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2010年04月23日

朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  安曇川の荒々しい流れ

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&ll=35.410039,135.947828&spn=0.016474,0.027595&z=15&brcurrent=3,0x6006caeaf7776cc1:0x44da7b5bd82909fc,1&msid=105533898093810207049.000484ee036852509991f
朽木街道の地図に線をひいてみました。

四月初め、
和泉市の自宅を出て京都市内を上り、
出町柳あたりから国道367号線に入り、
大原を抜け、
途中、葛川、朽木の集落群を通り抜けて、
安曇川沿いに琵琶湖に下る日帰りドライブを敢行しました。
(帰り道は琵琶湖西岸の西近江路をたどり、山科に抜ける旧北陸道沿いをたどりました。)


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  比叡山春雪景色



この道(出町柳→朽木)は、「朽木(くつき)街道」と総称される場合が多いようですが、
それほど古くから「朽木街道」という名の道があったわけではありません。

この道は広義の若狭街道と呼ばれることもあり、
近年「鯖街道」として脚光を浴びていたりしますが、
若狭から京にサバを運ぶ道がこれしかなかったとも思えません。

中世に京都から若狭にいたる道は、朽木街道・鞍馬街道・長坂街道の三経路ありました。
いずれもサバを運びうる道です。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  道中、多少なりとも賑わっていたのは大原かいわいだけ


この街道沿いには縄文や弥生の遺跡は発見されておらず、
明確に歴史に登場するのは平安時代を待ちます。
農耕開始前後の時代にはどうにも使いづらい風土であったようです。

古くから高い文明を有した越や若狭の地域と畿内とを結ぶ道は、
どうやら琵琶湖西岸のルートであったらしく、
この朽木街道は、通じていたとしても、比良山の西の隠れ道であったように思えます。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  ただ「八幡宮」とだけ記されていた古社。こころ惹かれるたたず  まいでした。


今回この朽木街道を通ったのは、
このようなことを確かめたかったからなのです。
もっと具体的には、
越の国の王者オホド(継体天皇)が、大阪の北部までたどりつくルートとして、
朽木街道を候補に残すべきかどうか、
そのあたりを実地に見て確かめようと考えたからでした。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  比良山系


実際に車で踏破した道は旧街道がそのまま拡幅整備された道ばかりではなく、
旧道(らしき道)を横切ったり、
眼下に旧道沿いと思われる集落を見たりしながら進みます。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  旧街道筋の集落


そこで私が確信を持ったのは、
私の関心のある古墳・飛鳥時代頃までは、
たとえ道があったとしても、
せいぜい緊急時の抜け道/間道としての利用しかなかったのではないかということです。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  旧街道の峠道


東西を険しい山塊に囲まれたこの地は、日照時間はおそらくかなり短く、
安曇川は水量豊富ですが、その容貌はかなり荒々しくて、
大水の時には通行が厄介だったと思われます。
つまりこの南北の狭間は、
農業には適さない場所であり、
起伏の激しい道を行くことになるという意味です。

この道沿いに生活している民がいないのであれば、
草を踏みしめる足が無く、
この道が街道として常時使われることはありえなかったでしょう。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  安曇川の川上


ただし、
古代の民は農民だけではありませんので、
山に住む人、杣人には十分利用できる細い道はあったのでは、と想像します。
ですからオホドがこっそりと畿内に駒を進めたのなら、この道の利用もあったでしょうが、
おそらくその必然性はなかったと思われます。

そういうわけで、
古代の主要な道からは、この街道を除外したいと考えます。

もっとも、
朽木から小浜に抜ける狭義の若狭街道はまったく別もの。
こちらは古代から非常に重要な道であったことに間違いありません。


朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

 


とはいうものの、
念願の朽木街道踏破は、私に強烈な印象を残しました。

雪をいただく比良山系を右手に、
清冽な安曇川を左手にみて進む区間は特に、
その風景が私の記憶に焼き付き、
ドキドキするドライブになりました。



朽木街道、鯖街道:安曇川と比良山と

  出発したのは、京都出町柳付近。鴨川の桜にはまだ少し早くて。

朽木街道沿いの美味しいものは、こちらの記事に。


本文に、
(朽木が)『明確に歴史に登場するのは平安時代を待ちます。」と書きましたが、
朽木渓谷の案内板を見ると、
朽木杣で木材を伐採し、それを筏に組み、『奈良の都』にまだはこんだといわれる〜と書かれてあります。
訂正の必要があるかもしれません。
奈良までの筏の運送ルートも興味深いところです。



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Posted by gadogadojp at 21:30│Comments(0)歴史
 
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