2010年11月14日
「穴師大兵主神社」〜三輪山あたり:その2
③「穴師大兵主神社:あなしだいひょうずじんじゃ」

特に理由もないまま直感に導かれ、穴師大兵主神社に参りました。
足を運んでみると、なんとも意味ありげな神社でした。
古代には別々だった三社が合祀された、ということで、三つの名前が私を混乱させます。
そこで、由緒や伝承を調べてなんとかまとめてみますと、下記のようになります。
巻向坐若御魂神社(まきむくにいますわかみたま)〜元は巻向山中にあった?/右殿/祭神:稲田姫他諸説
穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)〜元は弓月嶽にあった?(上社)応仁の頃焼失/中殿/祭神:八千矛神他諸説
穴師大兵主神社(あなしだいひょうず)〜元からここに鎮座していた(下社)/左殿/祭神:天之日矛他諸説
神社の総称となっている大兵主神が中殿ではなく、左殿に祀られていることがもうわかりません。
若御魂、兵主とはいずれの神なのか、諸説あって解読不能です。
弓月嶽とはどの山なのか、これも諸説あって難解です。
そも、穴師というこの地名の由来自体、定説がありません。鉱道を思わせる文字面ですが、漢字の意味にこだわってよいのかどうか疑問です。<あなし>でなく<あなせ>と読ませている文献もあるそうです。
穴師と丹生(辰砂/水銀)との関連を語る研究者もおられます。私には楽しい発想ですが、ここでは深入りしません、いえできません。
というわけで、もうお手上げ状態の神社なのですが、
それだけに興味津々、探求してみたい神社です。



幽々たる(造語)雰囲気でしょう。背筋のアンテナがぞわっとする社(やしろ)、杜(もり)や池です。
より大きな地図で 三輪あたり を表示

穴師集落の東側高台から箸墓方向を眺める。
ポジショニングを検討します。
神社の長い参道の手前は穴師の集落です。
景行天皇の日代宮はこの穴師付近に置かれたのではないかと言われています。
奈良盆地が見渡せる良い場所です。
神社自体の位置は三輪山の北、巻向の東にあたります。
上の地図に、緑の矢印が六本並んでいますが、その左の青い押しピンをクリックしてみてください。
現在は奥まった位置に建つように見えますが、おそらく、巻向から伊賀に通じる古い街道が通じていた道沿いです。
現在は一部消滅していますが、googleなどの航空写真を見ると、辛うじて跡が辿れます。神社の参道入り口から分岐して東に進んだのでしょう。
謎や推測ばかりで埒があかないようですが、
けれど大事なことは、
三輪山塊のすぐ北の谷の街道沿いの高台から山頂にかけて、これら神社があったこと。
三輪王権?の神聖な地を見下ろす場所に位置したとも言えますし、
街道から三輪、大和に下る道沿いに護衛官のように位置していたとも看ることもできます。
三輪山の祭祀権を包含してこの地に着いた外来者ミマキイリビコイニヱ(崇神)が必要とした武神でしょうか。
となると、三輪山信仰の成立より古い創建ではありえません。
いずれにせよ、明確になったのは、
崇神/垂仁/景行の三代の三輪王権にとって、この三社は必要な役割を担っていたということでしょう。
そこに依り憑く神というより、そこに神が依り憑いて欲しいとでもいうように<実用性>の高い神社だったように見えます。
ところがその後、しだいに重要性が失われ、社殿が消え、ついに三社を合祀するにいたったのは、
ミマキイリビコイニヱ(崇神)以降の三輪王権にだけ大切であったことを意味するのではないでしょうか。
応神以降、河内に王朝が築かれるようになると、その意味は薄れたと看ます。
この神社の参道そばに野見宿禰を祀る相撲神社も残ります。相撲は四股を踏みます。四股は地鎮のための祭礼儀式です。
そうです、元の三社は巻向地域=三輪王建の東方街道の守護神群だったのだといまわかりました。
ならば巻向坐若御魂神社と穴師坐兵主神社の位置も見当もつきます。
上の地図の緑の矢印は、街道を見下ろす要地を選びました。両社の元の位置の候補地です。

④<穴師都祁道>に沿って

この街道沿いにある笠集落の高台からの展望。意外にも広々した風景が広がります。写真は撮影していませんが、カメラの後方には笠荒神社があります。
前項③でみた穴師から都祁(つげ:古くは都介)に至る街道をなんと呼べばいいのでしょうか。
研究の蓄積の無い素人の弱点で、街道の名がわかりません。
しかたなく、当面は<穴師都祁道>と呼んでおきます。
一方の端の穴師は、もちろん三輪/大和の入り口。
もう一方の都祁はどのような場所でしょうか。
中世の荘園史、一揆史の研究者にはおなじみの都祁盆地なのです。
しかしその開発の歴史はかなり古いようで、
『紀』によればここは「闘鶏(つげ)」と表された独立地域であったが、大和王権にやがて服属した、とあります。
この道は、現代の道路名では、ほぼ県道50号→38号に相当します。
(穴師大兵主神社の付近では、前述のように道が失われています)
50号を東に辿った私は、両道の出会いで道を間違え、左にとってしまいました。
本当は右折して初瀬の谷へ向かうはずだったのですが。
しかしこの偶然のおかげで、都祁盆地までの道を全線走破できました。

38号はすぐに小夫(おおぶ)という集落に出会います。左手丘陵(斎宮山)方向に集落が開け、「倭笠縫邑 泊瀬斎宮 伝承地」という巨大な石碑が建てられています。丘陵には小夫天神宮が鎮座し、天照大神が中殿に祀られています。
(菅原道真は左殿です。とってつけたようにです。すると天神とはいずれの神?)
言うまでもなく、「笠縫邑」はトヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)が父の崇神の命を受けてアマテラスを宮中から遷し祀った地。伊勢斎宮の始まりです。
崇神の子垂仁は娘のヤマトヒメ(倭姫)をここに送り、交代させました。(以上『紀』)
また、「泊瀬斎宮」は、天武の皇女大来(オオク)が斎宮として伊勢に向かう途中の仮斎宮名です。
前者は、この地の西に笠の地名があるところからの類推かもしれません。笠縫邑の比定は諸説あり、簡単ではありません。
しかし、大来皇女がこの地を通り、ここで精進潔斎した可能性は十分にあると思われます。オオクとオオブは何か関連があるのでしょうか。
でもここでは、この<穴師都祁道>が、古来重要な街道であったことを確認するだけで十分です。
先へ進みます。

小夫集落を過ぎるとすぐ、不思議な光景に出会いました。
「←化粧川 化粧壷」と書かれた標識が建っています。これは、小夫に隣接する修理枝(しゅりえだ)付近の岩盤に水が溜まった聖地を言うと、帰宅後に調べがつきました。(足を運ばなかったのが残念です。)
しかし不思議な光景とはこれではありません。
その標識のすぐ隣に「笛吹大明神」「笛吹奥宮笠神の聖地」と記された石碑があり、鳥居が建っているのですが、その鳥居の背後は崖になっているのです。
鳥居から先に進めない?どなたかこの謎を解いてください。


38号は初瀬川の上流に沿うように通じているのですが、上記の神社跡?からすぐ上(かみ)の川沿いに巨石があり、しめ縄が張られていました。猿田彦の岩と呼ぶ岩です。道案内の神サルタヒコの足跡はこんなところにも?と思いましたが、天照大神や倭比売伝説が残るこの地なら、当然ありうることですね。
とのんびり書いていたところに、ふと思いついて地図を眺めたら、興味深い一致に気づきました。以前書いたブログ「白鬚神社その1〜その視線の先に」に掲載した地図〜近江の白鬚神社(しらがじんじゃ)と伊勢内宮とを結ぶラインと、巻向の箸墓古墳とを結んでみたのです。すると、ラインの中央点とほぼ直角に交わるではありませんか。そしてその線の直下にこの「猿田彦の岩」が位置しているのです。
もちろん私は遊んでいます。でも偶然というには、はまりすぎていませんか?
地図は南に移動し、やや拡大してご覧下さい。
より大きな地図で 白鬚から伊勢へ を表示

猿田彦の岩
38号線はまもなく分水嶺を過ぎ、木津川流域に入って明るい都祁盆地に下ります。
名阪国道まで進んでみましたが、特別のフィールドワークはしておりませんので、この項目はここで終了します。
いずれ、都祁に復元された三陵塚古墳群にも足を運んでみたいと思っていますが、今回の最終目的地與喜神社へと引き返すことにします。
特に理由もないまま直感に導かれ、穴師大兵主神社に参りました。
足を運んでみると、なんとも意味ありげな神社でした。
古代には別々だった三社が合祀された、ということで、三つの名前が私を混乱させます。
そこで、由緒や伝承を調べてなんとかまとめてみますと、下記のようになります。
巻向坐若御魂神社(まきむくにいますわかみたま)〜元は巻向山中にあった?/右殿/祭神:稲田姫他諸説
穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)〜元は弓月嶽にあった?(上社)応仁の頃焼失/中殿/祭神:八千矛神他諸説
穴師大兵主神社(あなしだいひょうず)〜元からここに鎮座していた(下社)/左殿/祭神:天之日矛他諸説
神社の総称となっている大兵主神が中殿ではなく、左殿に祀られていることがもうわかりません。
若御魂、兵主とはいずれの神なのか、諸説あって解読不能です。
弓月嶽とはどの山なのか、これも諸説あって難解です。
そも、穴師というこの地名の由来自体、定説がありません。鉱道を思わせる文字面ですが、漢字の意味にこだわってよいのかどうか疑問です。<あなし>でなく<あなせ>と読ませている文献もあるそうです。
穴師と丹生(辰砂/水銀)との関連を語る研究者もおられます。私には楽しい発想ですが、ここでは深入りしません、いえできません。
というわけで、もうお手上げ状態の神社なのですが、
それだけに興味津々、探求してみたい神社です。
幽々たる(造語)雰囲気でしょう。背筋のアンテナがぞわっとする社(やしろ)、杜(もり)や池です。
より大きな地図で 三輪あたり を表示
穴師集落の東側高台から箸墓方向を眺める。
ポジショニングを検討します。
神社の長い参道の手前は穴師の集落です。
景行天皇の日代宮はこの穴師付近に置かれたのではないかと言われています。
奈良盆地が見渡せる良い場所です。
神社自体の位置は三輪山の北、巻向の東にあたります。
上の地図に、緑の矢印が六本並んでいますが、その左の青い押しピンをクリックしてみてください。
現在は奥まった位置に建つように見えますが、おそらく、巻向から伊賀に通じる古い街道が通じていた道沿いです。
現在は一部消滅していますが、googleなどの航空写真を見ると、辛うじて跡が辿れます。神社の参道入り口から分岐して東に進んだのでしょう。
謎や推測ばかりで埒があかないようですが、
けれど大事なことは、
三輪山塊のすぐ北の谷の街道沿いの高台から山頂にかけて、これら神社があったこと。
三輪王権?の神聖な地を見下ろす場所に位置したとも言えますし、
街道から三輪、大和に下る道沿いに護衛官のように位置していたとも看ることもできます。
三輪山の祭祀権を包含してこの地に着いた外来者ミマキイリビコイニヱ(崇神)が必要とした武神でしょうか。
となると、三輪山信仰の成立より古い創建ではありえません。
いずれにせよ、明確になったのは、
崇神/垂仁/景行の三代の三輪王権にとって、この三社は必要な役割を担っていたということでしょう。
そこに依り憑く神というより、そこに神が依り憑いて欲しいとでもいうように<実用性>の高い神社だったように見えます。
ところがその後、しだいに重要性が失われ、社殿が消え、ついに三社を合祀するにいたったのは、
ミマキイリビコイニヱ(崇神)以降の三輪王権にだけ大切であったことを意味するのではないでしょうか。
応神以降、河内に王朝が築かれるようになると、その意味は薄れたと看ます。
この神社の参道そばに野見宿禰を祀る相撲神社も残ります。相撲は四股を踏みます。四股は地鎮のための祭礼儀式です。
そうです、元の三社は巻向地域=三輪王建の東方街道の守護神群だったのだといまわかりました。
ならば巻向坐若御魂神社と穴師坐兵主神社の位置も見当もつきます。
上の地図の緑の矢印は、街道を見下ろす要地を選びました。両社の元の位置の候補地です。
④<穴師都祁道>に沿って
この街道沿いにある笠集落の高台からの展望。意外にも広々した風景が広がります。写真は撮影していませんが、カメラの後方には笠荒神社があります。
前項③でみた穴師から都祁(つげ:古くは都介)に至る街道をなんと呼べばいいのでしょうか。
研究の蓄積の無い素人の弱点で、街道の名がわかりません。
しかたなく、当面は<穴師都祁道>と呼んでおきます。
一方の端の穴師は、もちろん三輪/大和の入り口。
もう一方の都祁はどのような場所でしょうか。
中世の荘園史、一揆史の研究者にはおなじみの都祁盆地なのです。
しかしその開発の歴史はかなり古いようで、
『紀』によればここは「闘鶏(つげ)」と表された独立地域であったが、大和王権にやがて服属した、とあります。
この道は、現代の道路名では、ほぼ県道50号→38号に相当します。
(穴師大兵主神社の付近では、前述のように道が失われています)
50号を東に辿った私は、両道の出会いで道を間違え、左にとってしまいました。
本当は右折して初瀬の谷へ向かうはずだったのですが。
しかしこの偶然のおかげで、都祁盆地までの道を全線走破できました。
38号はすぐに小夫(おおぶ)という集落に出会います。左手丘陵(斎宮山)方向に集落が開け、「倭笠縫邑 泊瀬斎宮 伝承地」という巨大な石碑が建てられています。丘陵には小夫天神宮が鎮座し、天照大神が中殿に祀られています。
(菅原道真は左殿です。とってつけたようにです。すると天神とはいずれの神?)
言うまでもなく、「笠縫邑」はトヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)が父の崇神の命を受けてアマテラスを宮中から遷し祀った地。伊勢斎宮の始まりです。
崇神の子垂仁は娘のヤマトヒメ(倭姫)をここに送り、交代させました。(以上『紀』)
また、「泊瀬斎宮」は、天武の皇女大来(オオク)が斎宮として伊勢に向かう途中の仮斎宮名です。
前者は、この地の西に笠の地名があるところからの類推かもしれません。笠縫邑の比定は諸説あり、簡単ではありません。
しかし、大来皇女がこの地を通り、ここで精進潔斎した可能性は十分にあると思われます。オオクとオオブは何か関連があるのでしょうか。
でもここでは、この<穴師都祁道>が、古来重要な街道であったことを確認するだけで十分です。
先へ進みます。
小夫集落を過ぎるとすぐ、不思議な光景に出会いました。
「←化粧川 化粧壷」と書かれた標識が建っています。これは、小夫に隣接する修理枝(しゅりえだ)付近の岩盤に水が溜まった聖地を言うと、帰宅後に調べがつきました。(足を運ばなかったのが残念です。)
しかし不思議な光景とはこれではありません。
その標識のすぐ隣に「笛吹大明神」「笛吹奥宮笠神の聖地」と記された石碑があり、鳥居が建っているのですが、その鳥居の背後は崖になっているのです。
鳥居から先に進めない?どなたかこの謎を解いてください。
38号は初瀬川の上流に沿うように通じているのですが、上記の神社跡?からすぐ上(かみ)の川沿いに巨石があり、しめ縄が張られていました。猿田彦の岩と呼ぶ岩です。道案内の神サルタヒコの足跡はこんなところにも?と思いましたが、天照大神や倭比売伝説が残るこの地なら、当然ありうることですね。
とのんびり書いていたところに、ふと思いついて地図を眺めたら、興味深い一致に気づきました。以前書いたブログ「白鬚神社その1〜その視線の先に」に掲載した地図〜近江の白鬚神社(しらがじんじゃ)と伊勢内宮とを結ぶラインと、巻向の箸墓古墳とを結んでみたのです。すると、ラインの中央点とほぼ直角に交わるではありませんか。そしてその線の直下にこの「猿田彦の岩」が位置しているのです。
もちろん私は遊んでいます。でも偶然というには、はまりすぎていませんか?
地図は南に移動し、やや拡大してご覧下さい。
より大きな地図で 白鬚から伊勢へ を表示
猿田彦の岩
38号線はまもなく分水嶺を過ぎ、木津川流域に入って明るい都祁盆地に下ります。
名阪国道まで進んでみましたが、特別のフィールドワークはしておりませんので、この項目はここで終了します。
いずれ、都祁に復元された三陵塚古墳群にも足を運んでみたいと思っていますが、今回の最終目的地與喜神社へと引き返すことにします。
Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
笛吹大明神の鳥居の話ですが聞いたことがあります
以前は旧道に小さな社があったそうですが
崖崩れで流されたとのことのようです
崖崩れですべてが流されてしまった後
鳥居だけが再建され
今の姿となったそうです
以前は旧道に小さな社があったそうですが
崖崩れで流されたとのことのようです
崖崩れですべてが流されてしまった後
鳥居だけが再建され
今の姿となったそうです
Posted by ☆らうっと at 2010年11月17日 23:56
わあ、らうっとさん、ありがとうございます。
めんどくさい文章を読んでいただいたうえ、解答までいただきました。
崖崩れでしたか。
これで納得できました。
めんどくさい文章を読んでいただいたうえ、解答までいただきました。
崖崩れでしたか。
これで納得できました。
Posted by gadogadojp
at 2010年11月21日 18:34

※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。