2010年09月12日

悪人

悪人




人は生まれながらに豊かで幅広い心を持っている、
少なくともその素質を備えて生まれてくる。

育ち方、親子関係の有り様や、
環境や学習や努力などさまざまな因子が、
その人の心の道筋を決めていく。

心の中に善悪はなく、
行為の善悪を決めるのは社会と歴史の規範に過ぎない。

したがって本来のヒトに善人悪人の区別はあり得ず、
その人物が外界の規範に合致するかどうかで善悪は決定される。

したがって、
外界の規範から見ての悪人とは、
自己の利益や損得を優先しがちで、
他人だらけのこの社会にうまく適応できず、つまり、
その時代の人類の規範に合わせることができていない人であり、
重大なきっかけを得れば、善人に立ち返ることができる。
そのきっかけとして期待されるのは、
主に社会的存在としての人間=自分を自覚することである。


以上の記述は、
わたしが理解している今日の哲学的犯罪者観である。
刑罰を課す司法のよって立つ原点だと思う。
(この精神に唯一矛盾するのが死刑だ)


ところがこの哲学、この人間観、この悪人観には重大な欠落があって、
それは、
人間の生物としてのもっと初歩の善悪に触れていないところだ。

生物としての人間は、
さらに根源的には種族保存の本能に突き動かされている結果かもしれないが、
集団生活を慮るよりさらに初歩的に、
親子、カップル、時には親友や兄弟という対(つい)の関係を結ばなければ安定して生きていけない。
その相手を大切に思うことで、まずは自身の行為が左右され、決定される。

特定の相手を大切に思うことで、先に述べた外界の規範に合わせていく道に転じる悪人もいるだろうし、
特定の相手を大切に思うことで、その規範から逸れていく善人もいるだろう。
この場合、対の関係を大事にすることこそが、この人物独自の善になるのであって、
外界の規範よりも初歩的で始源的だから重要と思えるのだ、当の本人には。



さてここまで述べてきた人間観は、当たり前だがgadogadoオリジナルではなく、
これを読んでくださっている方の多くが理解を示していただけるであろう、
現代ではかなり一般的な人間の善悪観。


もしもあなたがそんな人間観に共感するなら、
この映画「悪人」を見る必要がないと思う。
この映画はそのことを改めて正統的に訴えている映画だからだ。
上記の人間観をお持ちのあなたには、
ストーリーになんの新鮮さも感じないだろう。
今更あなたにいわれなくても、の繰り返し。

しかしあなたが、
上記の文に違和感を感じ、たとえば、
人間には明確に悪人と善人がいて、悪人の矯正は不可能に近いなどとお考えであれば、
一度虚心に立ち返ってこの映画を見られるのもよかろうと思う。


俳優の演技がすばらしい。
ただ、その中の決め台詞の数々が、
いま一歩わたしの心を切り裂かないのは、
gadogadoのような古株の人間にとっては、
そんなこたあわかっとるわという発想の積み重ねで成り立っている映画だから、
真っ当すぎて、意外性がなく、
映画としての楽しみが少ないからだ。

でも、監督の意図は本格的で正統。
俳優の演技はすばらしい、
という評価は繰り返しておきましょう。

見ておいて損はありませんよ。


タグ :映画

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Posted by gadogadojp at 21:51│Comments(0)映画
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