「B29搭乗員慰霊碑」と「安倍晴明神社」:龍神村殿原=前編=

gadogadojp

2022年03月20日 17:10

”平和”はどんな時でも大切ですけれど、今はよりいっそう、、で、

「B29搭乗員慰霊碑(戦歿アメリカ将士之碑)」に行ってきました。

和歌山県田辺市龍神村殿原(とのはら)にあります。





殿原の住民は、”敵国”アメリカ兵士を救助し、遺体を埋葬した上、70年以上にわたって毎年慰霊祭を執り行ってこられたと聞き、感無量になったことがありますので、ぜひ一度は訪れたかった集落なのです。

詳しくは後ほど。まずは出発しましょう。自宅からストレートに通じる道は無く、少し寄り道をしながらの行程になります。



「ねむの木食堂」のランチの一例


国道311号(以下311と略す)沿いの「ねむの木食堂」さんで美味しいランチをいただいてから国道371号(以下371と略す)に入ります。白浜町・上富田町方面から龍神村の中心地(温泉、護摩壇山方面など)に向かう場合、ふつうは手前の県道198号(龍神中辺路線)を走るのですが、もう少し先の371ルートをとれば目的地の殿原にいきなり到着できます。

大阪府南部に住んでいた頃、371は和歌山県(橋本市)に向かう際によく通る道でした。また、高野龍神スカイラインという快適なドライブコースもこの国道の一部になっていて、
馴染みある道路でした。しかし一方で龍神以南は「酷道」としても有名で、当時は未開通
区間も三ヶ所あったように記憶しています。いまこの「酷道」を走る日が来ることに感動しました、というとちょっと大袈裟ですが。




目的地に向かって311から371に折れる交差点は、中川という川が富田川に合流する地点。交差点名は川合。地名は二川(ふたかわ)。わかりやすい。廃校になった二川小学校跡は「二川超学校」と呼ばれる施設になり、映画上映や朝市など各種イベントに使われて時折通っています。これを過ぎ、371をそのまま進んでいきますと温川(ぬるみがわ)。左手に「パラダイス・カフェ」という魅力的な空間を備える店舗があり、ここまではスムースに走ることができます。この辺りで標高180m。

「パラダイス・カフェ」を過ぎると道路はいったん狭まる場所や工事中の箇所もありましたが、通行に支障はなく、やがて小松原に入ると中川と分かれて高度を上げ、展望が楽しめるドライブコースになります。小松原トンネルを過ぎると標高は400mを超えます。500mになろうかという地点からは右手東側に笠塔山(1049m)がそびえている、、はずですが、私は見えている山がそうかどうか自信がありません。なお、この山は妖怪が棲む山という伝承を目にしましたが、詳しくは後で。




驚いたのは天狗嵓(てんぐら)橋。橋と笠塔山、そして眼下の急崖の風景は素晴らしいの一言。左に覆いかぶさる山塊と右下に落ち込んでいく急崖下(成川谷)との落差は300mに満たないのですが、とにかく急勾配なのです。この橋の完成は1991年1月、その先の笠塔トンネルは1992年10月。しかし371のこの区間が開通し供用になったのはずっと先のことで、数年前なのではないかなあ。(開通記事が見つからない)
ともあれ、今はつながっています。




天狗嵓の「嵓」は巨岩、岩の崖のこと。訓読みでイワと読むことが多いのでしょうが、地名ではクラと呼ぶことがよくあります。大蛇嵓、エボシ嵓など。つまりこの橋の名の元になる岩(ピーク?)が近くにあり、テンググラがテングラに縮まったのだと考えましたがどうでしょうか。登山マップには載っているのでは?

MBS TVの懐かしい「ちちんぷいぷい」の記録によると、
「スタートから15キロ、ゴールの天狗嵓橋(てんぐらはし)を渡りきる。この地に伝わる天狗伝説から、天狗嵓橋と名付けられた。伝説では、この辺りに住む男が農作業をしていると、昼間にもかかわらず空が真っ暗になった。そして、空から天狗が舞い降りて、その男をさらっていった。その後、男は無事生還したが、拉致されたときからの記憶は、まるでなかったという。」 と書かれてあります。2018年の踏破です。参考まで。


天狗像の後ろにそびえるのが笠塔山?

天狗嵓橋親柱に、つまり四ヶ所にブロンズ製の立派な天狗像が飾られていました。佐野俊郎さん作。私のイメージする天狗よりも恰幅ゆたかな、そして眉は厳しいが案外に人格者のような風貌の天狗でした。ところが、悲しいことに、南側の二体の鼻が欠けているのです。心ない悪戯なのでしょう、残念なことです。天狗に拉致されますよ。





殿原に着いたのは13時を過ぎていました。


清流丹生ノ川(にゅうのがわ)が激しく蛇行し山を削り取って生まれた細長い河岸段丘に、殿原の集落と田畑が並んでいます。
橋を渡るとすぐにちょっとした公園のようなエリアがあり、産土神を祀っているかのような小さな神社があります。そのすぐ隣に慰霊碑を見つけました。きちんと整備されています。WCもあります。


B-29爆撃機:wikipediaより引用



1945年5月5日。日本「本土」空襲真っ盛りの時期です。
ここ殿原に、B29 爆撃機が墜落しました。位置は確認できませんでした。
(紫電改が撃墜した、と言う真偽不明の情報があります。戦時中の共同幻想でしょうか。)

紀伊半島上空は、マリアナ諸島の基地から飛来する米軍機が京阪神を空襲する際の飛行ルートに当たっていました。余った爆弾・焼夷弾を紀伊半島の小さな町に落とし、漁船を銃撃することもありました。この日も、串本町で一人の犠牲者が出ています。ただ、この日の京阪神空襲の記録が見つかりません。私の調査が甘いのでしょうが、少し謎が残ります。(呉市にはこの日大きな空爆がありました)






その墜落したB29機には、11人の米軍兵士が搭乗していました。
轟音に驚いた殿原の住民が現場に向かうと、7人はすでに死亡していました。住民たちは遺体を川で洗い、十字架を立てて埋葬しました。生存者4人を救助し、食料を与えました。当時の厳しい食料事情の中、白米のおにぎりも用意したと伝わります。やがて4人は駆けつけた日本軍憲兵隊の捕虜となり、3人は大阪の収容所で死亡しました。(拷問など厳しい取り調べの末殺害されたことが後年米国資料で明らかになったそうです。ただし私は原史料を読んでいません。)






殿原の住民の素晴らしさは、「鬼畜米英」の強烈な同調圧力の時代にも関わらず生存者を虐待しなかったことに加え、戦中にも関わらず、翌月の6月9日に慰霊碑や墓標を設置したこと、そしてそののち毎年慰霊祭を欠かさず続けていることです。節々には、地元龍神村の寺院の僧侶による回向と併せて、キリスト教の牧師も参加し、祈りが捧げられています。



あの戦争では、死因が分類できない沖縄をのぞいて、56万人もの市民・戦闘員が空襲・原爆の犠牲になりました。私の叔父も神戸の空襲で焼死しています。母も、神戸大空襲では危機一髪の体験をしています。

われわれ

日本列島人から見れば”天空の悪魔”と思って不思議ではないあのB29の巨体には、しかし、国家の命令で死と隣り合わせの任務についているごく平凡な兵士たちが多数搭乗していました。判明しているだけで、B29機の内485機と、3041名の米軍搭乗員たちの命が失われています。

私は両国の死亡者は全て、敵国の犠牲になったのではなく、「戦争」の犠牲になったのだと考えております。


そして、戦争を起こすのは誰ですか。



この「B29搭乗員慰霊碑」の最下部に、旧約聖書イザヤ書の有名な言葉が引用されています。
「彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦い事を学ばない。 」※一部修整


後編に続きます。



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