2010年09月27日
ヤマトとアフミ:オホドファイナル4
1)ヤマトとヤマトタケル
前稿で役割が終了したはずのヤマトタケルだが、
ここでは次のステップへのつなぎとして登場していただく。
実在、非実在の議論に、やむを得ず入る。
結論的に言えば、私はヤマトタケルという一人の英雄の実在を想定していない。
では『記紀』は複数の英雄潭をまとめあげたのか。
ファイナル1で書いたように、ヤマトタケル複数説(津田左右吉氏ら)はそそられる発想ではある。
けれど私は大きな違和感を感じる。
その根拠の一つは、
記紀におけるヤマトタケルの東西平定作業への随伴者の記述があまりにも少ないからだ。
煩雑になることを避けて詳述はしないが、
たとえば東国平定の際などほとんど単独行動かと思えるような記述になっている。
(「ミスキトモミミタケヒコをそえて」「いくさども(軍衆)をたまはずして」と、ヤマト政権に冷遇されている:『古事記』)
もちろんこれは、古今東西の英雄潭にはよくあることなのだが、
そのよくあることにこそ問題を解く鍵があるように思う。
神武東征での上陸地点という説もある楯ヶ崎。そういえば、神武の東征も、まさか彼一人で行った戦いではない。
旧聞の話題で申し訳ないが、
昨2009年のWBCでは30人ほどの日本人野球選手が代表に選ばれ派遣されたが、
打率五割を超えた中島、本塁打を2本打った村田、盗塁を4回決めた片岡ではなく、
打者ではやはりイチローの存在感と決定打が強く印象に残っている。
実際の戦闘の歴史においても、
日露戦争の東郷平八郎司令長官が、
大阪夏の陣の真田幸村が、
一の谷合戦の源義経が、
他の武将や兵士をさておいて民衆の英雄となった。
いや、このような短期間の戦闘では状況証拠にもならない。
誰か適当なヒーローはいないかと相談したら、妻がジンギス・カンの名を挙げてくれた。
一挙にスケールアップしてモンゴル帝国を想起していただこう。
「モンゴル帝国…(中略)…はモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸の大部分にまたがる世界帝国を創り上げ、当時の世界の全人口の約半数以上が支配下となった。」wikipediaから引用
1206年に創建され、衰え名を変えながら1634年まで続いたモンゴル帝国は、
しかし特に歴史に詳しくはない世界の一般民衆からは、チンギス・ハーンただ一人の名によって記憶されているはずだ。
しかしこの幾百年にわたる歴史的大帝国の行為の本質は、
モンゴル(人)によるユーラシア大陸の征服と支配なのである。
ヤマトタケルの東西平定の事績は、
つまり、大和(ヤマト)による支配の再構築および新たな版図拡大の象徴に過ぎないと私は考える。
だが、ということは同時に、
民衆の幻想を仮託するとびきりの英雄が短期間実在したのかもしれないことを意味する。
その人物は小碓命(オウス=本来の名?)と呼ばれた王族かもしれない。
忘れてはならないのは、この英雄と、これを冷遇する景行天皇との関係だが、
そうであっても
総体的には<ヤマト>と一括りできる。
そこでこれからの文章で『記紀』におけるヤマトタケルの業績はヤマト国家の仕業とし、
彼個人を表す時にはオウスと呼ぶことにしたい。
ヤマトタケルさようなら。
2)ヤマトとアフミ、大和と近江
湖東ののびやかな風景。多賀ICから。
イフキ(伊吹)やアフミ(近江)という地を考えるに当たって、
前項の考えを受けて、ファイナル3までの文を書き改めなければならない、
ヤマトはオハリ(尾張)から進軍して伊吹山に至り、
神の祟りを受けて壊滅した、と。
それはつまり伊吹に住む人たちの聖域を侵したため、その人々の抵抗を受けて敗北したのだ、と。
そしてそのヤマト軍のアフミ侵攻は、ヤマト王朝の命令から逸脱していたのか、
あるいはイセの神官勢力の反対を受けていたのかいずれかである、と。
クサナギノツルギはもう携えていなかったのだから。
では伊吹山麓、あるいはその先の琵琶湖東岸のアフミ(近江)には誰が住んでいたのか。
その人々とヤマトとの関係性はどのようなものであったのか。
雲をつかむ以上に難しい話題だが、私はどうしてもこの問題に触れておかなければ先に進めないと思っている。
そして琵琶湖東岸北部のこの地の有力者としては、だれしも真っ先に息長(オキナガ)氏の存在をを思い浮かべるだろう。
しかし、これもこの時代に関心を持つ方の多くが同じ感想をお持ちだろうが、このオキナガ氏は謎に満ちた一族である。
かつてオホド王(継体天皇)について文を書き始めた時、
オホドの父ヒコウシ王(応神天皇四世の孫という)の本拠地が湖東にあったかもしれないこと、
そのためオホドとオキナガ氏との関わりを考えなければいけないことを書いたが、
それ以上は諦めて探求していない。
オキナガ氏の実体はつかみどころがない。
欽明の子敏達天皇の后広姫の陵墓と言う。彼女は息長真手王の娘と伝わる。拙稿の対象とする時代のわずかあとに現れる人物だが。米原市。
オキナガ考は次回以降にまわす。
湖東地方北部〜現在の米原から長浜にかけての一帯が、古代のある時期からはオキナガ氏の支配下にあったことはほぼ間違いない、とここは仮定しておいて次に進む。
つまり、東国からオキナガ氏の版図に入るためには伊吹山の南麓を通らざるを得ないから、
伊吹山でヤマト軍をくい止めたのはオキナガ軍またはその支配下の住民であったとして論を進めてみるのだ。
そうすると、私のこれまでの仮説上は、こういう構図になる。
4世紀頃のヤマト王権は、西は九州南部、東は関東平野までその勢力を伸長させることに成功したが、
北方はその版図に加えることはできておらず、
少なく見積もっても琵琶湖中部以北は別の勢力の聖域であった、と。
あるいはこの時期限定の現象として、琵琶湖中部以北の勢力とヤマトとが緊張関係にあったと。
この湖東の勢力を仮にオキナガと呼んで文を進める。
両者間に緊張があったとすると、
たとえば但馬/播磨あたり、北摂から山城のあたり、湖南/甲賀あたり、そして伊吹山付近が両勢力の対峙する地点となりうる。
なかでもこの伊吹山南麓は後世不破の関が設けられ、関ヶ原の合戦も行われたように、南北を山地に挟まれた戦術上重要な狭間である。
前述のようにオハリがヤマトの本拠地として組み込まれたのであれば、
広い濃尾平野から琵琶湖に向かって匕首の切っ先が向けられた形になる。
この狭隘の地で戦闘があった。
ではなぜ、ヤマトはアフミを攻めたのか、そしてなぜ敗北したのか。
また、湖南方向から攻め込まなかったのはなぜか。
この二つの命題への回答は用意しておかなければならない。
いずれ撤回せざるを得ない雑駁な仮説になるだろうが。
ただ、一つ目の命題についてだけはは、
言ってみれば戦いの理由は何でも良いのであって、
単なるヤマトの全国制覇活動の一環と考えておいてかまわないはずだ、とくらいは言える。
とはいえ、オキナガ氏を考える際に荒唐無稽な仮説くらいは用意するするつもりだ。
次に、なぜヤマトが敗北したのか、の解釈だが、
それはこのシリーズで明らかにしてきた。
まず第一に、イセの加護を受けないまま、<素手>で伊吹の神に挑んだからだ。
それはそのままオハリの援軍を謝絶したということかもしれない。
ヤマト王権の認可を受けずに戦いに走った軽挙だったかもしれない。
どちらにせよ、オウス(または別の将軍)がおごりたかぶったからだ。
精進潔斎を怠って、敵を軽んじたからだ。
敵の主力を、ただの使節や斥候だと勘違いしてやりすごしてしまったからだ。
巨大な白猪は神だったのだ。
最後に、なぜ湖南から攻めなかったのか、の命題だが、
これは、シンプルにこう考えたい。
根拠は無い、いまのところは。
オキナガの勢力は、当時、大阪平野の北摂津まで及んでいたのだ。
少なくとも京都盆地とその南方、宇治や向日市あたりまでは及んでいて、
桂川水系、宇治川水系、もしかして木津川水系の下流部分すら、
ヤマトにとってはすこぶる危険なゾーンになっていたからだ。
当時の戦略や戦術を推理するのは私には荷が重いが、
しかしこのオキナガ勢力を完膚なきまでで叩こうとするなら、
オウスによる側面攻撃と同時に、
湖南からのヤマト軍本体からの侵攻が同時に必要だと思うが、
ヤマト王権にはその考え、または力はなかったのではないか。
大阪の枚方市にある男山山上付近から北方を見た風景。少々わかりにくいが、ここは三川の合流地帯。西から桂川、宇治川、木津川の順に流れていて、ここで合流する。古代水運の要だ。当時はこの先に巨大な巨椋池(おぐらいけ)が湖面を光らせていたはずで、十分な水軍を擁していない限り、ここを制圧し、さかのぼっていくことは不可能だったろう。
Posted by gadogadojp at 20:50│Comments(0)
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