大阪近代史フィールドワーク:2 「大阪の墓地〜都会のふちで」
2.大阪の墓地~都会の周縁(ふち)で:「大阪市設南霊園」
南霊園のなかほど。ひときわ高く目立つのが五代友厚の墓。
世界に「未開」 の地がたくさん残っていた頃、文化人類学者が現地踏査をした際に真っ先に調べることの1つは、その集団の埋葬方法や葬送儀礼だと聞いたことがあります。その集団の宗教や死生観はもちろん、生きている人々の文化や集団内の階層(上下関係)まで見えてくるからだそうです。
ご存知の通り、日本や沖縄の農村では、村のすぐそばに、たとえば集落を見下ろす山裾に墓地があります。そこは自宅から近く、農作業を始める前に簡単に詣ることのできる場所です。御先祖は我が傍に眠っているのです。
ところが都市部ではそうはいきません。都市民の大部分は元々は農民ですが、都市民として暮らすことになった以上、亡くなった肉親が我が家を守ってくれるような至近の場所に墓は建てられません。村落共同体から切り離された都市民は、その信仰、死生観、人間観、社会階層意識についても変質せざるを得ないのです。
阿倍野区民センター上階から西側(霊園)を眺める
ピンクで塗られた場所が南霊園
いよいよフィールドワーク(FW)に飛び出しましょう。※①
JR天王寺駅から南へ向かい、路面電車走るあべの筋を一駅分歩き、阿倍野交差点を渡った右手(西側)に阿倍野区民センターがあります。
その建物のすぐ西側一帯の、都心部としては広大な墓地がここ<大阪市設南霊園>です。
五代友厚、豊竹駒太夫、、、有名な人物の名や古典芸能人らしい名の墓があちこちで見つかります。
そうかと思えば
戦中戦後の物資不足の時に建立したのか、モルタルの簡素な墓がいまにも崩れそうです。
ところどころの石に焦げた黒い跡が残るのは、市街地爆撃から逸れた米軍の焼夷弾の痕跡です。
ゆっくり西の端まで歩いてみましょう。
じゅうぶん整備の手が行き届いていますが、それでも夏場は蚊の襲来に注意しながら。
墓地の西端はちょうど上町台地の西端。
大阪平野をみおろす崖の上に仏が二体、前かがみになって無縁仏を待ち受けておられます。
(のちの項目に関わりますので、頭の隅にとどめておいてください)
都市を擬人化すれば、広い範囲を一元管理する権力を持つ行政が頭脳に当たります。都市は自分の体内に墓地があることを嫌悪します。エネルギッシュな生き物としての本能でしょうか。それとも自分の体内に生産性の低い不良債権を持ちたくない欲心でしょうか。
ですから頭脳は墓地を体外に放り出したいと考えます。
ここのところを理解するために、大阪という都市の歴史を少しふりかえります。
古墳時代までの大阪市周辺は、上町台地を除いて大部分が海か湖でした。
古墳と呼ばれる王墓もまた、台地上に建設されました。当時の「都市」は奈良盆地にあったはずです。
ここから江戸時代までの大阪市周辺の地形状の推移変化は、註の②に短く書きます。また、コリアタウンFWの記事に地図を載せる予定です。
その後、人為的な土木工事や自然の土砂の堆積によって、上町台地の周辺に平野が生まれ、徐々に拡大していきました。湿地を含む大阪平野の出現です。しだいに人々が(主に西側の)平野部に集まり、生活を始めます。
その後、後述する石山本願寺勢力や豊臣家によって、大坂の都市化が始まりました。
1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川氏は、大坂を天領(直轄地)として重臣を派遣し、焼け野原となったこの都市の復興に努めました。
大坂のキタ(とミナミ)に大名の蔵屋敷(米倉庫)を置くことで全国の物流の中心地としました。
その当時、米は最多の物流資材で、最高の富の源泉です。
それをきっかけに、大坂は「天下の台所」と呼ばれ商業が猛烈な発展を遂げました。
近松や西鶴が活躍した大坂の黄金時代の到来です。
大坂はすぐに全国屈指の大都会となり、北組・南組・天満組の三郷に分割され、強力な権限を持つ行政(大坂町奉行)に統治されました。
ただ、これらの町はすべて上町台地の西(大阪湾)側地域にあります。
千日、鳶田、梅田、蒲生、小橋、葭原、長柄の地名が見えます。ななはかです。千日の絵には二体の迎仏が見えます。「上方 第五十六號」より「盂蘭盆会 七墓巡り之図・長谷川貞信」。のぶログさんより借用。
墓地の話題に入りましょう。江戸時代の大坂の町衆(豪商など旦那衆)や民衆には奇妙な風習がありました。それは、年に一回旧盆の宵から翌日の夜明けにかけて、鉦(かね)や太鼓を叩きながら七カ所の墓を巡る「ななはかまいり(めぐり)」です。(上図参照)
当時、大坂の墓地は市街地の周縁の七カ所に限られていて、それを大坂七墓といいます。人々はこれをめぐるのです。それは大坂の町を築いた先人たちの慰霊のための祭礼だったといいます。
もちろんそのような敬意がベースにあったのでしょうが、同時に、元は農民として、職住近接ならぬ宅墓近接の中で育った日本の新都市民にとって、心の不安を埋める気持ちが後押しした、と私はそう確信しています。※⑤
大坂の墓はなぜ七ケ所だったのでしょう。それは上記の徳川幕府の重臣が寺と墓地の統合を進めたからです。市街地の各所に点在していた多数の墓地を、七カ所にまとめたのです。
(七墓のルーツじたいはもっと古いもののようです。行基の設立になる、という俗説もあるくらいです。)
下図を見てください。見えにくいと思いますが、白抜きの字が七墓の位置。黒っぽいところが江戸時代の大坂の市街地です。七墓は微妙にその領域外の周縁(ふち)に置かれていることがわかります。先に述べたように、都市は内部に墓を持たないのです。
千日、鳶田、小橋、蒲生、葭原、南濱、梅田のななはかが読みとれます。先の図と一ヶ所名称が変わっていますが、その経緯はわたしにはまだ不明です。のぶログさんより借用。
このように墓地を忌み嫌う頭脳=行政の方針は、明治政府にも受け継がれました。いえ、いっそう徹底されました。
大坂が大阪と改称された時期です。
江戸時代初期に統合されたこの七墓はすべて、明治に入って再び移設されてしまい、今は(法善寺の境内、葭原など縮小されたわずかな例外を除いて)もう存在しません。
都会の墓地ほど区画整理、移転の対象になりやすい土地はないのです。※⑥⑦
上記の明治時代に実施された墓の移設は、一見すると、都市部の拡大に伴うやむを得ない行政の施策にも思えます。この場所に商業地や住宅地を拡大すれば、大阪市民にとって便利だと思えるからです。
けれどほんとうにそうでしょうか。一部の人間の、いえ近代都市という怪物の欲心がそうさせたのではないでしょうか。註⑦の梅田墓の例を読んでいただければそのことは明らかになると思います。
南霊園のとある墓:撮影前に挨拶はしましたが、墓石墓碑をむやみに写真に撮ることは良いことだと思いません。でもくずれかけたこの墓が少し愛おしくなったので。
また、七墓の中で最大の規模であった千日墓のケースは、この都市の欲心を露骨に示す事例です。
次回以降に現在千日前と呼ばれる地域にかつて存在した「千日墓」の項目を設ける予定です。
以下の小文字の部分はその記事と重複します。スルーしていただいても文意は通じます。
ミナミの繁華街の一つ千日前がどこにあるか、みなさんよくご存知です。
1972年5月、千日前デパートが火災を起こし、118人が犠牲になる大惨事が起きました。日本ドリーム観光が所有していたこの複合ビルの立っていた場所には、元は大阪歌舞伎座がありました。その前は楽天地という大繁盛した歓楽ビル。さらにその前(明治三年まで)には刑場がありました。
ですから、昭和の火災当時ですら処刑者の祟(たた)りだという噂が流れたものです。
刑場が整備されたのは上記の徳川による墓地整理に伴う事業でしたから、もちろん江戸時代初期のこと。
獄門(打ち首)、晒し首に特化したこの刑場(=せんにち)の周囲には、寺院、葬祭場、墓地(=千日墓)、火葬場、灰山までそろい、それはあたかも幽界のテーマパークでした。怖い、でも興味がある、というわけで、江戸時代後半には周辺に夜店まで並ぶようになった別世界になっていたといいます。
今も水掛け不動が残る法善寺は、当時はその幽界への入り口に建つ大きな寺院でした。
法善寺から南に進むと、現世とあの世を分かつ黒門をくぐります。刑場が左手にあり、向かいは移転してしまった竹林寺。
迎仏(むかえぼとけ)の先には細い三途の川の流れ。
処刑に当たる者も墓地や灰山を管理する者もすべて非人、賎民が担っていました。
また墓地のすぐ西側には難波新地という大規模な色街がありました。
都会における「死」と「性(生)」、「聖」と「賎」とはいつもセットで、町の周縁部に用意されるのです。
明治になり、都市再開発をもくろむ大阪行政は、1874年に千日墓地を阿倍野に移転しました。現在の南霊園がこれです。
ですから、南霊園には江戸時代からの墓碑が残っているはずです。
しかし移設は完了したものの、千日墓地跡の買い手がつかず困った、と記録にあります。なにしろ遺骨の灰を積んだ山がそのまま放置されたような場所ですから。
そこに名乗りを上げたのは千日墓の葬儀屋の養子の重助という人物です。歌舞伎や浄瑠璃で人気を博した心中物語の主人公、三勝と半七(さんかつ・はんしち)の墓が法善寺にあることに着目し、ここを興業の場にすることに道をつけました。
続いて奥田弁次郎、ふみ夫妻がこの地をただ同然で払い下げを受け、仮設の見世物小屋などを誘致しました。
するとまもなく千日前は、すぐ北側の町、立派な芝居小屋が並ぶ道頓堀筋と変わらない人出が押し寄せる繁華街になり、地価は高騰したといいます。※⑧
古い地図を見ると、千日墓の南(現在の南海難波駅方向)はまったく町家が見当たらないさびしい場所でした。この墓を移転し、跡地の興業が成功したことで、大阪の市域は南に延び、やがて今宮村(現在の今宮、新今宮、釜ヶ崎、飛田など)までも大阪市の領域にとりこんでいくことになったのです。
天王寺ふきんの地図1:鳶田墓地の東に「避病院」(隔離病院)が見えます。現在の大阪市大病院です。ですから近代初期の地図だとわかります。
天王寺ふきんの地図2:鳶田墓のそばに刑場の文字が見えます。二つの住吉道がありますが、右側の道が上町台地上の道で、現在のあべの筋にあたります。現在の南霊園のエリアがさびしい畑地であったことがわかります。江戸時代後期のものでしょうか。以上二つの地図は、<のぶログ>さんからの借用です。地図のみならずその知見もおおいに参考にさせていただきました。心からお礼申し上げます。
その今宮村には、実はここにも大坂七墓の一つ鳶田(とびた)墓がありました。千日墓よりは規模が小さいものの、磔(はりつけ)刑執行に特化した刑場もあり、小さな千日墓といった風情だったと思われます。
ここはのちに(広義の)釜ケ崎と呼ばれた場所にあたります。JRをはさんで新世界の真南にあたります。※⑨
鳶田墓の移転の経緯はまだ研究が進んでいませんが、やはり明治の初期に移転したはずで、移転先はもちろん千日墓と同じ阿倍野墓地(現南霊園)だったと思われます。
明治の大阪府行政は、このように、市街地の墓地を都会の新たなふち(周縁)地域に移転させる施策を積極的に行いました。
大阪市の南部と西部の墓の行先は南霊園でした。たとえば今の京セラドームは、大阪瓦斯の工場やタンクが並んでいた場所に建ったのですが、江戸時代には岩崎(千代崎)墓という墓地だったことがわかっています。この墓地も、明治初期に南霊園に移転したのでした。※⑩⑪
以上のような経緯からおわかりのように、実はこの大阪市営南霊園はそれほど古い墓地ではなく、せいぜいさかのぼって1874年(明治7年)の建設です。
それまでは鳶(とび)が舞うへんぴでのどかな農村だったのです。
しかし霊園の墓石のうち何割かは、元の千日墓、鳶田墓、岩崎墓などから移設してきた江戸時代の墓石のはずですから、丹念に墓石を見ると見つかるかもしれません。
参考までに、江戸時代後半の簡単な元号一覧表を掲載しておきましょう。
明和 めいわ (1764年)〜(1772年)
安永 あんえい (1772年)〜(1781年)
天明 てんめい (1781年)〜(1789年)
寛政 かんせい (1789年)〜(1801年)
享和 きょうわ (1801年)〜(1804年)
文化 ぶんか (1804年)〜(1818年)
文政 ぶんせい (1818年)〜(1831年)
天保 てんぽう (1831年)〜(1845年)
弘化 こうか (1845年)〜(1848年)
嘉永 かえい (1848年)〜(1855年)
安政 あんせい (1855年)〜(1860年)
万延 まんえん (1860年)〜(1861年)
文久 ぶんきゅう (1861年)〜(1864年)
元治 げんじ (1864年)〜(1865年)
慶応 けいおう (1865年)〜(1868年)
ここ南霊園に埋葬(移設を含む)された人物の中で、もっとも著名な人物は、近代の大阪経済界の基礎を作った五代友厚でしょう。
また、霊園の一番奥、上町台地の縁辺(ヘリ)のあたりには、無縁仏を供養する一画があります。二、三十年前までは、ここに他の墓地から運んできた無縁仏の墓石がうずたかく積まれていたそうです。しかしいまは撤去されました。その無縁仏に埋骨された多くの人の中には、まちがいなく難波新地、飛田新地の娼妓がいたはずです。
キリスト教徒の墓石も散見されますので、見つけてください。
熊野街道沿い(上記の地図では右側の住吉街道)のこの地に墓地が作られたことで墓参客が増え、阿倍野の町はJRより南に広がりました。今や日本一高いビルまで建っています。
地価の高騰によって、明治時代の土地ブローカーが巨利を得たといううわさも残っています。そのブローカーたちと政友会(当時の政党)政治家との癒着もささやかれました。
今は公営となって生き延びている感のあるこの霊園ですが、行政お得意の民営化などによって二度と移設がなされないよう祈っておきます。
日本農村の伝統に従えば、墓は自宅から近い方がいいに決まっていますから。
都市民にとっての墓地は、心の安定のために重要な装置である、とわたしは信じていますから。
※①その地に住んでおられる方にとって、自分たちの土地が「フィールドワーク」されるという言い方は少々不愉快に感じられるのではないでしょうか。わかってはいるのですが、他に適切な用語が見つけられないまま使っています。ご容赦願えれば幸いです。
※②海と湖を隔てるのは鶴の長い嘴(くちばし)のように(住吉大社あたりから)北に向かって突きだした上町台地。当時は幅2㎞ほどのこの半島だけが陸地だったのです。
その後千年が経過し、淀川や木津川、大和川が運ぶ土砂の堆積や人為的な干拓によって、海が後退し湖が減少していきます。室町、戦国時代頃には今の半分程度の面積の乾いた土地があらわれていたはずで、そこには人が住み、漁業はもちろん、農耕も行われていました。しかし海は浅く、村落は小規模で、都市が成立するほどには栄えません。むしろ交通の要衝としての立地から、運輸業、商業の中継地点としての機能が盛んな地になっていたようです。※③
やがて川に囲まれたこの上町台地の堅固さ、この国の中心部にあるという立地、及び交通の便の良さという美点に浄土真宗本願寺が目をつけました。 突端部分に堅固な石山(大坂)本願寺を建て、内部には壮大な寺内町を持ちました。大阪の都市化の始まりです。※④
この石山本願寺は、長い戦いの末織田信長に倒され、寺院は破壊されました。その跡地に巨大な城を建築したのが豊臣秀吉です。彼はこの地を「大坂」 と呼ばせ、台地上には家臣団を、西側の低地に町衆(町人)や職人を住まわせ、一大武装商業都市を建設しました。(上町台地の東側は湿地が多く、都市化はあまり進みませんでした。)
※③むしろ南方の堺のような、大型船の入れる深い海を持つ地域が、おおいに発展していたのです。
※④現在の大阪城から南の地域一帯(おそらく清水谷付近)までを寺域として広壮な寺院、いや強固な城郭を築き、その内部に寺内町が生まれました。人口数万人の宗教都市=石山(大坂)本願寺の成立です。この地を「発見」した蓮如、そして本願寺になってからの証如、顕如たちはここから全国の一向宗徒に指令を飛ばしました。
※⑤この七墓は町人のための大規模な墓地です。もちろんこれ以外にごく小規模な墓地は残っていたようです。境内に墓地を持つ寺もまた多いし、武士階級や賤民階級の墓地や埋葬方法は別の問題となります。
なお、江戸時代後半には、この七墓は男女のデートコースになっていたそうです。
いずれにせよ、現在の都市問題の解決の一方法が暗示されているように思います。
※⑥江戸時代の人々の大切な風習「七墓巡り」の実施は今となっては不可能になってしまいました。移転後の墓は信仰の対象ではなく、地霊、地の神と切り離された単なるモニュメントとなりかねません。どれほどの先祖の霊(在るとしてです、もちろん)が、新しい墓地に墓石と共に移動したことでしょう。私は悲観的です。
※⑦たとえば七墓の一つ梅田墓は、大阪駅の北側、JRの操車場跡にありました。梅田の元は<埋田>であって、低湿地を埋め立てて何とか田に変えた場所です。江戸時代に栄えた堂島(蔵屋敷)や曾根崎新地(遊郭)のすぐ近くであるにも関わらず、それはもう寂しい場所だったはず。しかし明治22年にこの墓を大阪府北部に移設することで、ここが一等地にかわる可能性が生まれました。現に付近の地価は高騰したそうです。そういう順序です。かくして梅田北は都市の一部となりました。
さらに付け加えれば、その江戸初期に成立した梅田墓は、元は曽根崎にあった墓地が移設されたものです。曽根崎に遊郭(新地、現在の北新地を含む)を作ることになり、邪魔な墓地は追いやられたのでした。これは相当乱暴な移転であったようで、明治から後に鉄道駅が次々に建設されたとき、土中から墓石や仏像などが次々に発見されたそうです。その名残は、阪急梅田駅の紀伊国屋書店のすぐ近くにたたずむ北向き地蔵にみることができます。この地蔵も土中から発掘されたのでした。移設先の梅田墓地(再開発著しい北ヤード近辺)の方を向くよう、北向きに建てられたと言われています。
繰り返しますが、都市は自分の体内に生産性の低い不良債権を持ちたくないのです。
※⑧『大坂のスラムと盛り場』を著した加藤政洋氏によって、このあたりの経緯が解明されました。私は加藤氏の解説をかいつまんで書いているだけです。
※⑨この付近西成区は、近世までは海が内陸まで入り込んでいた場所だったので、鳶田は地名から消えたものの、他に曳舟(ひきふね)、西浜、津守など、海の匂いが漂ってくるような地名が多数残っています。この付近の浜は、長く京の都の帝に海の幸を届ける役目を負っていたのでした。
※⑩この事実は書籍やネット上では見つけられなかったのですが、南霊園(阿倍野墓地)の管理人のお一人からうかがうことができました。
※⑪この岩崎墓地のすぐそばには、江戸時代の大坂でも一番の賑わいを見せていた松島遊郭がありました。(墓地が無くなった今でも色街でありつづけています。)
大阪梅田の北向き地蔵尊。紀伊国屋書店の西側の横丁をさがしてみてください。
関連記事