2009年11月24日
竹ノ内街道考〜その5
竹ノ内街道とその周辺の散策と探究シリーズも第五回になりました。
今回は、峠東側(奈良県側)の古墳群の紹介です。
1)竹内古墳群
前回に紹介した竹ノ内集落にほど近い場所に34基から成る古墳群があり、「竹内古墳群」と呼ばれています。
その内一部は葛城市の手で「史跡の丘」として整備されています。
(とはいえ、足場の丸太が腐っているところもありますので慎重に)
築造年代は五世紀末から六世紀中頃と推定されていますので、いわゆる群集墳の時代と考えてよいでしょう。
国家レベルの権力者の墓=巨大古墳の時代はすでに終了し、各地各地の有力者たちが比較的小規模な円墳や方墳を無数に築造するようになった時代です。
竹ノ内街道が「官道」として記録に残るまでにはまだ百年を待たなければなりませんが、小論で繰り返し申し上げているように、はるか前からこの道は公私ともに利用されてきました。
重要な街道沿いの重要なポイントに築造されたこの古墳群は、
地元の有力者の墳墓であるにとどまらず、
国家にとっても重要なこの街道の守護者として、築造が<認められた>ものと考えます。
六世紀前半は、いわゆる筑紫国造磐井の反乱が勃発した時代。
すなわち、畿内の王権と新羅との緊張の時代です。
磐井の「反乱討伐」に赴いた物部氏率いる軍勢は、生駒越えで大阪湾に向かったのでしょうか。
それともこの古墳の前、竹ノ内街道を甲冑の音を鳴らしながら通ったのでしょうか。





こちらは未整備

付近からは當麻方向に奈良盆地が見える
判明している古墳構成
全34基
内、前方後円墳1基、
全長45mの前方後円墳(22号墳)
前方部に横穴式石室。後円部の石室は板石の抜き取りによる破壊。
方墳1基
多くは直径10m、高さ2m程度の円墳
茶山古墳(34号墳)では、凝灰岩を組み合わせた家形石棺が土中に直接埋葬されていた。石棺内には三体分の人骨と鉄刀、鉄製のやじり等が発見され、棺外からは須恵器も出土している。
2)三ツ塚古墳群
続いては、三ツ塚古墳群です。
竹内古墳群から少々竹ノ内街道を西に上っていくと、左手に平石街道が分かれる分岐点があります。
現在では廃れてしまった平石街道ですが、
以前に紹介した磐船神社や富貴寺付近を通り、
現河南町あたりに下る、
古来はよく利用された街道です。
その二つの街道の分岐点に築造されたこの三ツ塚古墳群は、
竹内古墳群の被葬者たちに負けず劣らず重要な役割を果たしていた人々の墳墓だったと思われます。
時代は六世紀末から七世紀末といいますから、
竹内古墳群(の最終墳)より数十年後に築造された模様です。
すでに飛鳥(〜藤原京)の時代に入っています。
竹ノ内街道の公の道としての性格はより一層顕著になっていたでしょう。
ここにはやはり二つの重要な街道の守護を担った人々が葬られているのでしょうし、
それは前述の竹内街道の被葬者たちと血縁的に繋がっている可能性もあるかもしれませんが、
両古墳群間の数十年のブランクは、むしろ守護者の交替を意味しているのかもしれません。


南阪奈道の法面に、遊歩道あり


やはり見晴らしの良い場所にあります。古墳自体も街道の守護に一役買ったのでしょう。
判明している古墳構成
全16基
ただし、他に墳丘を持たない石室14基あり
すべて円墳と方墳
平瓦(当時は寺院建築のみに使用)や黒漆塗りの手袋(渡来の道具である可能性)が出土
南阪奈道(高速道路)建設のため、三分の二が破壊された。
今回は、峠東側(奈良県側)の古墳群の紹介です。
1)竹内古墳群
前回に紹介した竹ノ内集落にほど近い場所に34基から成る古墳群があり、「竹内古墳群」と呼ばれています。
その内一部は葛城市の手で「史跡の丘」として整備されています。
(とはいえ、足場の丸太が腐っているところもありますので慎重に)
築造年代は五世紀末から六世紀中頃と推定されていますので、いわゆる群集墳の時代と考えてよいでしょう。
国家レベルの権力者の墓=巨大古墳の時代はすでに終了し、各地各地の有力者たちが比較的小規模な円墳や方墳を無数に築造するようになった時代です。
竹ノ内街道が「官道」として記録に残るまでにはまだ百年を待たなければなりませんが、小論で繰り返し申し上げているように、はるか前からこの道は公私ともに利用されてきました。
重要な街道沿いの重要なポイントに築造されたこの古墳群は、
地元の有力者の墳墓であるにとどまらず、
国家にとっても重要なこの街道の守護者として、築造が<認められた>ものと考えます。
六世紀前半は、いわゆる筑紫国造磐井の反乱が勃発した時代。
すなわち、畿内の王権と新羅との緊張の時代です。
磐井の「反乱討伐」に赴いた物部氏率いる軍勢は、生駒越えで大阪湾に向かったのでしょうか。
それともこの古墳の前、竹ノ内街道を甲冑の音を鳴らしながら通ったのでしょうか。
こちらは未整備
付近からは當麻方向に奈良盆地が見える
判明している古墳構成
全34基
内、前方後円墳1基、
全長45mの前方後円墳(22号墳)
前方部に横穴式石室。後円部の石室は板石の抜き取りによる破壊。
方墳1基
多くは直径10m、高さ2m程度の円墳
茶山古墳(34号墳)では、凝灰岩を組み合わせた家形石棺が土中に直接埋葬されていた。石棺内には三体分の人骨と鉄刀、鉄製のやじり等が発見され、棺外からは須恵器も出土している。
2)三ツ塚古墳群
続いては、三ツ塚古墳群です。
竹内古墳群から少々竹ノ内街道を西に上っていくと、左手に平石街道が分かれる分岐点があります。
現在では廃れてしまった平石街道ですが、
以前に紹介した磐船神社や富貴寺付近を通り、
現河南町あたりに下る、
古来はよく利用された街道です。
その二つの街道の分岐点に築造されたこの三ツ塚古墳群は、
竹内古墳群の被葬者たちに負けず劣らず重要な役割を果たしていた人々の墳墓だったと思われます。
時代は六世紀末から七世紀末といいますから、
竹内古墳群(の最終墳)より数十年後に築造された模様です。
すでに飛鳥(〜藤原京)の時代に入っています。
竹ノ内街道の公の道としての性格はより一層顕著になっていたでしょう。
ここにはやはり二つの重要な街道の守護を担った人々が葬られているのでしょうし、
それは前述の竹内街道の被葬者たちと血縁的に繋がっている可能性もあるかもしれませんが、
両古墳群間の数十年のブランクは、むしろ守護者の交替を意味しているのかもしれません。
南阪奈道の法面に、遊歩道あり
やはり見晴らしの良い場所にあります。古墳自体も街道の守護に一役買ったのでしょう。
判明している古墳構成
全16基
ただし、他に墳丘を持たない石室14基あり
すべて円墳と方墳
平瓦(当時は寺院建築のみに使用)や黒漆塗りの手袋(渡来の道具である可能性)が出土
南阪奈道(高速道路)建設のため、三分の二が破壊された。
Posted by gadogadojp at 19:00│Comments(0)
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