2010年05月09日
オホドの道:継体天皇の畿内進出ルート
湖西から琵琶湖越しに眺めた湖東の山々。4月初めの撮影ですが、まだ雪が残ります。オホドの出発は旧暦1月。彼岸も此岸も白い景色だったでしょう。
過日、継体天皇の謎に言及した一文を書きました。
それに続き、湖西の遺跡を連続して記事にして、
継体天皇(ヒコフト、彦太:オホド、男大迹)の周囲を検討してきました。
そろそろオホド本人に焦点を戻し、一区切りつけます。
今日はいよいよルート地図を掲載します。
ただこのテーマを趣味で楽しんでいる私に学術論文は書けませんし、書きたくもありません。
したがって、わからないところはぴょんと飛躍して、結論をつけました。
そうです、
湖西の三尾で産まれ、越の国の王者となったオホドは新羅由来の一族の族長であり、
大伴金村大連のまねきに応じて畿内まで歩んだ道は、
おそらく三尾を通る湖西の道です。
これをここではオホドの道、と呼んでいます。
オホドが完全な征服王朝であったのか、
それとも日本書紀にいうように、畿内の王権と血統上のつながりがあったのかはここでは問いません。
どちらであったにせよ、
五世も離れた孫を、しかも他の地域の王を<迎えた>ならば、
それはもう、別の王統による支配に替わったと考えて良いだろうと考えているからです。
けれど、政府がそっくり入れ替わったのではありません。
カシラだけが交替したのです。
できるだけニュートラルに史料を見ること、
みだりに史料を信じず、またむやみに疑いもしないこと、
この姿勢が大切だと考えている私には、
やはりオホドを招いたと書かれている(旧来の政府の重臣)大伴金村らが、政権交替後も生き残っていたと(現時点では素直に)受けとめているからです。
またもちろん、日本書紀によれば、
(私が新羅系だと言う)継体王朝は、百済を支持して新羅に派兵しようとしたことを知らない訳ではありません。
でもそのあたりはまたいずれ考察します。
というわけで、ここでは、「オホドの道」について述べなければなりません。
オホドは越から畿内まで、どういうルートでやってきたのか、その道。
これを地図に復元するのが、今回の記事の私の狙いです。
福井県今立の岡太(おかもと/おかふと)神社〜オホドに関わる伝承が残る。長谷川剛士氏の写真を許可を得て掲載
どこから?
その手はじめに、オホドはどこからやってきたのか、コシの国のどこに「王宮」を構えていたのか、そこのところを詰めたいのですが、これが難問です。
古事記によりますと、
「品太天皇(=応神)の五世の孫、袁本杼命(おほどのみこと)を、近淡海国(ちかつあふみのくに)より上がり坐さしめて」
(小学館 日本古典文学全集)
と書いてあるだけで、あっさりしたものです。
それにしても、なんと近江の国からとは、ずいぶん近くにいたのですね。
真偽はさておいて、近江ルートでやってきたことに疑いはないでしょうし、
どうやら近江も越と同じ勢力の支配地であったことの状況証拠の一つになりそうです。
※ただオホドの行進は、日本書紀によれば旧暦一月。雪は深い。このことに小骨のようなひっかかりをおぼえる私です。機会があれば検討します。
これが日本書紀になるともっと詳しく書かれているかといいますと、
「三国(みくに)に奉迎る」(前掲全集)とあるだけで、拍子抜けです。
とはいえ、この<三国>がいったいどこなのかを特定しなければなりません。
福井県に三国町という地名が今も残りますが、ここは東尋坊や福井港にほど近い海沿いの町。
宮城にふさわしいとは思えません。
もう一歩探してみましょう、
そうすると、
日本書紀には、先日記事に書いたように、オホドの父王ヒコウシと母のフリヒメのエピソードの中に、地名がいくつも登場します。その記述の中に、ヒコウシがフリヒメを「三国の坂中井(さかなゐ)」(前掲全集)に迎えにいったと読める部分があります。
また、上宮記逸文にはここが「三国坂井郡より召す」となっているそうですから、
現在の福井県坂井市周辺に居宅があったと、仮定しておくのが妥当でしょう。
ただ私は、現在の行政区分では、坂井市から丸岡町のあたりにかけてその範囲を広げておくべきかと考えています。
というのは、日本書紀によれば、フリヒメの実家は「高向」という記述があり、
脚注としてその読みは<たかむこ>と書かれてあります。
そして丸岡町には高椋(たかぼこ)という地名が残されているからです。
高椋公民館の方に電話でおたずねすると、古くは一帯が<高向>と呼ばれていたそうです。
高向(たかむこ)→高椋(たかむこ)→高椋(たかぼこ)という変化だったのでしょう〜これは私の勝手な想像ですが。
昨年九月のブログには、そのあたりのことを書いてみました。(今では考え方が変わったところもあります。)
しかしこれは重大なマターではありません。
さしあたって地図のスタートは、我儘ついでに高椋(たかぼこ)小学校とさせていただきましょう。
水路が縦横に〜三尾の里、胞衣塚付近
どこへ?
次に、オホドがどこにたどりついたのか、
それはもう少し簡単です。
再び日本書紀(前掲書)を引用しましょう。
そこには「天皇、樟葉宮に行至りたまふ」(スメラミコト、クスハノミヤニイタリタマフ)とあり、ここでオホドは即位して畿内の王となりました。
※ただ、507年のこの即位から、511年の山背の筒城(つつき)への遷都、518年の山背の弟国(おとくに)への遷都を経て、526年の大和の磐余玉穂(いわれのたまほ)、つまり奈良盆地の中枢地に遷都するまで約20年かかっていることはよく知られたオホドの謎である。
樟葉宮の位置は、ほぼまちがいなく、現在の京都府八幡市の石清水八幡宮の建つ男山周辺でしょう。
ここは桂川/宇治川/木津川の三河川が湾曲しながら合流する地点の高台で、古来から近世までの交通の要所です。
川はここから下流を淀川と呼びます。
河内馬飼首荒籠(カフチノウマカヒノオビトアラコ)という人物が、越のオホドと連絡をとりあっていることが日本書紀に書かれていますが、最近の考古学の成果では、淀川の中州や河川敷にはどうやら牧場(まき)が営まれていたらしく、この地域もアラコの勢力範囲だったようです。
三川合流の地と男山は現在京都府ですが、すぐ南は枚方市域。枚方(ひらかた)は河内の一部です。
なお、ここでは直接関わりはないように見えますが、カムヤマトイワレビコ(神武)が畿内に船を着けた<白肩津>(しらかたのつ)はここ枚方だろうと私は考えています。だとすると、枚方はなかなか手強い伝承の重なる地域です。
なお、馬飼のルーツが新羅系の渡来人であったことはほぼ確実で、これまたこの政権の新羅色を裏付ける傍証になります。
そうそう、このアイデアにも先達がおられます。みなさんすごいですね。(わたくしごとき素人の及ぶ所でないのはわかっているのですが、なにしろこの文は学術論文ではありません。このまま独走します。)
私がすべて同意見というわけではありませんが、興味深くわかりやすく書かれたその「北河内古代人物誌」サイトはこちら。
この男山南部あたりには、現在も楠・樟の文字が地名に多く残り、日本書紀の後代の天皇のエピソードの中に、この地の地名由来が書かれています。
現在、宮の跡とされているのは、男山の南西(岩清水八幡宮から1.6㎞)、大阪府枚方市の交野天神社(かたのてんじんしゃ/かたのあまつかみのやしろ)境内の末社貴船神社(きぶねじんじゃ)のあたりで、ここも小高い丘になっています。付近には樟葉の地名があります。
今の淀川河川敷までは約1.2㎞の位置です。
参考サイト
ここかも知れません。
が、私は、前記の通りもっと男山という丘に近寄ったポイントを想定したいと考えています。
男大迹の宮跡が男山〜わかりやすいじゃないですか。
けれどそのていどの違いはこれも重要ではありません。
ここでは石清水八幡宮付近を地図上の目的地としておきます。
もたれ石:伝承通りであれば、ここでオホドが生まれた
どこを通って?
オホド一行、またはオホド軍がどの道を通って、
高向から男山へたどりついたのか、
これはもちろん、湖西ルートという以外、さっぱり確信が持てません。
ただヒントはいくつかあって、それは
オホドが新羅をルーツに持つ渡来人の一族と思われること。
あるいはもっと自重した言い方にして、
新羅系渡来人と親密であったこと。
これを参考にすると、多少の推理推測が可能になるでしょう。
つまり、
そういう人びとが支配力を持つ地をたどっていけば安全だから、
新羅系の人びとが住み着いた場所を線で結べば良いのです。
ただ、これはもちろん単純な作業ではなく、
実は私自身がオホドにこだわるのは、オホドという人物(の行動)それ自体ではなく、
古墳時代の全体像を把握することが目的ですから、
仮にこの線引き作業がスムーズに行くなら、私の最終目的は達成されたも同然なのです。
しかし現実には道は遠く、
(想定ルート内で)私がいま把握しているのはせいぜい、
越地方、特に現在の坂井市や丸岡町付近。(坂中井、高向)
敦賀市付近。(未記述)
若狭小浜付近。(未記述)
湖北から湖東付近。
高島市付近。(三尾、白鬚神社)
そして枚方市付近。(樟葉、男山、淀川流域)
残念ながらこれだけです。
これに、新羅系かどうかはともかく、渡来系の氏族秦氏の勢力範囲の山背(やましろ)を強引に加え、いったん線を引いてみましょう。山背南部の乙訓(おとくに)は、前述の弟国宮が比定されていることですし。
googleマップで線を引く場合、もちろん現存する道路沿いに引くことになります。
当時の道と同じでないことは自明です。
なに、私のやっていることはざっくりした粗漏だらけの作業ですから、これは問題ないことにしておきます。
ただ、オホドの道は、考えるほどに、(もっと時代が後になる)律令制度の元での<北陸道>と重なることに気づきます。
そこで、武部健一氏の著書「古代の道」(吉川弘文館)による、古代の駅家の所在地の考証を大いにを参考にさせていただきました。
私の引いた線は、結局その大部分が武部氏の指摘したルートになっています。
ではご紹介します。
これがオホドの道↓です。
より大きな地図で オホドの道 を表示
赤ピンが出発地と到着地。
青マークは、律令制下の駅家(うまや)の位置。
※駅家とは、後の宿場のようなもの、とお考えください。(厳密にはちがいます。もっと公的な施設です。)
黄マークは、ルート付近の、継体(オホド)と関係する地点です。
それぞれのマークをクリックすると、簡単な説明が現れます。
このルート(=ほぼ後世の北陸道)が、古墳時代の当時にどれほど重要であったのかは、畿内の王権の権力がどの程度の守備範囲を有していたのか、そして、当時の人的交流、物的流通がどれほど盛んであったのか、それを検討しなければなりません。考古学の蓄積のない私には難しい作業になります。
ただ文献上は、記紀の記述から十分にその重要性がわかります。
たとえば、畿内王室の妃たちの出自をながめるだけで、朝鮮半島、近江、越、そして丹波まで含めれば、北方の人びととの姻戚関係の豊かさはまるで狂気であるかのように頻繁なことがわかります。
藤原京王権による記紀作成の動機は十分理解しているつもりですが、
その記紀の記述が虚構の連続である、あるいは超誇大であると規定するのでなければ、
このオホドの道が、一人オホドの侵攻の道だけでないことは自明の理かと考えています。
今城塚古墳〜南面から
Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)
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