2008年11月02日
猪飼野ミニ史〜コリアタウンはこんな街
大阪市生野区御幸通り(通称コリアタウン)は、 朝鮮/韓国食材店や服飾、食堂が並んでいるエキゾティックタウンです。
私のブログでは二度目の紹介になります。前回記事。
今回はほんのちょっぴり歴史に触れてみます。
JR桃谷駅を降り、だらだら下る商店街を東に抜けると「疎開道路」が南北に通じています。
疎開道路の坂を北に下ると、そのあたりから先には古墳時代までは巨大な河内湖が水をたたえていたはずで、その水辺(湿地帯)の微高地であったこの猪飼野※には、朝鮮からの渡来人たちが住み着いて、集落をつくっていました。
水が必要な水田作りにも(当時としては)最適な環境だったと思われます。
※猪飼野(猪甘津)は、大和/河内王権のための豚肉供給基地でもあったと考えられています。川(現在の平野川など)が河内湖に注ぐ
この地は、船による出荷にも最適だったのでしょう。
「仁徳天皇(オオサザキ)」がこの地を訪問したというゆかりの場所が、今は神社(御幸森神社)として残っています。オオサザキが座ったという石が祀られています。
高い文化/文明/農業技術をたずさえてやってきた彼ら渡来人は、オオサザキに代表される河内/大和王権にとって、是が非でも味方につけておきたい存在だったのでしょう。
その後のこの地域の発展と渡来人とがどう関わるのか、gadogadoの勉強はそこまで及んでいません。
しかし、大阪平野には「百済」をはじめ、朝鮮半島にゆかりの地名や伝承が数多くありますから、乱暴に申せば、旧河内湖、旧大和川、石川流域の開発には、彼らの深い関わりがあったと見ています。
また、オオサザキが切り開いたという上町台地の水路=「難波の堀江」や、「茨田堤」という大土木工事には、渡来人の優秀な土木技術が必須であったとも考えています。
1500年の時を経て、日本は1910年に韓国(当時の朝鮮半島統一国家の名)を「併合」しました。
日本による朝鮮半島支配が進むにつれ、仕事を求めて再びこの地に朝鮮人が集まり暮らすようになりました。
強制連行の有無についてここで検証することはしませんが、
少なくとも貧しさにあえいでいた朝鮮民衆、なかでも済州島※の人々が数多くこの地にやってきました。
※済州島のミニ解説は、「うんぼく食べるよ」ブログで書きました。
差別され、3K労働に従事するしかなかった彼らは、多くの命を犠牲にしながら※、しかしこの地(=猪飼野)でエネルギッシュに生活を営んできました。その中心に御幸通り商店街は位置していました。 往時のにぎわいは想像するに難くありません。
※平野川の改修工事は1919年から5年間かかって行われました。たくさんの朝鮮人が犠牲になる難工事でした。
戦後は日本人も多く住むようになり、今は少しさびれてきたこの街ですが、御幸通り商店街は結束して興隆策を講じています。
HPもあります。
桃谷駅や鶴橋駅、今里駅からは散歩できる距離です。この街が大好きな日本人の私としては、この街の賑わい復活に少しでも寄与したいと願っています。
キムチを選ぶだけでも迷う楽しい商店街です。
とはいえ、来られるときは、商店街の夜は早いので、遅くとも夕方五時までには足を運んでくださいませ。
なお、猪飼野の歴史に興味の有る方は、猪飼野ドットコムなどのサイトがありますので、そちらでご研究ください。パントマイマーのマルセ太郎さん(猪飼野出身)の研究もあわせてどうぞ。
私のブログでは二度目の紹介になります。前回記事。
今回はほんのちょっぴり歴史に触れてみます。
JR桃谷駅を降り、だらだら下る商店街を東に抜けると「疎開道路」が南北に通じています。
疎開道路の坂を北に下ると、そのあたりから先には古墳時代までは巨大な河内湖が水をたたえていたはずで、その水辺(湿地帯)の微高地であったこの猪飼野※には、朝鮮からの渡来人たちが住み着いて、集落をつくっていました。
水が必要な水田作りにも(当時としては)最適な環境だったと思われます。
※猪飼野(猪甘津)は、大和/河内王権のための豚肉供給基地でもあったと考えられています。川(現在の平野川など)が河内湖に注ぐ
この地は、船による出荷にも最適だったのでしょう。
「仁徳天皇(オオサザキ)」がこの地を訪問したというゆかりの場所が、今は神社(御幸森神社)として残っています。オオサザキが座ったという石が祀られています。
高い文化/文明/農業技術をたずさえてやってきた彼ら渡来人は、オオサザキに代表される河内/大和王権にとって、是が非でも味方につけておきたい存在だったのでしょう。
その後のこの地域の発展と渡来人とがどう関わるのか、gadogadoの勉強はそこまで及んでいません。
しかし、大阪平野には「百済」をはじめ、朝鮮半島にゆかりの地名や伝承が数多くありますから、乱暴に申せば、旧河内湖、旧大和川、石川流域の開発には、彼らの深い関わりがあったと見ています。
また、オオサザキが切り開いたという上町台地の水路=「難波の堀江」や、「茨田堤」という大土木工事には、渡来人の優秀な土木技術が必須であったとも考えています。
1500年の時を経て、日本は1910年に韓国(当時の朝鮮半島統一国家の名)を「併合」しました。
日本による朝鮮半島支配が進むにつれ、仕事を求めて再びこの地に朝鮮人が集まり暮らすようになりました。
強制連行の有無についてここで検証することはしませんが、
少なくとも貧しさにあえいでいた朝鮮民衆、なかでも済州島※の人々が数多くこの地にやってきました。
※済州島のミニ解説は、「うんぼく食べるよ」ブログで書きました。
差別され、3K労働に従事するしかなかった彼らは、多くの命を犠牲にしながら※、しかしこの地(=猪飼野)でエネルギッシュに生活を営んできました。その中心に御幸通り商店街は位置していました。 往時のにぎわいは想像するに難くありません。
※平野川の改修工事は1919年から5年間かかって行われました。たくさんの朝鮮人が犠牲になる難工事でした。
戦後は日本人も多く住むようになり、今は少しさびれてきたこの街ですが、御幸通り商店街は結束して興隆策を講じています。
HPもあります。
桃谷駅や鶴橋駅、今里駅からは散歩できる距離です。この街が大好きな日本人の私としては、この街の賑わい復活に少しでも寄与したいと願っています。
キムチを選ぶだけでも迷う楽しい商店街です。
とはいえ、来られるときは、商店街の夜は早いので、遅くとも夕方五時までには足を運んでくださいませ。
なお、猪飼野の歴史に興味の有る方は、猪飼野ドットコムなどのサイトがありますので、そちらでご研究ください。パントマイマーのマルセ太郎さん(猪飼野出身)の研究もあわせてどうぞ。
Posted by gadogadojp at 13:00│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
「猪飼野コリアタウン」そのものは、作られた町ですね。1990年代の前半から始まったかな。大阪市立大学の社会学のT研究室がフィールド調査に入り、地元の青年が中心になって、町おこし・・・。今じゃ、マイナーぽっいけれど、メジャー化?
歴史というあたりでは、済州との絡みを調べられた面白いですよ。
沖縄かあ。昨日(1日)は、関西沖縄文庫に行って
ソーキ蕎麦の食材仕入れてきました。主は留守でした。
また、寄らせていただきます。
歴史というあたりでは、済州との絡みを調べられた面白いですよ。
沖縄かあ。昨日(1日)は、関西沖縄文庫に行って
ソーキ蕎麦の食材仕入れてきました。主は留守でした。
また、寄らせていただきます。
Posted by 典虚 at 2008年11月03日 03:45
典虚さん、
はい、「コリアタウン」の名称は後付けですね。私はずっとまえ東成区で働いていて、この地域の工場に時々出張していましたが、急速に変貌してしまいました。
はい、「コリアタウン」の名称は後付けですね。私はずっとまえ東成区で働いていて、この地域の工場に時々出張していましたが、急速に変貌してしまいました。
Posted by gadogadojp at 2008年11月03日 07:20