邪馬台国沖縄説:オホドファイナル5

gadogadojp

2010年10月02日 20:30



 沖縄本島北部、本部半島の夕焼け。名護市。


さて言い訳のように繰り返し書くが、この拙文は学術論文ではない。
(そんなものだれもブログに書かないだろう)
また私は、あらゆる意味で古代史の学者、専門家、研究者ではない。
(古代史に限らないか)
だから、このブログは、私自身が古代の実像に一歩でも迫ったという満足感を得ることが第一の目的で書かれている。
自分の足で歩き、自分の目で見て考えたことをベースにする、という条件だけを自分に課して。

とはいえ
それだけではない助平心も当然持ち合わせているわけで、
だからネット上で公開している。
ひょっとしてわたしに歴史の神が降臨し、真実にヒットするかもしれない。
その時には誰かに読んでいてもらいたい、
というような秘密の(どこが)野望も持ち合わせているわけだ。
そのためには、思いつきだけの語呂合わせのような文章をここでは書きたくない、と思っている。
(脳内ではけっこう考えている)
でも、今回は少々はじけたい。
阿呆扱いされてもぜひ、はじけたい。


1)邪馬台国は沖縄にあった

ご存知ですか、古代史好きの皆さん。邪馬台国(邪馬壱国)は沖縄にあったのだということを。

私は昨年11月23日のブログ記事「邪馬台国はどこに〜その2魏志倭人伝ノート」で、すでに邪馬台国沖縄説に言及した。その部分を抜き出す。

「◎邪馬台国沖縄説の復権
☆突飛な発想に思えるが、邪馬台国が沖縄本島にあったのではないかという発想も無視したくない。
☆距離と方位の矛盾もあるていど解消するし、倭は温暖という記述にも合致する。
☆もちろん沖縄説にはいくつもの重大な欠陥がある。特に食料生産の不足は致命的だ。
☆ただ、沖縄本島の周囲からは海底遺跡(北谷など)が発見されつつある。本島が(弥生以降)急激な地盤沈下で沈降したとするなら、かつて広大な沖積平野が存在した可能性も否定できない。
☆私は沖縄説を採っているわけではないが、北九州とヤマトに限定されてしまった論争が危険だと考えている。そういうことを言っておきたいので、沖縄説を最後にとりあげた。」


遠慮がちに書いているが、実はかなり心は沖縄説に傾いている。
理性が抑制を説いているだけだ。
理性とは何か、それは、恥をかくぞおまえ、という声だ。
はじけてしまったらそんな小声は消えてしまうのだ。
倭=温暖、倭=海洋民色が濃い、という魏志倭人伝に描かれたイメージは、北九州や奈良盆地の環境に合致しない。
沖縄説を採れば、解決する。

さらに、方位と距離の問題もクリアできる。
朝鮮半島の帯方郡からどんと南南東に進み、
そこからさらに南南西に進んでもっと進めば、自然に琉球弧にたどりつく。
(学術論文どころか…)
もういちど昨年のブログを引用する。

「◎方位と行程は解決不能
☆上記三種の謎解きと比べれば、この方位と距離の課題は今のところ解決不能だ。
☆当時の地形、交通手段、ルート/道、対抗勢力の解明などが進んでのちに判明することだから。
☆原典の叙述の詳細は省略するが、方位は九州説に優位、行程(距離)は畿内説に有利、とふつう考えられている。それはその通りだと思う。
☆しかしだからこそ、九州説/畿内説共に原典に誤り有りと主張するのは恣意的に過ぎる。
☆投馬国から邪馬台国までの行程が「水行十日、陸行一月」と長距離/長時間にわたる。この叙述の解釈が特に厳しい。」


投馬国が九州内のいずれかにあったクニだとすれば、
それが福岡県であろうと宮崎県であろうと鹿児島県であろうと、
そこから邪馬台国までの行程が「水行十日、陸行一月」との記述に沖縄はとてもよく馴染む。
ただし投馬国に至るにもその前の不弥国から「水行二十日」かかると書いてあるのだから、
投馬国じたいすでに南海上の島であったかも知れない。
もちろん、今から1800年ほど遡った時代の琉球弧は、
その大部分が陸続きであったことが前提になるが。

また、距離の問題はどうだろう。
短里で計算すべきだとする古田武彦氏の<一里=七五~九〇メートル>説を採用してみる。
「自郡至女王國萬二千餘里(12000余里)」なのだから、
帯方郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国南部)から沖縄島那覇までの距離を測ってみよう。
帯方郡の中心地(郡治)の位置は不明だから、現平壌と韓国との国境の中間地点に置いてみる。
次に平壌から宮崎まで直線を引き、宮崎から沖縄島名護まで直線を引いたとして約17500里。

かけはなれた数字ではないが、魏の使節が直線で進むわけがないから、無理が生じる。
水行部分を除外すれば近い数字になるかもしれないが、強引すぎる。
この問題の解明は保留する。ちょっと残念。


邪馬台国は「会稽東冶の東にある」とされる。
邪馬台国を中国大陸から見ての方位の記述である。
「会稽東冶」は現在の福建省近辺。ここから真東に琉球弧がある。ジャストクリア。




 沖縄の海:ここは石垣島だが、このあたりの周囲の海にも遺跡が眠っているのかもしれない


邪馬台国沖縄説は荒唐無稽なアイデアと思われる方もおられるだろうが、
邪馬台国沖縄説を唱えたのは、(残念なことに)私が初めてではない。
35年ほど前に読んだ邪馬台国の概説書(初心者向き:書名失念)に、エジプト説やジャワ島説、大阪の岸和田説などとならんで沖縄説が間違いなく紹介されていたのだから。
戦前の研究だか戦後だかもわからないが、この説には先人がいたのだ。しかしその研究者の名がわからない。どなたかご教唆いただければありがたい。

また最近では、海洋地質学者の木村政昭氏が『邪馬台国は沖縄だった!』というズバリなタイトルの本を出版されるなど、活発にアピールされている。
同著はわたしも拝読したが、残念ながら学術論考としては不十分だ。地名比定の数々も繰り出されているが、思いつきのアイデアの域を出ていない。
いや、誤解の無いようにしていただきたいが、前書きに書いたように、このような語呂合わせ的アイデアが真実を言い当てていることは十分あり得る。説得できないだけだ。
ここは本職の歴史学者、考古学者の参入をぜひ待ちたい。

ただし木村氏の本業である海洋地質学の分野の論考には大きな説得力がある。沖縄の海底には間違いなく巨大な遺跡がたくさん沈んでいるはずだ。
北谷、慶良間、与那国…
稲作可能な平野だって広がっていたに違いない。
氏の著作を読み、私は私の邪馬台国沖縄説が成立する自信が持てたので感謝している。

などと邪馬台国沖縄説に吸引されている私だが、
もしも邪馬台国<台湾説>を唱える研究者が出現し、説得力を持って主張されれば、はじけた私はこれに従うかもしれない。台湾も魅力的な候補地だし、海底遺跡に頼らなくてもすむところが簡便でいい。



2)OKINAWAはOKINAGAである。

つまりオキナハはオキナガである。沖縄は息長である。

〜ますます語呂合わせのレベルになってきたが、この相似は無視できないまま私の想いの奥に澱のようにたまってよどんでいる。
ここは一つ、ドブさらいを試みなければならない。

前回の「オホドファイナル4」で、私は近江を本拠とする息長氏は謎の一族であると書いた。
詳述は避けるが、『記紀』に見る息長氏は、政治の表舞台に登場することは無いが、一族の女性は続々と大王家に嫁ぎ、子をなし、しばしば大王位を継いでいる。




 米原市にある息長陵墓:敏達天皇の后、息長氏出身の廣姫の墓という


一例だけを挙げれば、古代史ファンにはおなじみの神功皇后の元の名は息長帯比売命(おきながたらしひめ)。帯中日子(たらしなかつひこ)、つまり仲哀天皇の后となって『記紀』上で大活躍する。
彼女の活動範囲は広く、大和はもちろん、筑紫、新羅に及ぶが、なによりも特筆すべきなのは、筑紫香椎宮における神依せ(かみよせ)のエピソードだろう。
この時、オキナガタラシヒメに天照大神と住吉の三神が依りつき、託宣を授けるのだが、夫の仲哀はこれを信じなかったため、琴を弾いているさなかに死んでしまったという有名なくだりである。
『記紀』に見えるこの巫女のようなシャーマンのようなオキナガタラシヒメの姿に、『魏志倭人伝』の卑弥呼を重ね合わせて見る研究者は、周知のように昔から多く存在した。

私はこのエピソードが、印象深いだけでなく、重要なメッセージを孕んでいると思うのだ。
つまり、オキナガタラシヒメの出身部族息長氏は、その女系に神懸かりする資質を持つと信じられた一族であり、大王一族がこの後その地位を保持し続ける神祇の元締めとしての地位を保証した一族ではないかと考えるのだ。
言い換えれば、少なくとも天武/持統の頃までは、息長の血を大王家に注ぎ込むことで、大王家の神事に関わる権限を独占する立場が維持されていたのではないかと。

そのように考えれば、息長一族の男性が政治権力に関わっていない『記紀』の叙述も理解できるし、大王一族の妻として多くの息長氏の娘が嫁いだ理由もわかる。
息長氏は、そのような幻想をふりまくことのできる一族であったということになり、その力の源泉を、古く邪馬台国の女王卑弥呼に求めていたとしても、うなずける仮説ではなかろうか。
8世紀前半の『記紀』の成立には、明らかに息長氏の意向が加わっている。神功皇后のエピソードは、息長氏による上代への強烈なプッシュが行われた結果ではないか。


さて以上のような考えの論証はもちろんできないが、
<オキナハはもとオキナカ(沖中)であり、カはハに変化し得る。>とする説をご紹介して私の語呂合わせの傍証としたい。
それは川崎秀明(かわさき ひであき)沖縄北部ダム事務所所長の考えだ。
氏のメッセージはネット上に公開されている。「歴史と文化を探求する風土工学」というサイトだ。
だとすると、氏もほのめかしておられるように、原型オキナカがオキナガ(息長)とめでたい言葉の発音に変えられても、まったく違和感が感じられないことになるのではないか。

息が長いとは、長寿の比喩ともとれるめでたい言葉だ。
もちろん、それが海人〜つまり海の民系の用語であれば、社会的なヒーローを指すとも考えられる。
私は当初、この漢字の引力に負けて、息長氏は海の民、すなわち安曇(あど、あずみ)民族の長を指す言葉だと考えた。
けれど、いくらなんでも飛躍がありすぎると感じていた。
しかしいま、その飛躍を埋めるキーワードが見つかったと思える。
つまりそれは、オキナカ(オキナハ)という地名であり、
『魏志倭人伝』に見る倭人の海民的色彩の濃さだ。


結論を申し上げる。

邪馬台国はオキナカ(沖縄)に存在していた。
地形の変動またはその他の理由により、九州を経て畿内へ移動し、最終的に近江に移り住んだ。
元来の一族の名称はわからない。オキナカかもしれないし、そんな名は無かったのかも知れない。
いつの頃からか、一族の名をめでたい<息長>と変えた。
その頃、ヤマトの政治的統治は、大王家に委ねられていた。
しかし息長一族の女性は、卑弥呼の血を引く巫女(みこ)の血筋であるから、
男系の大王一族=ヤマトの統治者に、不断に神依せの能力を注ぎ込む家系として存続したのだ。
統治の正当性の保証を授けたのだ。


なんだか、うまくおさまっていませんか?
歴史の神さん、降りてきてませんか?



3)ヤマタイ東遷


さいごのハジケは、ヤマタイの東遷をたどることである。
しかし、このことは、私の今回のフィールドワークの範囲外であるので、
最初に決めた原則に従い、ここでは文章化しない。
ただ、その概略だけを仮に示しておく。


邪馬台国の女王卑弥呼の死後、男王を立てるが国中が従わず、13歳の「壹與」(いよ?『魏志倭人伝』)または「臺與」(とよ?『梁書』他)を王とすることでようやく収まったとする『魏志倭人伝』の記述は有名だ。これを三世紀半ばのできごととしておく。

その後の中国人による倭人に関する記録は、『宋書』に描かれたいわゆる<倭の五王>の時代まで百年以上もぷつりと絶えて、空白状態となる。
おそらくはこの間に、沖縄→九州→大和に至る東遷が決行され、大和を本拠地とする集団が、日本列島の中心部(特に東)を征服する営みが行われていたのだろう。

このことは当然、いわゆる天照大神神話、天孫降臨説話や神武東遷伝承などに反映しているものと思われる。
そしてそれはおそらくは波状に行われた行為であるから、『記紀』においても単純化されないまま残ったのだろう。




  竹ノ内街道付近の磐船神社の磐座:由緒には、「旧事記録天孫本記によると、『ニギハヤヒ命十種のみたからを奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰(たけるがみね)に天降りたまう』とある。本社の創祀はこれに由来すると思われるが、その年代は明らかではない。」とある。撮影は2009年夏


その波状の東遷過程の中で、息長氏が果たした役割はどうであったのか、どういうルートをたどったのか、それをさぐることはたいへん興味深い作業になる。
息長氏は近江だけに関わる豪族ではない。
このブログでおなじみのヤマトタケルは、『記』によれば「ある妻の子は息長田別王(おきながたわけのみこ)」、その子は「杙俣(くいまた)長日子王(ながひこおう)」。「ある妻」とは息長の娘であろうし、「くいまた」は、現在の大阪市杭全(くまた)と言われる。
このように。河内平野と息長氏の関係を語る研究者も多いと聞く。
とすると、住吉大社との関わりも気になる。

それ以外にも課題は山積みだ。

ヤマトという地名と邪馬台国という国名の関連についても、
皇国史観とは無縁の場所で、そのつながりを検討する必要が生まれたとも思う。

邪馬台国が沖縄に存在したとして、
その場所の比定にはまったく言及していない。

ヤマトタケル(大和の一派)が息長氏を征討しようとして失敗したのだろう、
と伊吹山に関して先に書いた内容は、
このままでは自説の中で矛盾してしまう。

もう少し勉強を続けて、いずれまたこれらの点でもはじけてみたいものだ。

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