壺も発見されていますので、高地性集落の発展系と考えるのも楽しい想像です。
考える材料は豊富です。
ただ、勉強が及ばない私は、現時点では予断一つ持たないようにしています。


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Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)歴史
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