大阪近代史フィールドワーク:5 「難波新地と難波御蔵」

gadogadojp

2016年10月28日 10:00

大阪近代史フィールドワーク:5 「難波新地と難波御蔵」


雌の期待に応えて孔雀の雄の羽が絢爛豪華になったのなら、
女の期待に応えて男の体躯は逞しくなったのだろうか。
その手足は筋肉は、狩り、耕し、漁り、
女と子供の食糧を得るために?

そういう能力がもはや不必要になりつつあるいま、
女の期待がどこにあるのかわからず男たちは戸惑っている。

せめて身を粉にして働いて期待に応えようにもこの低賃金。
自分が生きるのが精一杯で男たちは自信を喪っている。

婚姻と出産を前提としないこの「産業」は、
未来に向けてますます隆盛を極めていくのかもしれない。




娼妓合法化を求める台湾のデモ行進(2009年):CRI新聞より




ピンク塗り=難波新地跡(江戸時代から明治時代末期まで。現在は飲食街。)
ブルー塗り=芝居小屋ゾーン(色町宗右衛門町を含む。江戸〜現代。現在は飲食店が繁栄。)
グレー塗り=千日幽界ゾーン(江戸時代から明治時代初期まで。現在は歓楽地。)
グリーン塗り=木賃宿ゾーン、明治からは貧民街ゾーンが加わる(現在は商業地、でんでんタウン、住宅)



南海電鉄の難波駅から少し歩いてみましょう。
日頃ミナミで遊んでいるあなたでも、少しだけ歴史を知ることで、なじみの通りも新しい姿を見せてくれるかも。

目的地の難波新地に行く前に、まず少し寄り道をします。
現在「なんばパークス」と呼ばれる一帯(地図のもっとも下の赤マーカー)には、かつては南海ホークスがフランチャイズとする大阪球場が建っていました。
それ以前は大きな煙草工場がありました。
さらにさかのぼった江戸時代には、難波御蔵(なんばおくら)と呼ばれる幕府の巨大な米蔵が建っていました。※①
ですからパークスにつながるなんばCITY一階のグルメゾーンには「なんばこめじるし」と名が付いています。

下に掲げた江戸後期の浮世絵「長町裏遠見難波蔵」を見てください。長町とは、上の地図の緑塗りゾーンのことです。ことばの通り細長い町で、現在は日本橋と呼ばれています。その長町から、たぶん現在の日本橋三丁目交差点の付近からなんばパークス、いえ難波御蔵を眺めて描いた図です。
直線距離にして300mくらいなものですが、いまは絶対に見通すことができません。
ちなみに、この時代の長町は木賃宿が並ぶ宿泊ゾーンだったのですが、一方で傘づくりが盛んで、傘を干す風景が名物であったそうです。

江戸時代に戻りたいなどと美化する気持ちはありませんが、
明治維新以来の日本国の「近代化」政策には美意識のかけらもなく、日本の風景を根こそぎ破壊する政策であったことが一目瞭然ですね。
現代の浮世絵師が描いているのはなに?



「浪花百景:長町裏遠見難波蔵(芳瀧)」 大阪府立中之島図書館蔵


なんばパークスから、南海難波駅の西側の暗い通りを抜けてなんばマルイ方向に歩いていきましょう。
この通りがなぜ薄暗いかといえば、阪神高速環状線が頭上の空をさえぎっているからです。
この阪神高速道路はそのまま北北西に伸び、道頓堀川をまたぎます。
この道路こそ、難波御蔵へ納める米俵を船に乗せて運ぶために、1733年に切り開いた新しい川(新川)の跡なのです。
難波御蔵の廃絶で役目を終えたこの川は、1958年に埋め立て工事が始まり、まもなく阪神高速道路が頭上の川として登場することになりました。

さてこの新川と、なんばマルイをはさんで東側の戎橋筋(えびすばしすじ)商店街との間の地域が、かつての難波新地(遊廓)だったのです。
とはいえ難波駅前の交差点から眺めても、どうにも全容が想像できません。御堂筋が広がっているからです。
ところがこの御堂筋は、江戸時代にはわずか6m幅の道で、しかも一直線ではありませんでした。
近代になって大阪駅と難波駅との間の幹線道路を作る計画が持ち上がり、1937年にようやく幅44mの現在の御堂筋が完成したのでした。
難波新地という色町が消滅したのは明治時代末期ですから、その当時にこの道はなかったのです。

現在の難波新地は飲食店がずらりと並ぶ賑やかなエリアになっています。
住所では大阪市中央区難波4丁目が中心です。
どうぞ100年あまり前までの三味線の音色、女たちの嬌声、酔っ払いの大声など想像しながら、気軽にぶらぶら歩いてみてください。



難波新地:『遊廓をみる』下川 耿史, 林 宏樹 著より


以下の文は、「飛田遊廓跡」の回と内容が重複する部分があります。

江戸時代の大坂の南部には、宗右衛門町、道頓堀の九郎衛門町・櫓町、その南東の坂町、同じく南西の難波新地に遊里が発生しました。
まとめて「南地五花街(なんちごかがい)」と呼ばれ、たいへんな賑わいを見せていたそうです。それぞれ楽に歩いていける距離です。
ある研究者は、おそらく当時の日本でもっとも規模の大きい遊里だったろうと言います。
明治になると、遊廓として公認されていきます。

料理や酒が提供され、芸妓が三味線を弾き舞を踊って客を接待する高級な遊び場と、娼妓が客と床を共にする場とが共存するシステムでした。
芸妓からは武原はんさん、照葉さんなど著名人も輩出しています。

その「南地五花街」の中でここ難波新地はもっともみっちりと遊び場が密集した地域で、芸妓よりも娼妓が多かったとも言われます。

なぜミナミに遊里、遊廓が生まれ、発達したかというと、船場あたりからの距離が近く、旦那衆にとって格好の遊び場であったことも重要ですが、
最大の要因は、このエリアが都市の周縁部(へり)だったからです。
上記の浮世絵からもわかる通り、難波御蔵付近になるともう周囲は田園地帯が広がっていました。
お上(大坂町奉行所、明治政府と大阪府知事)の認可が得やすい都市の辺境だったのです。





南区大火地図:大阪歴史博物館資料




この難波新地の密集ぶりが仇になったのでしょうか、ここではたびたび失火があったそうです。
とりわけ、1912(明治45年)1月16日の火災は激甚で、町の命脈が尽きました。

難波新地の風呂屋の煙突から火花が舞い、隣の貸座敷「遊楽館」に移った火は西からの強風にあおられて千日前に燃え広がり、遊郭はもとより、千日前の劇場や映画館などをほぼすべて焼き尽くしてしまいました。生玉神社まで被災しています。
これを「南の大火」と呼びます。焼失戸数は約5千戸といいますから、尋常な火事ではありません。
しかし死者は消防手2名を含む4名と、最小限の犠牲で済んだのは幸いでした。
火災への心算が備わっていたことに加え、火が南北方向には広がらなかったため、避難が容易だったのではないかと推測されます。

ただし、仕事場を失った女性たちは稼ぎ場を失いました。
芸を心得る芸妓は他の遊里に移ることが比較的簡単だったのですが、
借金を背負っていた者の多かった娼妓にとっては、過酷な運命が待ち受けていたでしょう。
妓楼の主人の腕次第で、他の娼館に移籍し、あるいはこの後に成立する飛田遊廓に移ることもできたでしょうが、
ヨタカ(街娼)のようなしのぎに身を落とさざるを得なかった女性も多数いたはず。
彼女たちの人生を記録するような「物好き」はいなかったので、すべては不明のままです。※②



ミナミの大火:出典不明




最後に、飛田への遊廓の移転の話題を書いておきましょう。
被災した地域の中でも千日前エリアの場合は、この火事を契機にして、「東洋一の大娯楽場楽天地」という奇抜な建物(前述千日デパートの前の建物)を建ててたくましく復活するのですが、遊郭のほうはそうはいきませんでした。

二千人とも言われる娼妓の多くが散逸してしまったこともあるのですが、この大火をきっかけに大阪で遊郭反対運動がたかまったことも原因でした。とはいえ、遊郭の許認可権を持っていた行政は、遊郭を廃止する気などなく、運動が鎮まるのを待っていたように思われます。

大火の直後に不思議なことがおきます。「難波新地の貸座敷業者を移転するために、阿倍野に遊郭が認可されるという風説が起こり、天王寺付近の『土地建物会社』(社名)の株が暴騰した」というのです。当時の新聞によれば、この土地建物会社は「欲深い地主が土地を持ち寄って結束し、大資本の結合力によって地価を昂騰せしめ、比較的短時日の間にボロい儲けをしやうと企て」るような性質の企業体でした。

この風説はまもなく消え、遊郭の再建話も消えたかと思われた1919年、行政は突然次々と遊郭を開設するという姿勢に転じます。その最初の場所は案の定、阿倍野でした。こうして阿倍野のがけ下を整地し、城壁を構えて建設されたのがいわゆる飛田遊郭です。(墓地のあった鳶田=飛田とは違うエリアです。地名は堺田でした。なぜここを飛田と呼ぶようになったのかはわかりません。)この遊郭の経営を任されたのが「阪南土地会社」。7年後にこれを吸収合併したのが「大阪土地建物会社」。通天閣の経営や新世界のルナパークという娯楽施設の経営で有名だった企業でした。けれどもっとも利益を得たのは、飛田遊郭からだったそうです。

難波新地フィールドワークのあとは、道頓堀筋を歩いて法善寺に行かれることをおすすめします。
法善寺には、飛田の妓楼からと思われる寄進の文字が見つかります。
この妓楼、元は難波新地で商っていたのかもしれませんね。





↑法善寺お初天神に「飛田」「宗右衛門町」の店の名が。この事実はあるブログで知ったのですが、今回この記事を書くにあたって探してみたのですが見つけられませんでした。感謝いたします。お心当たりの方はコメントいただければ幸いです。



※①難波御蔵は1733年に建てられ、1791には天王寺御蔵と合併してさらに規模を拡大しました。43000㎡といいますから、甲子園球場グランドの約3:3倍に当たります。図にあるように、松林と白壁の美しい建築だったといいます。
明治時代に入って廃止され、新川も1958年頃から埋め立てられて姿を消しました。

※②真偽のほどはわかりませんが、大阪府と和歌山県の県境近くの峠道に「遊女の墓」と称する墓碑が残っています。伝承によれば、この大火のあと和歌山の実家を頼って帰郷しようとしたものの、娼妓であったことは村中に知れ渡っており、行くすえの人生や親にかける迷惑を考え、ここで自死したというのです。


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