2011年08月14日
「豊饒をもたらす響き 銅鐸」展:銅鐸について
当日用意された子供のためのワークブック表紙。同じ絵が特別展正面に展示されているのですが…
大阪府立弥生文化博物館の特別展
「豊饒をもたらす響き 銅鐸」を観覧してきました。
しばらく銅鐸(どうたく=鐸とは中国語で鐘のこと)の勉強から遠ざかっていたわたしには、近年の発掘と研究の成果とを一覧できる企画でしたので、なかなか刺激的でした。
これを良いきっかけとして、以下、少々銅鐸という謎の多い青銅器について私見を述べたいと思います。
などとあいさつのように書いてみましたが、
まずこの特別展に対する苦情をひとこと述べるところから始めます。
なんだか権威主義の匂いを感じましたよ、弥生文化博物館さん。
展示が素人向きではないのです。
この特別展の期間は7月16日から9月11日までとなっています。
まさに夏休みに照準を合わせたかのような企画です。
現に、小学生から高校生までの子供たちが、
わたしの観覧中にも十数人が入室し、熱心にメモをとる様子も見受けられました。
でもきっと、子供たちには理解困難だったはずです。
説明書きが専門用語満載で混乱し、説明のポイントがうまくつかめないでしょう。
子供たちに興味をもってもらい、理解へと進んでもらうためには、
銅鐸研究が解明したことの説明以上に、
銅鐸には未解明の「謎」が多いことをまず一目瞭然に示すことが必要なはずです。
そんな謎の例をあげます。
弥生時代に突然出現したこの(のちに銅鐸と呼ばれる)道具は、
弥生時代の終わりとともに突然姿を消し、使われなくなる、ということ。
数百年のちの日本人は、その存在すら忘れてしまっていたということ。
出土される地域に偏りがあるということ。
以前よりも発見範囲が拡大し、いわゆる「銅鐸文化圏」説は捨てられつつあるようですが、
それでも出雲、阿波、紀伊、近江、摂津など発見が多い地域と、
九州や関東など発見が少ない地域との偏りははっきりしていること。
(その発見例のうち、近畿とその周縁のものを中心にした展示であるという明確な説明も必要)
用途が未解明であるということ。
入口正面には、なかなかキャッチーで刺激的な想像図(漫画)が書かれていて、これは(疑問点はあるものの)よかったのですが、
まるでこの絵を隠すかのように銅鐸が展示され、子供たちの興味をそぎます。
展示会のタイトルにもあったように、もとは「豊かな自然の恵み」を神に祈るための祭具=楽器であることを示す目的で企画されたのでしょうが、
コーナーごと、展示物ごとの説明がその目標を説明する文になっていません。
専門的な銅鐸の形状変化を子供たちが学んで楽しいでしょうか。
銅鐸の多くは、故意に土の中に埋められた状態で発見されること。
その地点は、近年は遺跡=つまり弥生人の日常生活の場=での発見も見られますが、多くは丘陵地などの住居跡や水田跡から離れた場所に偏っていること。
他には同様な埋められ方をした道具は見つかっていないこと。
その埋め方にも(横倒しでヒレを上下にするなど)一定の方法論が見られること。
出土した地味な色の銅鐸が本来の色ではなく、
錫の含有量などにもよりますが、たとえば黄金色に輝いていたと思われること。
青銅器製作には高度な技術が必要なため、
近畿では河内地方の製作集団が製造した銅鐸が流布して使用されていたと思われること。
流水紋と呼ばれる模様や、
鹿や鳥など動物のようす、人々の生活の様子などが描かれた絵が描かれていること。
これらの「謎」を総合して推理すると、
弥生時代だけに、一定地域だけに、
豊かな実り=食生活を祈るため、
人々は限られた専門家が作ったこの銅鐸と言う輝く楽器を求め、
特別な道具として扱い、
一度は地表上で使用し(または繰り返し使用し)、
その後地中の特別な場所に丁寧に埋め(または繰り返し埋め)、
弥生時代が終わるとともに、その理由はわからないが、人々はその習慣(または信仰)を急速に失ってしまった
〜
という推定結論が必然的に導かれるはずなのですが、
その道筋が明確に示されていないのです。
入り口に見えにくく展示されている絵だけでそれを把握しろ、というのは子供たちには酷でしょう。
誤解があればいけませんので、補足しておきますと、
上記の「謎」のほとんどに関しては、展示の中で触れられているのです。
合計分量としては充実した展示内容になっています。
ですから、わたしのこの文を読んで、
学校の宿題の参考にしてくれてもだいじょうぶです、子供たち。(笑)
ただ、このような小さな展示会を、
しかも夏休期間に企画するならば、
もっとわかりやすくおもしろい企画の方法があるでしょう?と申し上げているのです。
上記のような基本的な道筋を工夫して示した上で、
時代による銅鐸の変化という枝葉を見せるべきですね。
たとえば、佐原真氏による銅鐸の吊り手の厚みや形状に時代的推移が見られる、というテーゼは、
銅鐸考古学研究史上きわめて重要な発見ですが、
それを詳しく説明することよりももっと大切な博物館の使命は、
その研究成果に立脚して、
吊り手が薄くなっていくことにつれて楽器でなくなっていったのはなぜか、
なぜ楽器でなくなっても良かったのか、
という推理を子供たちが自由にできるようにしていく条件整備です。
そういうことです。
注文が長くなりました、
続いてわたし自身の銅鐸の謎に向かうアタックを開始します。
良い子はここから先は(読むのはいいけど)真似しちゃだめだよ。
おっちゃんの好き放題のアイデアばかりだからね。
高校生の頃でしたか、わたしには銅鐸との鮮烈な出会いがありました。
阪神間のある美術館に、母に誘われて「銅鐸展」を見に行ったのですが、
その会場には銅鐸を鳴らした音が時折流されていたのです。
楽器であったことにも衝撃を受けたのですが、
かぼそく、しかし良く通る「こーーん」という妙なる音は、
今もわたしの耳に残っています。
弥生びとが、この音を聴いていたのだと気がついたとたん、
わたしはたちまちタイムスリップしてしまったのでした。
その後、大羽弘道さんの『銅鐸の謎』という書物に出会いました。
弥生時代の遺物であるはずの銅鐸に描かれた絵が、(数百年後の)蘇我一族が大王位についていたことを表していたという、
ある意味トンデモ本のような内容が書かれていたので、
もちろん学会からは完全に黙殺されたのですが、
銅鐸の絵は実は絵文字だったのではないかという彼の仮説は衝撃的なパワーをもってわたしをとらえました。
今回、この「豊饒をもたらす響き 銅鐸」展では音は再現されておらず、絵について大胆な仮説は提供されないのですが、
三度目のショックがわたしを襲いました。
それは、なぜいままで気付かなかったのだろう、という初歩的な見落としです。
銅鐸の身に描かれた流水紋のことです。
まるで水の流れのように見えるのでこの名がついたのですが、
この図柄はそのものズバリ、豊かな水を示しているのではありませんか?
そう思いついたきっかけは、
展示45号「大阪府下田遺跡/扁平紐式新段階 4区袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸」でした。
やや時代が下る、粗製で小型な銅鐸です。(流水紋の有無は確認できません。)
下の写真は当日購入した図録を写真撮影したものです。出土状況の写真です。
田の水路脇のわずかに小高い部分に埋められている状態だそうです。
赤銅色に輝いた状態を保って発見されました。
新品の10円玉と同じ色、という説明が秀逸でした。
これを見たわたしは、つい数日前まで旅していたインドネシアバリ島の田園風景を思い出しました。
そこでは、田を所有するファミリーごとに一基、石製のほこらを建て、水を守らせているというガイドさんの説明がありました。
確かに、それらの田に水が引かれている最初の地点近くのわずかに小高い場所にそれぞれほこらは建っています。
下に、わたしが撮影した写真を掲載します。写真の腕がわるいのですが、このほこらが守っている田は、写真にはほとんど写っていない、左側の一段低い位置の田になります。
別の地域の田の写真ですが、この方がわかりやすいかもしれません。
地表、地中の違いはありますが、
下田遺跡の銅鐸は、バリと同じ目的でまつられ埋められたのではないでしょうか。
一言で言えば、水のカミをまつる祭具として使われたのでしょう。
それならば、銅鐸表面にふつうに見られる流水紋は、文字通り豊かな水(水利)を表していたのでしょう
バリの神様が教えてくれた、とそんな気がふとしました。
とはいえ、銅鐸は農耕祭祀である、とひらめいたわけではありません。
すべての銅鐸が水のカミをまつる道具であったと言い切るわけにはいきません。
先述のように、遺跡で見つかる例は稀であり、
多くは山腹や丘陵の斜面、谷奥などに埋められているからです。
また、銅鐸の表面に描かれた絵は、すべて稲作農耕に直結したものばかりではありません。
高床倉庫や脱穀をする人などの絵は、いかにも弥生の農村を想起させますが、
鹿やカマキリ、大型の鳥の絵がよく描かれていますし、
イノシシを狩る様子やヒトが争う様子、舟に乗る様子など、狩猟採集民族の絵としても通用する図柄もたくさんあります。
前掲の図録より
また、流水紋と同様、銅鐸の身にふつうに描かれている鋸葉紋(きょしもん)は、
樹木を示すかのような三角形の図案の連続です。
これは森を示しているようにわたしには見えます。
例証とその探究がまだまだ不十分であることはわかっていますが、
学術論文ではないこの文のレベルでは、
これらの証拠から、一定の結論を引き出す飛躍を許して頂きましょう。
わたしの、現時点での、<銅鐸の用途>としての結論は以下のようになります。
まさにこの特別展のタイトルが示すように、銅鐸祭祀の狙いは「豊饒」でした。
ただし、決して農村(水田)からの恵みのみを示しているわけではありません。
むしろ山と森の豊かさを願ってまつられました。
なぜなら、水も獣も鳥も山から湧いて生まれるからです。
近畿周辺の弥生集落は、たとえば河内や和泉のそれが顕著に示すように、稲作だけに頼って営まれてはおらず、
多分に縄文式(と我々が感じてしまう)の狩猟採集が併存して営まれていたからです。
そこで彼らは、森の豊かさを祈り、
森の中心地にこの銅鐸を埋置したのです。
年に一度は掘り返し、
ムラの人々の祈念を浴びせ込める儀式を済ませた上で、
再び地中に埋めたのではないかと、わたしは考えています。
稲作農耕に多く依存して暮らす地域では、銅鐸の価値が、
つまり豊かな森を祈る必要が相対的に低かったので、
銅鐸をまつる習慣は続かなかったのではないでしょうか。
ところが弥生時代の進行につれ、その近畿周辺の森の開発が進み、
材木の供給地と化していき、
ムラの水田耕作への依存度が高まるようになると、
近畿周辺のムラにおいても、次第に銅鐸の重要性が減っていきました。
銅鐸をまつる一要因であった<水>だけを特化させていくようになり、
バリ島のそれのように、
一時は水田の水利を守るために埋置されたのですが、
ムラでは農村共同体として統一された他の祭祀が生まれ、
銅鐸は本来の目的を失って行き、
埋まられたまま忘れ去られていったのではないでしょうか。
ここでは楽器としての役割について言及できませんでした。
(わたしは揺すって鳴らしたのでもなく、叩いて鳴らしたのでもないと考えています。)
銅鐸をくりかえし埋め戻したのだろうとする根拠を示す暇もありません。
銅鐸を生産していた工人たちの正体についても書きたいところです。
ただ、今、わたしが強調したいのは、
現在の歴史学は、銅鐸の表面の模様や図柄の意味をやや軽視しているのではないかということ、
同じような飾りは土器にもよく見受けられます。
その行為の真の意味を理解するためには、
考古学よりむしろ民族学、民俗学的なアプローチが必要ではないかと考えていること、でした。
以上です。
Posted by gadogadojp at 20:00│Comments(0)
│歴史
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。