2008年11月30日
ついに見学!御廟山古墳
古墳全景:当日のパンフレットより
2008.11.29~30日の二日間、宮内庁陵墓参考地である、堺市にある「御廟山古墳(ごびょうやまこふん)」の見学説明会が行われました。
宮内庁と堺市の共同調査の結果を学べる機会です。
gadogadoは30日に参加しました。
数百m離れた大仙公園のグランドで受付を済ませ、15分刻みで数十人ずつ列を作って見学します。
古墳の土自体に足を踏み入れることはできず、濠上に仮設された橋をたどる15分程度の見学でしたが、葺石(ふきいし)、円筒埴輪(えんとうはにわ)、そして江戸時代に濠をさらえて積み上げられた土砂の厚みなど実感しながら見学できた、得難い体験になりました。
他にも何人もの方がすでにブログに書かれています。見学のもようやこの古墳に関する基礎知識についてはそちらをご覧いただくことにして、私は、私の趣味的観点から少し論じてみようと思います。
①被葬者と今回の調査の意義について
かつて、この墳墓はホムタワケ(応神天皇)の陵墓であると(近隣の人々には)信じられていました。
そのホムタワケを主祭神とする百舌鳥八幡宮の「奥の院」であるとの位置づけです。
神社側から歩くと、拝殿は濠を超えて後円部の正面を見る位置にあったものと思われます。
現在は神宮の社地が狭くなって、間に道路や住宅地がはさまりましたが、往時は同じ敷地内にあったのです。
百舌鳥八幡宮
近代、宮内庁の判断で、ホムタワケの陵墓は古市古墳群の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に比定されましたが、もちろんこれは広く学術調査が行われた結果の結論ではありません。その結果、この御廟山古墳は「陵墓参考地」との扱いになっています。
宮内庁が「陵墓」「陵墓参考地」であると決めてしまうと、一般人はおろか、専門家すらほとんど古墳の調査ができないことが、本当の被葬者の推定作業にとって大きなネックになっていました。
今回の調査は濠部周辺だけという限定的なものではありますが、宮内庁と堺市の共同調査が行われたことは画期的ですし、まして私たちのようなただの歴史ファンまで足を踏み入れることができたのは、新しい時代の到来を予感させるできごとでした。
ホンタワケ(応神)は、実在が確信できる大王ではありません。
日本書紀を信ずるなら、百歳を超えて生きた超長寿な人物となります。
父親とされているのは「仲哀天皇」ですが、住吉大社の神代記によると、母の神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に関して「是に皇后、大神と密事あり」とあるように、住吉大神との間の子であるとも言われます。
また、息子であるはずの「おおさざきのみこと・大雀命・仁徳天皇」との記述の混同も指摘されていて、その名ホンタワケというリアルさに反してなぞの多い大王ではあります。
果たしてこの墳墓にホンタワケが眠っているのか、あるいはオオサザキなのか、あるいはまったくの別人なのか…興味は尽きません。
②古墳の向き、周辺古墳との時代比定について
どなたもご存知の通り、この墳墓を含む堺市一帯の台地上には、巨大な古墳が林立しています。
堺市のHPのデータをお借りして堺市内の主な古墳を列挙しますと、下記のようになります。
仁徳陵古墳(大仙古墳) 486m<南>
履中陵古墳(石津ヶ丘古墳) 360m<南>
ニサンザイ古墳 290m<西>
御廟山古墳 186m<西>
乳岡古墳 155m<南>
反正陵古墳(田出井山古墳) 148m<南>
いたすけ古墳 146m<西>
<南><西>の方角は、gadogadoが付け足したものです。これは前方部を仮に「前」と仮定すると、それがどの方位を指すかを示したものです。これだけを指標とすると、ここには明らかに二つのタイプの前方後円墳が築造されていることになります。
先学はもちろん、私もこの明瞭な二タイプに注目してきました。
縄文時代の埋葬方法に「伸展葬」と「屈葬」が両立していたように、被葬者のたとえば地位、たとえば出自によって、南向きか西向きを決めた可能性があるのではないかと。あるいは、築造年代によって区別できるのではないかと。
後者の理由が正しいなら、これは「王朝の更新/交代」があったという可能性も無視できませんから、歴史ロマンの魂には俄然火がついてしまうわけです。
ただ、この説明会の解説によれば、新たに発見された円筒埴輪のタイプは明らかに大仙古墳(南向き!)に似通っており、大仙古墳とほぼ同じ時期の五世紀半ばのものではないかということでした。残念ながら、西向きと南向きの違いを築造年代の違いと結びつけられなかったことになります。
(大仙古墳よりやや丁寧に作られているようにも見える所から、少しだけ古いのではないかという意見も述べられていました。いずれにせよ、五世紀半ばの古墳ということになります。)
円筒埴輪の列:本当に埋まった状態で見るのははじめて
葺石
残る関心は、地位や出自によって向きが変わった可能性の有無となりますが、こればかりは石棺付近の発掘調査を待たなければ、結論が
出せることではありません。(いや、それでも難しいでしょうね。)
③私の無謀な仮説、いや空想について
ただ私には、もう一つの空想があります。
それは古墳とは側面を見せるもの、という仮定です。
あるいは、側面に見える部分こそが正面である、という仮定です。
強い根拠があるわけではないのですが、少なくとも、大仙古墳と石津ケ丘古墳(履中陵古墳)は側面を海に向けています。古墳時代に、大阪湾側からこの三国ヶ丘丘陵を見上げた時、長大な(葺石が日光を反射して輝く)側面を見せつけていたに違いないと信じるからです。
私はこの仮定のもと、古市古墳群から奈良盆地にかけての「道」の存在を確かめようとしています。
そして、その仮説がまず正しいとするなら、御廟山古墳のような<西向き>古墳の列の南か北側には、重要な街道があったはずだと考えるのです。
たとえば南側にその街道があったとします。
西の端は、石津川の河口付近、大阪湾からこの付近に上陸した古代人は、石津ケ丘古墳だけはその前方部を見上げながら進むと、順に「いたすけ古墳」「御廟山古墳」「にさんざい古墳」の堂々たる側面を眺めながらの道中となるはずです。
地図はこちら
その道は「土師」近辺で南に下り、(後年行基が築造した土塔のあたりを通り)「福田(美奴ミヌ)」の西をかすめて「陶器」を経由し、現在の泉北ニュータウンの東端に至ります。
この地域こそは、<土師器>と<須恵器>の大産地、古代のスエムラに他なりません。
というように空想はまだ続くのですが、本日はここまでとしておきます。
Posted by gadogadojp at 19:47│Comments(0)
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