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2016年10月21日

大阪近代史フィールドワーク:1 「はじめに、日本の近代」

大阪近代史フィールドワーク:1 「はじめに、日本の近代」


大阪近代史フィールドワーク:1 「はじめに、日本の近代」

阿倍野の霊園の迎え仏とハルカス



わたしが大阪府下に住んでから40年を超えました。
でもその間、勤務地が大阪市内だった期間は5年あまり。
大阪市の歴史は古代・中世よりも近世・近代に厚みが感じられますので、
古い時代に偏りがちだったわたしの興味関心が大阪市域に向けられることは少なかったのです。
とはいえ、古代日本列島の歴史を追求していくと、
否応なく朝鮮・琉球との関連を考察せねばなりません。
そして現代もなお残る差別の問題が歴史に根ざしたものであることもまたまちがいのないところです。
さらに、苛烈な差別は都会でこそ顕著となります。(後述)
そういうところから、わたしの大阪(市域)近代史の勉強が始まりました。

幸いにして、教育関係の皆さんにディープな大阪を案内する機会に何度も恵まれました。
できるだけ現場・現地主義を貫きたいわたしにとって、ディープな大阪を歩くことはそのまま大阪の近代史を学び、伝えるフィールドワークとなりました。

今日から10数回にわたり、拙い文章を連載する形になりますが、これはそのフィールドワークの際の解説文が元になっています。

わたしには多くの先達がいます。
リアルにお会いした方もおられますが、書物に、またネット上にもたくさん。
たとえば<のぶログ>さんというブログにはたいへんお世話になりました。

研究者ではないわたしは、これらの皆さんの成果をいただいて、わたしの歴史観というものさしで統合を試みることしかできません。
可能な限りの先達の出典は註釈などで記載していますが、洩れやミスもあろうかと思います。
ご指摘いただければ幸いです。


先日、沖縄高江に派遣されている大阪府警機動隊員の暴言(「土人」「シナ人」)がニュースとしてとびこんできました。
そしてその暴言を擁護する松井一郎大阪府知事の発言。
続いて鶴保庸介沖縄相の「間違いという立場にない」発言。

日本という国家のしくみの本質が多重の差別構造にあり、その「底辺」の一つが沖縄であることをまざまざと見せつけた、権力者・利権者側の一連の言動の見本市でした。

その差別構造の歴史的根っこは、まずは近代日本の成立時にさかのぼることができます。
文中にも載せた1903年の大阪の人類館「事件」を思い出さざるを得ないことが残念でたまりません。
100年たってもなにも変わっていないのです、この「国家」は。


ややかたくるしい文章かもしれませんが、どうかお読みください。
わたしの文章が、ほんのわずかでもその構造の解明・理解に役立つようにと願ってやみません。


以下本文です。




大阪近代史フィールドワーク:1 「はじめに、日本の近代」

沖縄の斎場御嶽(セイファーウタキ)





1)はじめに


1879年3月、日本国は琉球王尚泰(しょうたい)を首里城から追い出し、東京に強制連行して琉球の植民地化を完成し、呼び名も琉球から沖縄へと変えました。「琉球処分」です。

それから137年、琉球の人々の受けてきた苦難と差別の歴史は今や解消し、沖縄に残る人も沖縄を出た人も、日本人と同等の条件の中でくらしているでしょうか。

1910年8月、日本国は韓国併合条約の締結によって韓国(=朝鮮)という国号を消し去って日本国領土とし、その植民地化を完成させました。

それから106年、朝鮮の人々の受けてきた苦難と差別の歴史は今や解消し、日本で暮らす朝鮮人は日本人と同格に平等にくらしているでしょうか。




明治維新によって成立した日本国は、西欧列強に負けじと近代国家建設をめざします。殖産興業、富国強兵をスローガンにして。が、それは<帝国主義国の仲間入り>、または(はじめ)追いつき、(後に)追い越せ、という<親分衆への横入り>に他なりませんでした。

その後の日本国は不平等条約を解消し、その国力は何百倍にも拡大し、軍備はふくれあがり、大日本帝国は中国のようなアジアの大国、米英など先輩の帝国主義国を相手に戦いを挑むまでに「成長」しました。しかしその「成長」を達成するために多くの人々を犠牲にしました。

その犠牲者として目立つのは、上で見た琉球人や朝鮮人、そして台湾人や満州人、そしてアイヌ人などの、本来「外国人」であった人々です。彼ら彼女らは日本の民になることを強要されました。ただし最下層の国民として。彼らの多くは劣悪な労働条件で働かされ、多くのものを奪われ続けました。※①

さてそれなら、近代日本の帝国主義的発展は「外国人」にだけその犠牲を強いたのでしょうか。
もちろん違います。ここまでは前置きの前置きです。

日本国は、はじめから植民地を持っていたわけではありません。ですからまずその初期にはその領土内で犠牲者を見つけなければなりませんでした。農業人口を減少させ、かわりに工場労働者を増やします。農村を縮小させ、工場が立ち並ぶ都会を増やします。こうして政策的に余剰人口と都会を生み出し、殖産興業・富国強兵路線を突っ走ったのでした。農村に残った人も、都会に出た人も犠牲者でした。
今回のフィールドワークでは、このような近代化に伴う「日本列島」内のひずみ、格差や差別について、見ていきます。


21世紀の今日、すべての「日本人」は同じ条件の下で暮らしているでしょうか。いえ、せめて個人として同じスタート地点から競争に参加できているでしょうか。憲法が保障する、門地や出自、性別などによる、「努力ではどうにもならない」違いによる差別は受けていないでしょうか。

格差や差別というひずみ、矛盾は、どこよりも都市部で顕著となります。なぜなら、大国になろうと走り出した国家にとって、都市とその周辺こそがエンジン部分だったからです。騒音も汚臭も熱も汚れも故障も、そのエンジン部分に集中します。かつての大阪は、首都圏と共に、日本の近代化を推し進めた巨大なエンジンでした。商業はもとより、工業地帯としても首都圏と肩を並べていましたから。

今回のフィールドワークは、この国内の格差や差別が西日本で最も顕著に顕れ、集中していた地域をたずね、そのほんの一端を学ぼうと思います。西成区を中心とし、浪速区、阿倍野区にまたがる現在の大阪市南部はまさにそういうところでしたから、まさにそういうところを歩いてみたいと思います。



※①土地、経済力、労働力は言うに及ばず、本名、言語、文化、性の自由、伝統、独立心、自尊心、そして時には命まで奪われました。また、日本の工場で働くなどはまれだったものの、パラオ、グアム、フィリッピン、インドネシア、マレーシアなど「大東亜共栄圏」の民衆も似たような犠牲を短期間ながら払いました。例えばインドネシアでは、この間に三百万人を超す犠牲者がでました。もちろん直接・間接に日本国の責任です。賠償を済ませたとは言え、いま友好的でいてくれることは驚くべき事かもしれません。
現在は相手方の受け止め方がいろいろで、ご承知の通り日本との政治的関係も濃淡様々ですが、村上春樹氏が言う「相手が許すまで謝り続けるのが人の道だ」という発言は、私にはしごく真っ当に聞こえます。さらにアイヌなど北方の先住民と琉球人にいたっては、その後も日本国籍であり続けたため、「外国人に対する賠償」の対象にすらならなかったことを忘れがちです。(もっとも、東京や大阪の大空襲によって亡くなった日本人の民間人にも何ら補償ができていない我が国ですが)


続く



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