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2007年07月15日

古墳の王たち〜河内と大和

古墳の王たち〜河内と大和

    堺HPから借用

義父から次のような趣旨の問い合わせメールが届きました。
ただの歴史好きのアマチュアの私ですが、下記のように返事をしてみました。


「★5世紀、急に応神・仁徳が、<なには>にあらわれるのか?
★河内王朝があったのか?
★大和との勢力交代があったのか?大和政権をくつがえしたのか?
★九州からの征服勢力があったのか?
★アジアからの騎馬民族の攻め込みか?
★大和王朝が河内に勢力を拡大したのか?」


壮大な疑問、たちはだかる謎です。
いまだどの学者も、「それらしい」歴史の大ストーリーを構築できていません。
だから、わたしのような非研究者は、多くの学者の小ストーリーに自分の想像力を目一杯加えて、ジグゾーパズルのように組み合わせて楽しむ事しかできない分野です。
つまり、お教えできるような資格が私にはありません。
でも、これは私を歴史の世界に連れて行ってくれた謎ですから
無責任に少しだけ私見を書かせていただきます。

1>河内(和泉北部)と大和
  ①同じ王権だったのか
  ②並列していたのか
   その場合、対立していたのか共存していたのか
  ③交替したのか

 この命題は、たぶん、宮内庁が「陵墓」を研究者に公開し、発掘調査を認めるまで解く事ができません。
 たとえば「仁徳陵」古墳の被葬者がだれで、どの年代に造られたものかを知ることなしには、交替も並立も証明できないからです。現在の5世紀という築造年代も、外見からの推定にすぎません。中を見たい!

 次に、生産力の問題が十分解明されていません。世界有数のこのような墳墓が築造されるためには、背後に膨大な富の蓄積がないと不可能です。ピラミッド建築を支えたナイル沿いの麦農耕の規模はかなり明らかになっていると聞きますが、河内/大和の米の生産量は(現在までの発掘では)そう大きくはありません。
 それはたとえばこういうことです。仮に当時、奈良盆地では米がたくさん収穫され、河内では少なかったとするなら、河内と大和の巨大墳墓群を支える生産力は同一と推定されますから、両者は同じ王権で、ただ単に墳墓(と宮廷?)の場所が生駒を超えたかどうかというだけの違いにすぎなくなります。これで解明!となるのですが、残念ながらまだ水田跡は少な過ぎます。今後の発掘に期待します。※
 もっとも、富を生むのは稲作農耕だけとは限りません。鉄器、陶器、塩などの生産は河内/和泉で盛んでしたから、河内を独立した王権と考える場合は、これが一つの有力な材料になります。
 また、(世界史上よくある)交易/貿易大国であったと考えることもできますが(というか、私は昔これを着想しました)、当時の船の大きさやここより東の地域の経済力の薄さを考えると、無理があります。
 
 ※今後水田跡が続々発見できるとすれば、大阪市東部のいわゆる「河内湖」周辺だと私はふんでいます。淀川と大和川の水をいったんためこんだこの巨大で浅い湖は、古墳時代の大工事(上町台地に排水溝を掘る)によって急激に面積を縮小させました。その跡地の湿地は(生産性は低いものの)格好の水田になったはずで、これが河内/和泉の巨大墳墓を支えた経済力であったのでは、と考えることもできます。

 とはいえ私は、河内と大和の王権は一体であったと考えています。
 河内湖の跡地に大規模な水田跡が発見されても、この両地区あわせた、いわば「阪奈王権」とでも言うべきクニ全体の食料生産基地ではなかったのかと。

 その根拠は立地の問題です。
 百舌鳥と古市の巨大古墳群の立地を見ると、対外政策の必要性を重視したとしか思えません。瀬戸内から大阪湾を航行または陸行してきた西日本、あるいは朝鮮や中国からの「旅行者」は、まずは大阪湾の先、三国ケ丘丘陵上に、葺き石で白く輝く巨大な人造物(百舌鳥古墳群)を見つけて驚嘆したはずです。「旅行者」がさらに東、奈良盆地に進もうとすると、その途上の街道(大和川沿いに王子方向へ、あるいは分岐して石川/飛鳥川沿いに竹内街道越えに)からは古市古墳群の、やはりピカピカと輝く巨大な墳墓を眺めながら進む事になります。この効果は言うまでもなく絶大なはずで、意図的に立地を選んだと考えられます。「ここで生産力が高まったから政府や墳墓を造った」というより、「ここが効果的だから造った」という意図です。
 というわけで私は、河内と大和の王権は一体ではなかったか、という説に一票いれます。百舌鳥と古市の古墳群は、古代の対外アピールを兼ねた墳墓モニュメント地域ではなかったかと考えています。王の墓地は必ずしも王の住居(これは比定不能です。)に築造する必要はないでしょうから。

 ただし、その王権が連続的なものであったとは考えていません。

2>王はだれか

 現在の段階で、この疑問の鍵を握るのはやはり古墳の副葬品の変化だと思われます。古墳時代の中期(4世紀末か)から、それは大きく変貌しました。それまでの呪術的/農耕的な副葬品(玉、鏡、鉄製の武器や農具)から、軍事的/騎馬民族的副葬品(甲冑、馬具、金銅製装身具)への劇的変化です。生前の衣服や住居などの装飾は、時代とニーズにあわせて趣を変える事は普通にありますが、死後の世界を飾る副葬品は、その被葬者のアイデンティティの証明になることが多いからです。
 古く、江上波夫氏が「騎馬民族国家征服王朝説」を唱えた最大の根拠もここにあったのはご存知の通りです。

 私は、明らかに、何らかの「征服」事件が勃発し、王権の交替があったのだろうと考えています。(とはいえ、それまでにもその後にも何度もあったはずだ、と思うのですが。※)その時期はやはり4世紀の中盤以降、副葬品が変化し、古墳が巨大化する直前でしょう。中国では五胡十六国の時代。朝鮮では三韓の初期段階。つまり、東アジア激動の時代です。乱暴に申せば、新羅系または百済系(この両系統の日本での綱引きに謎が多過ぎて、私の手に負えません。大王の側近大伴氏の行動を見るだけでも、混乱するばかりです。ただ、新羅と百済の旧都双方を旅した私の直感は、新羅系!と叫んでいますが)騎馬民族の移動/征服行動があったのでは、と想定しています。彼らが一旦九州北部に滞留し、九州の人々を引き連れて来たのなら、見方を変えれば九州からの征服者ともいえるでしょう。その征服王の名は不明ですが、後に仁徳/応神などと(ホムタワケ/イザサワケ/イザホワケ/オホサザキあたり)呼ばれるあたりの人々であれば、何かと整合するように思います。

※前の時代では崇神(ミマキイリヒコイニエ/ハツクニシラススメラミコト)、垂仁(イクメイリヒコ)の時代があやしい。
後の時代では、やはり、継体(オホド)と欽明(アメクニオシヒラキヒロニワ)の頃があやしい。

 ★時間がなくなりました。尻切れトンボですが、本日のところはこれで勘弁してください。
 神武東征が、後世の朝鮮からの征服行動の投影なのか
 水野祐氏の三王朝交替説
 とりわけ、三輪王朝説の魅力
 邪馬台国との関連
 なには、の由来
 などなど、楽しく想像できる先達の発想は山積していますので、これからもずっと退屈せずにすみそうです。



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Posted by gadogadojp at 19:00│Comments(0)歴史
 
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