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2011年06月12日

五色塚古墳は橋頭堡か

橋頭堡(きょうとうほ)とは、軍事用語です。
「渡河や上陸作戦のとき、上陸地点に確保し、その後の作戦の足場とする拠点。」
大辞泉より



五色塚古墳は橋頭堡か

今年、後方部にも鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)、鰭付朝顔形埴輪(ひれつきあさがおがたはにわ)が復元され、1600年余前の姿がさらに復元されました。



おなじみ「五色塚古墳」の位置づけについて少し検討したい。

にょきにょきと古墳が築造年代順に地図上に3Dで表示されていくようなソフトを、
ゲームソフト会社と大学との共同で開発してもらえないものだろうか。

水田やムラ、宮などの遺跡も復元され、
順序も変えられるようなソフトがあれば、
五万円出しても購入するのだけれど。



五色塚古墳は橋頭堡か

神戸市教育委員会発行の冊子「たるみの遺跡」より引用


というのは、
どんな古墳でも同じではあるのだが、
特にこの五色塚古墳のように他の古墳群と孤立して築造されている古墳の場合、築造年代がとても重要な探究のファクターになるからだ。
他の地域の古墳との相関関係を把握しないと、どのような勢力がなぜここに築造したのか、推理がきわめてあやふやなものになってしまうから。

というわけで、五色塚古墳の築造年代を知りたいのだが、
考古学の専門家でないわたしには、古墳の年代を独自に比定できる知識力を持ち合わせていないので、
現在の時点では、神戸市教育委員会による4世紀後半築造説を援用させていただき、
以下、少々論じてみたいと思う、この古墳の正体を。


4世紀後半は、西暦で言うと370〜380年頃は、
日本列島はどんな時代であったか、それを簡単に復習してみる。
ただし、ここは多分に私の自説に従うことにする。

3世紀半ば 卑弥呼死す→倭国乱れる→壱与が女王に
      (邪馬台国の位置はここでは不問)

3世紀後半 西方の勢力が畿内に入り、制圧する→支配圏拡大
      マキムク遺跡に端を発した前方後円墳が普及始める
      (中国史書における倭国の空白時代がしばらく続く=空白の百年)

4世紀前半 ヤマト勢力による東西日本列島の平定、反乱の鎮圧(ヤマトタケルの時代)
      奈良盆地東側に大型古墳群(現山辺の道沿い)

4世紀後半 ヤマト勢力の広範囲制圧状態が安定 
      奈良盆地北側に大型古墳群(佐紀古墳群)→河内への進出開始
  
5世紀   ヤマト勢力による河内進出が本格化
      古市、百舌鳥巨大古墳群の造営
      活発な外交


五色塚古墳は橋頭堡か



つまり現時点での私の認識では、
この五色塚古墳が築造された4世紀後半と言う時代は、
ヤマトに本拠を置く政権が奈良盆地北部に古墳群を経営中の時期であったが、
河内の重要性を認識して西へ進出しはじめた時代だと看ている。
それまでも河内はヤマトに従っていたはずだが、
おそらく在地の諸勢力を駆逐して、ヤマトはカフチを直接統治することに踏み切ったのだろう。

その河内の存在価値については、先日書いたばかりだが、
ここでは特に、(西日本、朝鮮、中国のすべてを含んだ)外交の拠点としての役割を強調したい。
上町台地の北端あたりなのか、墨江なのか、石津なのか、当時の港の位置は定かではないが、
ここから西へ、あるいはここへ西から、のルートはヤマトにとって最重要な交通路。
船舶による外交が中心であったと思われるから、
目前に淡路島北端が突き刺さるように迫っている狭隘なこの海峡は、
河内を拠点として世界戦略を練っていたヤマトにとって、
地政学上、どこよりも大切な地点であったに違いない。
近畿のジブラルタルだ。


さて、当日五色塚古墳でガイドの任にあたっておられた神戸市教育委員会の職員の方とゆっくり話を交わすことができた。
その会話の中で、
・葺石は、日本書紀の記述通り、淡路島から運んだと見られること。
・この古墳の主は、西は明石、東は長田あたりまでを支配下に置いていたと考えて良いこと。
・同じくその主は、在地豪族が任命された国造(こくぞう、くにのみやつこ)である可能性もあるし、中央から派遣された者であることも考えられること。

以上の三点が、私の曲解がなければ、新しい知見を得るとともに確認できたことがありがたかった。

とりわけ三つ目の観点がこの小論では重要になる。
私は、この古墳の主は、中央(ヤマト)政権の中枢に属する重要人物がここに派遣され、海峡の防備を任されたものと考えたいと思う。


五色塚古墳は橋頭堡か




この時期ヤマトではすでに王権が確立していたと思うのだが、
その王と姻戚関係を持つ誰かだと想定すれば、
この地の地政学上の重要度と、
河内経由の外交を直轄的に切り開きたいヤマトの思惑、
そして同時代の古墳としては例外的に、佐紀古墳群の王墓と肩を並べる194mもの墳丘を持つ意味、
これら三点と齟齬しないように思えるからだ。


五色塚古墳は橋頭堡か




同時代の大前方後円墳を三例挙げておく。

1)佐紀古墳群の佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)
   墳丘長約210m
   4世紀後半~5世紀前半と推定。

2)古市古墳群の津堂城山古墳
   墳丘長208m
   4世紀後半
   古市古墳群の中では最も古い大古墳

3)百舌鳥古墳群の乳岡(ちのおか)古墳
   墳丘長155m?
   4世紀末?

中でも2)の津堂城山古墳には、私は強い関心を持っている。
旧河内湖とその南の平野に最も近い場所に築造されたこの古墳は、
ヤマトがカフチに進出した際の橋頭堡のように見えるからだ。
もちろん古墳は純軍事施設ではないが、
ここに直轄地を設けるというヤマトの強力な意思を感じるからだ。

同様に、この五色塚古墳もまた、
ヤマトが強力な意思を持って築いた、西への野望の表現ではなかったか。

西からの全ての外交船はこの明石海峡を通る。
その船が最初に見る畿内権威の徴(しるし)は、
陽光を浴びて光を放つ、この大古墳であったに違いないから。

またそのような要の地点を、
いつ裏切るかも知れない地方豪族に委ねることは想像できない。





『五色塚古墳』
「五色塚古墳は、淡路島を望む台地の上に築かれた前方後円墳です。その全長は194mで、兵庫県で一番大きな古墳です。周囲を深い濠と浅い溝で二重に囲い、西側には円墳で、直径70mの小壺古墳が築かれています。」
冊子『たるみの遺跡』:神戸市教育委員会発行 より


五色塚古墳に関する過去記事
「五色塚古墳」

私は今後、
この古墳の主の支配領域であり、生産力の源泉と考えられる明石付近をフィールドワークしたいと願っています。



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Posted by gadogadojp at 12:30│Comments(0)歴史
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