ヤマトタケル3:オホドファイナル3
伊吹山中腹から山頂を眺める
3)ヤマトタケルの「生きていた」時代
東海地域の古墳事情にはまったく疎いのだが、沼津市東熊堂に所在する前方後円墳<辻畑(つじばたけ)古墳>の築造は3世紀中頃にまで遡ることができると聞く。
古代有力者の埋葬形式の類似は、特定の政権による支配の広がりの証拠であるという説に従うと、
卑弥呼の死の時期と重なる時期にすでに静岡県東端付近に前方後円墳(60m)が築かれていたということは、弥生末期から古墳初期の
<倭>の範囲は意外に広い。
ヤマトタケルが「相模国造」に焼き殺されそうになった焼津(やいづ)の地はその沼津より西側だから、ヤマトタケルが卑弥呼以後の人物である限り、「相模国造」の陰謀は<侵略者への抵抗>ではなく<反乱>であると考えられる。つまり現在の静岡県の範囲はそれ以前から
<倭>の守備範囲であったことになる。仮定に仮定を重ねて恐縮だが。
であるなら、ヤマトタケルが一人であれ複数であれ、その物語が描いた時代は『宋書』に見る倭王武の上表文が書かれた頃より前の事績の物語伝承であるように思う。ヤマトタケルの英雄潭は、倭王武の上表文中の「昔から、祖禰(そでい)みずから甲冑を着て、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)にいとまがなかった。東は毛人をを征すること55国。西は衆夷を服すること66国。」という記述内容に呼応すると思えるからだ。さらに前方後円墳について書いた先述の推測と重ね合わせれば、「祖禰」の活動の後半時期と考えるのが妥当だろう。
(あたりまえのことをゆっくり地歩を固めております)
上表文が宋に届いた時期は5世紀後半(478年)のことであるから、ヤマトタケルの活動時期は4世紀頃、さらに絞ればその前半としておこう。
倭王武が定説通り雄略天皇(オオハツセノワカタケル)であろうとなかろうとここではあまり支障がない。
『記紀』による父王景行天皇在位年代もここでは無視する。
以上の叙述の順序を簡単に図式化すると、
3世紀前半 卑弥呼時代(位置未定)
↓
3世紀後半 ヤマトによる支配の確立と急速な拡大
(前方後円墳の広がり)
↓
4世紀 ヤマトによる東西平定
(支配の固定→反乱の鎮圧※ヤマトタケル
→さらに東への拡大)
↓
4世紀〜5世紀 強力な倭国の完成と活発な外交/対外進出
(超大型古墳の時代/倭の五王時代)
↓
6世紀前半 継体/欽明王朝の出現
仮定を積み重ねているに過ぎないし、後でこの図式の一部を自ら覆すつもりなのだが、この小項ではさしあたってこの程度に整理しておく。
牛買道から伊吹山を遠望する。ここはもう琵琶湖に近い。ヤマトタケルはここまではたどりつけなかった。そしてここはすでに息長氏の領域だ。
4)ヤマト(倭、大和)とオハリ(尾張)
この項目についての詳述は、ヤマトタケル以外の別のテーマの中で行う予定だ。
ここでは、ヤマトタケルの行動に絞っていくつかの問題設定やアイデアを書くにとどめる。
*ヤマトタケルにとって、本意ではない東国の平定作業は緊張の連続だったろうが、ここ尾張の地では何事もおこらず、ミヤズヒメという女性を娶ってテンション高く幸せそうだ。
*尾張に神剣を置いて伊吹に向かうのも、尾張の地に心を許している証拠だともいえる。
*以上のことから、4世紀にはすでに、この尾張の地は本拠領土として倭と一体化していると見たい。
*それゆえに草那芸剣はこのあとも尾張に留め置かれた。天照大神の威光が完全に及んでいたのだと考えたい。
*つまり尾張は倭なのだ。ここまでは倭の本体なのだ。
*剣は東夷への防御としてここに置く必要があったのだ。
5)ヤマトタケル最期の旅
*ヤマトタケルは伊吹山で病を得て、自分を歓迎しない父王の治めるヤマトに向かおうとしてこと切れるが、その歩んだ(歩もうとした)ルートは、古来ヤマトとオハリを結ぶ最も重要な街道として位置づけられていたにちがいない。
*もちろん遥か後の時代の壬申の乱の折に、大海人皇子が往復した道とかなり重なるはずだ。
*先学の知見を活用させていただきながら、以下の地図でその推定ルートを示したい。特に『古代の道』武部健一著 にはいつもながら大いにお世話になった。
赤押しピンは、『記』に記載の地名〜ヤマトタケル最期の旅〜の推測地点。(異説がある場合は私が決定)
赤ピンは、ヤマトタケルが生きていれば通ったであろう道。(一部は奈良時代の東海道に従ったが、私の推測が多数ある。)
青押しピンは伊吹山山麓。
青ピンは景行天皇の日代宮。
緑ピンは熱田神宮。ミヤズヒメの居宅からそれほど離れていないものとしての目安。
ピン類が表示されない場合、東へ移動してみてください。
より大きな地図で ヤマトタケル最期の旅 を表示
緑ピンの尾張から青押しピンの伊吹山までは近い距離とは言えず、ましてヤマトへの帰り道ではない。
なぜヤマトタケルは北西伊吹山に向かったのか。
4世紀前半の物語ヤマトタケルの行動に絞った叙述はいったんここで終了。
白鳥となった彼について言及したいが暇がない。
しかしこのあと何度か登場させなければならない。
生きていればヤマトタケルの旅もそろそろ終着点になったはずの、初瀬の與喜(よき)神社。この磐座(いわくら)は、その当時からここにあったに違いない。
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