2010年06月16日

没後50年




6月15日は、樺美智子さんの50年目の命日でした。

まず、他サイトに書いた私の文から…



没後50年




東大生樺美智子(かんばみちこ)さんは、デモ隊と警察官との争闘のはざまで亡くなったことによって、60年安保反対運動の象徴となった女性です。

警察病院での検屍結果は圧死と発表されましたが、目撃者からは警官による殴打が死因との主張もあり、客観的には死因不明のまま今日に至ります。

米国の占領政策で一挙に芽をふいた日本の民主化と平和への熱意と運動は、その米国の対日政策の大転換に直面し、親米から反米へと舵を切りました。

まだ主体的に生きて行けない敗戦国日本が、米ソ冷戦という世界情勢に木の葉のように翻弄された悲哀です。

対米従属を深める日本政府に対し、あるいはそのバックボーンたる米国に対し、あきらめ感が広がってきた日本のオトナたちを尻目に、唯一最後まで戦い続けたのが、当時の学生たちだった〜と私はおおざっぱに括っています。

社会主義国ソ連の戦術に惑わされた側面があろうと、政党の組織拡大志向に乗せられた人びとがいようと、未熟で生硬な思想しか持ち得なかった事実があろうと、
時の権力の思惑に対し時代の流れに対し、身体を張ってNO!をつきつけた彼らの行動は、日本の歴史に残る民衆の抵抗の一こまとして、正当に評価されるべきだと考えています。
生活感が感じられない運動でしたが、その行動の核心には、平和への思いがあったからです。日本と世界の人びとの生活を安全な方向に導こうとする普遍の芽があったからです。

また当時のオトナたちの思いも、多くは「しゃあない学生たちやなあ、そやけどがんばれよ、自分勝手でアホな政治家たちに一泡吹かせたれ」といった温かい目で見守っていたように思われます。


樺美智子さんは、私の高校の卒業生です。
彼女のほうがかなり<先輩>ですが。

私は高校生の頃、文化祭における自分のクラブの展示に、<先輩>樺美智子さんの遺稿の特集を掲示しましたが、部の顧問教員にその模造紙をはがされ、破り捨てられるという検閲を受けました。

私の通う高校の教職員にとって、彼女はいなかったふりをしたい教え子だったのでしょう。
東大に合格した時には、きっと自慢していたに違いないのに。

50年振りに改めて、<先輩>に哀悼の意を表します。
よくがんばりました。


没後50年




樺美智子さんは、政治セクト共産主義者同盟(通称ブント)に所属していました。
この時代までの学生運動は、大雑把に書くと、日本共産党と日本社会党という既成の政党(旧左翼)の下部青年組織がその中心を担ってきたのですが、議会制度に立脚したこれら政党の思想と行動は軟弱あるいは半端、あるいは組織温存主義だとして、のちの新左翼運動に発展するいくつもの党派が誕生してきたのでした。ブントもその一つです。

近親憎悪と呼ぶのは失礼かもしれませんが、おおくくりにして左翼=社会主義思想を共有するはずの旧左翼と新左翼は、権力に対するよりもさらに激しく憎み合うことになりました。

60年安保反対闘争では、新旧ともに(隊列を並べて)行うことも多かったのですが、樺美智子さんが亡くなったあと、日本共産党は、彼女の追悼集会にも参加せず、ブントの冒険主義にその死の責任がある、という論調で、死者に追い打ちをかけました。
(逆の立場なら、ブントだって同じことをしたかもしれませんが)


私自身の体験で思い出すことがあります。
同じ保育所に子どもを預ける仲間だった夫婦の内、お父さんが交通事故で重体になりました。
お父さんは共産党の熱心な支持者/活動家でした。
私はただちに病院にかけつけたのですが、その場はすでに共産党のメンバーが仕切っており、
私を奥さんに会わせてくれません。
居丈高な態度で、自分たちに任せておけの一点張り。
どうやら組合の宴会の帰りの事故だったようです。
奥さんや子どもたちの食事は?飲み物は?とたずねても、すべてこちらで用意している、というのです。

数時間後、もう一度病院に行ってみました。
偶然警備?をすり抜けて、こっそり病室に近寄ると、廊下で奥さんの姿を見かけました。

重体の旦那の熱烈な同志たちは、離れた場所で意気軒昂に語り合っています。
病院ですけれど、時に大声を出しています。
かたや廊下のベンチで奥さんは一人残されたかっこうで、うなだれています。

たいへんでしたねなどとはあえて言わず、
ご飯食べた?何か飲んだ?とたずねると、首を振ります。
持参した手作りのおむすびと温かいお茶をさしだすと、
うれしいことにしっかり食べてくれました。

あとで間接的に耳にしたところによると、旦那の組合の同志たちは、
「食欲ないわよね」と聞いた?だけだったようです。


わたし、ここで共産党の悪口(だけ)を言おうとしているのではないのです。
旧左翼の方が組織や活動が形骸化していたのは確かですが、
総じて党派、セクトの「仲間」意識なんてこんなもんだと言いたいのです。

極端な例だったかもしれませんが、
しかし組織はいざとなれば個人など切り捨てて自らは生き延びます。
政治的党派だって同じです。


没後50年




わたしは、
自らの組織に時限装置を組み込まない政治的組織や集団には、
これまでも一切所属したことはありませんし、
これからもその一員となることはあり得ません。


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Posted by gadogadojp at 21:12│Comments(0)評論・エッセイ
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