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2009年11月23日

邪馬台国はどこに:その2魏志倭人伝ノート

邪馬台国と卑弥呼については、その名称とその存在が、
中国の歴史書『魏志』中の『倭人伝』にしか見られないにもかかわらず、
また、「倭」が日本列島(のある地域)を示すとは限らないにもかかわらず、
わたしたちはみなこの国家が我が列島に実在したことを疑わず、
しかも事実上北九州と奈良盆地の二カ所に絞って論争を続けていることは、
客観と科学の神がもし存在するならば、笑止千万と嗤いとばす愚行でしょう。

けれどわたしたち人間は、
客観や科学的態度だけに依拠して毎日を送っているわけでもなく、
むしろ不合理と迷妄を楽しむ豊かな感性を持つ生き物ですから、
歴史が下賜してくれたこの邪馬壱(台)国と卑弥呼の謎を、
真相が究明されるまで楽しむことが許されるはずです。


今回は、私自身がこの楽しみを持続させ、
また、深化させるにあたって、
解明を要すると自分に課した問題点をリストアップしておこうと思います。

基本方針はただ一つ、
みだりに原典の記述を誤りとしないこと、それだけです。


邪馬台国はどこに:その2魏志倭人伝ノート
巻向の箸墓古墳


「邪馬台国と卑弥呼
〜何が解明されるべきなのか」

〜あくまで私的なメモリストです〜


◎ヤマタイコクと読んで良いのか。
☆『魏志倭人伝』には「邪馬壹(=壱)国」と書かれているにもかかわらず、私たちは「邪馬臺(=台)国」と読んでいる。
☆ヤマトによる国家統一、という歴史観にとって都合よく恣意的に<訂正>されている危険を忘れるべきではない。
☆また、「臺」が正しいとしても、これをタイと発音することの可否は十分検証されていない。
☆原理的には、当時の魏の発音に忠実であるべきだ。
☆これらを無視すれば、「邪馬壹」を<ジャバダ>と読んでも良いことになってしまう。
☆原典通り「壹」が正しいとして、<ヤマイ>と読むべきだと言う研究者もいる。また「壹」と「䑓」は同じ発音だという意見もある。


◎倭(国)は日本列島か
☆「倭人」とは、中国流の異民族への呼称(背丈の低い人々)であり、中国南部(沿岸部)の民族を倭人と呼んだ記録もあると聞く。
☆ア・プリオリに倭=日本と思い込んでしまうのは危険だ。
☆「倭人は帯方の東南大海中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。」帯方は朝鮮半島にあった帯方郡に間違いないだろうから、方位の記述に頼れば、日本列島(もちろん西・南日本)を示すと考えて良いのだが。


◎数十万人の人口を養える食料はどこで生産されたのか。
☆『倭人伝』では邪馬壱国の戸数が「七万余戸ばかり」と書かれている。これは数十万人の人口を有する大国であることを意味するが、私にとって所在地論争の最大の鍵となる。
☆この人口集約を支えたのは、稲作こそがふさわしい。
☆弥生時代末にこれだけの水田耕作が可能であった地域がまず候補地となる。それはどこか。このアプローチが極めて大切だと考える。
☆有力候補地としては、筑紫平野(現福岡県から佐賀県にかけて)、吉備平野(現岡山県)が挙げられる。
☆河内湖が広がっていた大阪平野や低湿地と台地だけの奈良盆地に良い農地が広がるのは、古墳時代中期以降であり、邪馬台国の時代には不可能だったろうと私は考えていた。
☆ただ、最近の発掘調査や自分で奈良盆地を歩いてみた結果、奈良盆地では当時不可能だったと言い切れる自信は揺らいできた。山間部からの豊かな水が溢れる奈良盆地の微高地には、案外広く稲作が可能であったかもしれない。
☆この考えはもちろん、政権の所在地と食料生産地が近接していることが前提だから、奈良盆地の王権の支配圏が広大だったと考えれば、奈良盆地や大阪平野における稲作の多寡は問題にならないのかもしれない。
☆しかし、数十万人の人口の内、農民以外の人口が多数を占める古代国家〜を想定するのは無理があるため、やはり邪馬台国は大規模な食料生産地をその領土に含んでいたと考えておきたい。


◎倭人は海洋民族か
☆上記の食料と人口の問題に次いで、私が所在地論争で解明しておきたいのは、ここだ。
☆「男子は大小と無く、皆黥面文身す。」「今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。」
☆「倭の水人」として限定的に書かれているが、「諸国の文身(入れ墨)」ともあるので、鮫などから身を守るため(これが書かれたころはファッション化していたようだが)の入れ墨が倭の各地でポピュラーであったとも読める。
☆邪馬台国は倭の一カ国に過ぎないとはいえ、もっとも強大であるから、邪馬台国に住む人々の風習も『倭人伝』に採用されていると考えても不自然ではない。ならば、沿岸部ではなく内陸に位置する奈良盆地に邪馬台国があったとすると、整合性にぎこちなさが残る。
☆もちろん原典には農や養蚕の記述もあるから、かまわないといえばかまわないのだが、原典全体から漂う倭人=海洋民の匂いを私は忘れてはならないと感じる。

◎倭は温暖だというが
☆「倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。」「男子は皆露かい(肌を露出)」「婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。(貫頭衣)」
☆三世紀頃の日本列島は、現在との気候差は小さいと思われる。とするなら、この記述は倭の夏の記述であろうか。今日、奈良盆地の冬は著しく冷え込む。単衣の貫頭衣で過ごせる場所ではない。
☆また、北九州でもこれに大差ない。むしろ雪は奈良より多く降る。


◎方位と行程は解決不能
☆上記三種の謎解きと比べれば、この方位と距離の課題は今のところ解決不能だ。
☆当時の地形、交通手段、ルート/道、対抗勢力の解明などが進んでのちに判明することだから。
☆原典の叙述の詳細は省略するが、方位は九州説に優位、行程(距離)は畿内説に有利、とふつう考えられている。それはその通りだと思う。
☆しかしだからこそ、九州説/畿内説共に原典に誤り有りと主張するのは恣意的に過ぎる。
☆投馬国から邪馬台国までの行程が「水行十日、陸行一月」と長距離/長時間にわたる。この叙述の解釈が特に厳しい。
☆魏の使節は邪馬台国に赴いておらず、邪馬台国の使者の報告(こんな遠方からはるばる来ました)を鵜呑みにせざるを得なかったという解釈もある。矛盾を解消する魅力的な考え方だが、これも現時点では恣意的解釈として忘れる。
☆榎博士の放射説も、同じ理由でここでは採用しない。


◎邪馬台国の支配下にない国々の記述も無視したくない。
☆「その南に狗奴國有り。」この狗奴國はどこに?
☆畿内説を採れば熊野、北九州説なら熊襲とも言うが。
☆「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。」
☆「裸国」「黒歯国」〜ただのロマンにとめおいて無視するにはもったいない記述だと私は思う。


◎邪馬台国沖縄説の復権
☆突飛な発想に思えるが、邪馬台国が沖縄本島にあったのではないかという発想も無視したくない。
☆距離と方位の矛盾もあるていど解消するし、倭は温暖という記述にも合致する。
☆もちろん沖縄説にはいくつもの重大な欠陥がある。特に食料生産の不足は致命的だ。
☆ただ、沖縄本島の周囲からは海底遺跡(北谷など)が発見されつつある。本島が(弥生後)急激な地盤沈下で沈降したとするなら、かつて広大な沖積平野が存在した可能性も否定できない。
☆私は沖縄説を採っているわけではないが、北九州とヤマトに限定されてしまった論争が危険だと考えている。そういうことを言っておきたいので、沖縄説を最後にとりあげた。



邪馬台国はどこに:その2魏志倭人伝ノート

 吉野ヶ里遺跡〜佐賀県HPより


◎けっきょくは文字の発見が待たれる。
☆願わくば私が他界するまでに、「卑弥呼ここに眠る」と書かれた墓碑銘が、いずれかの冢/古墳から見つかりますように(笑)
☆たとえ弥生の日本列島に文字がつかわれていなかったとしても、中国文字が読み書きできる人物は必ずいたと考えるから。



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Posted by gadogadojp at 20:30│Comments(0)歴史
 
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