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2010年04月08日

海と熊野

海と熊野
美しくもどこか不安な熊野灘。水平線に陸地が見えないから?
ここはカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が上陸したとの伝承の残る、三重県楯ヶ崎。



クマノという地域は、
山がそびえ重なり、川が流れ、滝が落ち、深い森が続き…
とついつい山地のイメージが先行してしまいがちなのですが、
前回の花の窟の記事でも少し触れたように、
山をついに越えると、抜けたような果てのない深い青色をした熊野の海が待っています。

海と熊野



修験者の山道ではなく、どこかの地点で、たとえば果無山脈が川にぶつかるあたりで、熊野川を船で下る古代ルートを想定してみましょう。
まだ誰の論考からもこのようなルートの存在を見つけたことはありませんが、当然あり得た、と私は考えています。かつてはもっと水量の多い手応えのある川だったと思いますが、それでも下りだけでなく、上り便すらあったのではないかと想像しています。

さてその川下りの小舟が、現在の本宮あたりを過ぎれば(そのころはもちろん大斎原に社殿はなかったでしょうが)、川幅は徐々に広がり、山がしだいに左右に退き、川にさす日光が増え、旅人は海が近いことを悟ります。

そしてついに熊野灘に注ぐ河口付近の船着き場?にたどりつき、
浜辺から磯から熊野灘を眺めたら、

あるいは近くの丘に登り、
たとえば新宮の神倉山に登り、

さえぎるもののない広く深く丸い海を眺めたとき、
どのような感慨があったでしょうか。

海と熊野

神倉山の中腹から見える熊野の海。かつてはもっと海は近くにあった。なお、この山にも、カムヤマトイワレビコが登ったという伝承がある。

海と熊野

神倉山山頂の神倉神社に参拝するには、500段を超える急な石段を登らなくてはならない。神社の神体は磐座である。とうぜん海からよく見える。


山は登るためにある、と思いがちですが、
下って海に至るためにも役に立ちます。
また、
これから進む海、
いまわたって来たばかりの海を眺めるためにも、
山は役に立ちます。
もちろん航海の目印(やまあて)としてもおおいに役に立ちます。

ちなみに、ここから北へ遠く山道を分け入った十津川村の玉置山からも海が見えるといいます。

熊野を語り、熊野を考えるとき、
山と海は同等に考えなければならない。


これが本日一つ目のテーゼとします。



今回は訪問できませんでしたが、
前回の花の窟(はなのいわや)のすぐ近くに、産田(ウブタ)神社という神社があります。

花の窟神社とほぼ同じく、
イザナミの墓である、あるいはカグツチを産んだ場所である、という伝承があるようなのです。
花の窟の磐座とこの産田神社とは、どうやら対(つい)であるように思えます。

またこの神社には磐座ならぬ磐境(イワサカ)が現存していることで知られています。
磐境とは、石を敷き詰めるか、または岩を平面的に置き、そこに結界をはってカミが降りるのを待つ場所だと考えられます。

ただ、ここで産田神社の話題を出したのは、
アイデアの備忘録としてかきとめておきたいことがあるからなのです。

この産田神社には直会(なおらい)として「ホウハン」(奉飯?)と呼ばれる膳をいただく習慣があります。
また、この地方の名産サンマ寿司の発祥の地とも言われています。
要は米の飯との関わりが深いのです。
そして付近には弥生中期の遺跡/遺物が発見されています。

もちろんそれら一つずつの伝承は、
農業神、豊穣神であるならふつうに見受けられることなのですが、
問題はこの地、黒潮洗う熊野灘に面したこの地という立地です。

日本列島有数の降雨量のこの熊野。
雨水や山水に苦労はないかもしれませんが、
広い耕地を得ることは不可能です。
それでもいにしえ人は、水田耕作を行っていました。
その人びとは、あるいはその種籾(たねもみ)は、あるいはその稲作技術は、
どこからもたらされたものなのでしょうか。

クマノの険しい山を越える道。
それは、決して奈良時代に始まる修験のためだけの道ではなかったのです。
さらに古い時代から、この地には近畿中央部とおそらくさほど変わらぬ経済が営まれていたのではないでしょうか。
いえそれどころか、
クマノから伝わった新しい文物もあったのでは、と考えると、
日本海側のワカサ/コシと同様に、
海こそが日本列島の玄関であったという発想の大切さを思い出すべきではないでしょうか。

本日二番目のテーゼは、
クマノの海は玄関だった。


海と熊野




さらに思いつきを付け加えます。

花の窟には、花を捧げる珍しい習慣とともに、
弥勒信仰との結合も歴史的事実としてありました。

これは後世にの弥勒信仰の高まりによって付加されたものと考えるのが普通ですが、
私には沖縄県八重山地方に広がるミルク(弥勒)信仰との、
黒潮を介した結合を想像させます。

というのは、
八重山のミルク信仰の基層には、さらに古い<常世>(とこよ)観が横たわっているように思えてならないからです。
この地クマノのポータラカ信仰は、クマノの秘密をさぐる大きなヒントになるように思えます。
その意味で、
稲作や船づくりの技術や航海術や、
カツヲブシの旨味や、
常世の存在や、
黒潮の行き着く先には、さらに大きな大陸があることなど、

渺々たる熊野山塊を超えて、近畿中央にクニを作った人びとに、
その秘密を伝えたのではないかという空想をたくましくしてしまうのでした。

本日最後のテーゼは、
ヤマトの人びとはクマノから新しい知見を得た。

海と熊野




写真の各地の地図は、追記に。
熊野の海(漁港)の写真はこちらにも。

楯ヶ崎

神倉神社

産田神社


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Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)歴史
 
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