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2011年03月08日

瞽女唄(ごぜうた)を継ぐ人

和泉市の人権文化センター(ゆう・ゆうプラザ)にある和泉市立市民文化センターで、
 瞽女唄(ごぜうた)を唄い継ぐ
 萱森直子(かやもりなおこ)さんの
「葛の葉子別れ」を鑑賞してきました。


瞽女唄(ごぜうた)を継ぐ人




瞽女・瞽女唄…
公的な福祉のない時代、目の見えない女性の生きる道は限られていました。
瞽女とは、生きるために三味線をたずさえて村々を回っていた盲目の女性旅芸人です。
越後の地でだけ途絶えずに引き継がれてきました。
〜パンフレットより

萱森直子さんは、国から指定された無形文化財保持者の長岡瞽女故小林ハルさんに長年師事され、
今日では希少な瞽女唄伝承者です。
彼女は瞽女ではありませんが、
瞽女唄を「楽しんでいただければ」「楽しんでいただけましたか」という繰り返しのセリフが印象に残りました。
瞽女唄は娯楽であり、瞽女は楽しみをもたらす聖女なのでしょうか。


瞽女唄(ごぜうた)を継ぐ人




現役での大学受験に失敗した私は、
高校を卒業するとすぐに(鬱陶しい)神戸を飛び出して、
東京で下宿生活を始めたのですが、
実家も神戸市から富田林市に転居したため、
私の学生時代の里帰りは大阪南部に向かう旅でした。

かつかつの生活でしたから、
里帰りのときはたいていは新幹線は使わず高速バスでした。
夜行のバスは必ず何カ所ものSAで休憩をとり、
これが楽しみでしたとは、先にどこかで書きました。

ある里帰りの途中のSA休憩時間、高速バスの一番後ろの席、トイレの真ん前に座っていた私に声をかけたのは「目えの見えへん人」でした。
学生の私より少し年かさでしょうか、それでもせいぜい20台半ばでしょう。
短髪のその男性は私にこういいました。
「わたしはいちばん前の席に一人ですわっているのですが、もし良かったら席をかわってくれませんか。トイレが近いと助かりますので。」
私は100%喜んで席を替わりました。一番前の席に座れるのはラッキーです。

次の休憩場所はたしか浜名湖でした。ここでは長い休憩がとれます。
私は真っ先にバスを降りましたが、扉の前で待っていて、「目えの見えへん人」に声をかけました。
「一緒にいきましょうか。」
その人は言いました。
「お願いします。」

当時の私は、「目えの見えへん人」の知り合いと言えば、神戸の西灘駅付近に住んでいる、きつい弱視のマッサージ師のおじさんだけでした。
そのおじさんは音楽が好きで、特にロマン派がお好きでした。
その頃バロック音楽に少し凝っていた私と、マッサージのたびに、
クラシック話に花を咲かせていたものでした。
(私の話題は、今思えばもちろん冷や汗ものでしたが)

話題が逸れました。
そんなわけで「目えの見えへん人」をどうサポートすればよいかわからず、その人に率直に尋ねました。
その人もまた率直に手を伸ばし、「服につかまらせてください」と言いました。
初めての経験でしたが、なんともスムースに駐車場を横断し、
SAの店舗まで案内することができました。

いっしょにお茶を飲みながら、あれやこれや話した内容はもう忘れてしまいました。
お名前もおぼえていません。
でも、一つだけ記憶していることがあります。
「わたしは大阪に着いてから琵琶湖に行きます。」
「ほお、琵琶湖ですか。」
私に浮かんだ疑問を感じ取られたその人は、
「はい、琵琶湖を見に行くんです。」と言いました。


バスが大阪駅に着いて、
私は入場券を買ってJRのホームまで案内し、
手を振ってさようならをしました。
列車が見えなくなるまで手を振っていたように思います。
その人は私が手を振るのが見えていたと思います。

彼は私に忘れがたい記憶を残してくれた、私のマレビトです。


瞽女唄(ごぜうた)を継ぐ人




舞台の萱森直子さんは言います。
師の瞽女小林ハルさんから聞いた話として、
瞽女の旅は苦労が多いが、
瞽女は大事にされた。
瞽女は縁起がいいと思われたからだ、と。
瞽女のかついだ米(もちろん門付けの米だろう)と我が家の米との交換を求められたり、
すり切れた糸をほしがられたり(安産のためとか)、
繭を触ってくれとせがまれたり(良い繭玉になる)、
そのような話は枚挙に暇が無いと。

瞽女は差別社会を生き抜く貧しい旅芸人ですが、
地方の農家の人々にとっては、
最大の娯楽=唄物語を運んでくれるマロウドであり、
マレビトであり、
ホトケでもあったのでしょう。

目の見えない少女が生きる道は按摩か瞽女。
将来親なしで生きていかねばならない我が子を、
親は厳しく厳しくしつけたうえで、
瞽女の親方に預けたと言います。

差別の汚辱の中で短命に終わってもよさそうな封建社会の内側で、
人々は障碍者の生きていく道を必死に切り開きました。
個人行動を許さず、男性との親密な交際も厳に禁じられ、
掟の中で芸を精進し、
旅から旅へ渡り歩く瞽女たちは、
当時の農民の目には、
果てしもなく清浄な存在に思えたに違いありません。


瞽女唄(ごぜうた)を継ぐ人




力強く荒々しく、
「障子をびりびり震わす」(晩年の小林ハルさんの唄)ような発声で、
しかし脚色を排し、感情を込めず、声色も変えず、
ただ淡々と三味線とともに唄う萱森さんの瞽女唄に、
90分はあっという間に過ぎ、
私は「葛の葉子別れ」の世界にどっぷりと浸ってしまいました。


「帰命頂礼(きみょうちょうらい)」で始まる立ち唄(招かれた家を去るときの唄)を聞いたとき、
また来年私の家にぜひ来てくださいと涙を流して瞽女さんの手を握る、
雪深い越後の老農になった私を私は見ました。



萱森直子さんのHP






20才台の頃、ラジオに流れた瞽女唄〜たぶん高田瞽女杉本キクエさん〜を聞いて衝撃を受けて以来、
聞きたくてたまらなかった瞽女唄。
杉本キクエさんも杉本シズさんも、小林ハルさんも亡くなった今、
ハルさんとシズさんの芸を伝承しておられる萱森さんの舞台に出会い、
私の中の何かが一つ落着したような気持ちです。
ふだんまったく見ることも無い和泉市のサイトをなぜ覗く気持ちになったのか、
不思議です。


でもやはり生演奏が数倍魅力的です。


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Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)音楽・舞踊
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