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2008年07月28日

梅雨の須磨:六平の思い出


文芸ジャンルにしていますけれど、内容はほとんど思い出話です。
そのおつもりでお読みください。



gadogadoには俳句や川柳の才能がまったくありません。

「イキモノに 生まれたからには 旅をする」gadogado
「くにざかい その先の麦は メリケン粉」gadogado
「あぶら照り それでも鳴くのか あぶら蝉」gadogado

ね?この程度です(爆)。

ところが、私の親類縁者には、たくさんの短詩作者が見つかります。

たとえば私のパートナーは川柳をつくります。
またその両親は、高齢をものともせずに共に俳人として吟行を重ねています。
いずれ、ネット上で公開してくださるようお願いしてみようと思っています。

梅雨の須磨:六平の思い出

          些景

gadogadoの父方の祖父は『些景』(さけい)と号し、その凛と冴えた作風が私は好きでした。
些景の句は私の手許にはありませんが、いずれ収集してみたいと思っています。
記憶の中の句を一句。(誤りがあるかも)

「凩の月をしたたか鏡にす」
   些景



梅雨の須磨:六平の思い出

          つね子

私の母も拙い句を創作していました。
しかしその句を紹介しようものなら、あの世から化けてでてきそうです。でもまあ一句だけなら。

「ほのぼのと 生かされており 梅の香に」  
    つね子
〜綾部の梅林にて



梅雨の須磨:六平の思い出

           六平

今日の話題の主は、その母の父、つまりgadogadoの母方の祖父。
号は「六平」(ろっぺい)。
小河六平です。

今日は、私の記憶の中の六平を書いてみたいと思いました。
ただ、私の記憶boxの容量は小さく、出力は乏しく、内部にはクモの巣が張っていることは、近親者ならだれもが知っていることです(開き直ってどうする)。


彼は私が幼い頃に亡くなりました。
須磨に住んでいた彼は、ある年の6月11日に突然倒れました。60代の若さで他界したのです。
翌日には、西宮市仁川の私たちの家を久しぶりにたずねてくる予定だったように記憶しています。

彼の家業は麹(こうじ)屋です。屋号は松屋。
昔は、酒や味醂だけでなく、各家庭で自家製の「手前味噌」を作る際には、麹を購入していました。その販売店に卸す製造業者です。
麹をかもす室(むろ)は、私の子どもの頃はまだ壊されず残っていました。
とっくにその役割を終えた室でしたが、
あたりには麹の匂いがまだそこはかとなく漂っていて、
私はおかげで日本酒好きになりました(笑)。

しかし祖父はどうやら世話好きで、あるいは仕切り好きで、
あるいは正義派で、(真実はいつも薮の中)
そのいずれかのために田舎政治家の道を選びました。
神戸市会議員でした。
しかし利権を漁ることのない、いわゆる井戸塀政治家だったため、財産のほとんどを失ったようです。
私が母や叔母たちと須磨の海辺の住宅街や高台など散歩していると、
「ここはもとは小河の土地だったのよ」
「ここも売ってしまったのよ」と何度か聞かされました。

私がものごころがついた頃には、祖父はもう議員から足を洗っていて、
須磨漁業組合の組合長とか、須磨水族館(現須磨水族園)の初代館長とか、須磨寺の檀家総代とかの、いわゆる名誉職に就くだけののんびりした公的生活をしていて、
その精力は、彼が創刊した「須磨千鳥」という俳誌に集中して向けられていたように聞いています。

雑誌名の由来は、おなじみ
「淡路島 かよふ千鳥の鳴くこゑに 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守」
源兼昌『金葉集』
からなのでしょうか。

  沖縄の千鳥はちゅいちゅいと鳴きますね。
   関守がきいた須磨の千鳥の鳴き声はどんなだったのでしょう。


母に言わせれば、祖父の俳句の腕前は「????????」
…とするなら、
根っからの世話好きの血こそが、その活動のエネルギー源ではなかったかと推測しています。

1961年、彼が心臓発作で亡くなった時、私たち孫の顔も少しは脳裏をかすめたかもしれませんが、それよりも「須磨千鳥」でやり残したことをリストアップしながら息をひきとったのではないかと、これも推測しています。

梅雨の須磨:六平の思い出

 六平句碑 (撮影:ⓒ閑乙)

須磨寺境内には、祖父の句碑が建てられています。

「海の色 幾変りして 梅雨の須磨」
  六平


この句碑の除幕の紐は私が引きました。
なぜ私だったのか。
当日出席できた六平の孫たちの中で、私が一番年上だったのか。
それとも、私が一番かわいがられていたのか。

今となってはよくわかりません。
かわいがられていたことは確かなのですが、
私は祖父にきつく叱られた経験もあります。

梅雨の須磨:六平の思い出

  少年gadogado


小学校にあがる直前、少年gadogadoは有馬温泉で一句ひねりました。
「名ぼくの もみじひらりと おちにけり」少年gadogado

これを母が祖父に見せました。(かってなことせんといてか)
祖父は優しく指導してくれました。(そやけどよけいなおせわや)
『落ちるというより、舞いながら散るのではないか、もみじの葉は』

そこで
「名木の もみじひらひら ちりにけり」
 少年gadogado

(しゃあない、なおしといたろ)

このやりとりは少年gadogadoのプライドを傷つけたのでしょう、
小学校に通い始めたら、友達がいないこともあって、休み時間はずっと俳句を考えていました。
あまりに思いつめたのでしょう、
私の脳の中で小狡いすり替えが行われました。
有名な俳句を自作だと思い込んだのです。
後になってそうとわかるのですが、当時は完璧に思い込んだのです。
いい句ができた。どや、これで?じいちゃん。
よせばいいのに見せたのです、自分から。
たぶん手紙を書いたのです。

じいちゃんに次に会ったのはGWなのか夏休みなのか、
一対一できっちりと叱られました。
でも叱られながら、黙ってうなずきながら少年gadogadoは内心でつぶやいていました。
(ほんとにじぶんでつくったのに…)


その後も祖父とは疎遠になりもせず、変わらずよく遊んでもらいました。
何年かたって、祖父は亡くなりました。
私は祖父のお骨を少し食べました。
その初盆のときでしょうか、仏壇から(人生でただ一回の)人魂が飛びたつのを見ました。

盗作事件は、その後、私の潜在意識に深く抑圧されて忘れ去られていたのですが、
小学校を卒業するまでのある日、
私に突然フラッシュバックがおこりました。

小学校一年のある日、木造校舎の玄関口の外側。運動場へと続く光の当たる通路の掲示板に、
一枚のポスターが貼られていて、そのポスターには著名な俳句がいくつか載せられており、
その内の一句に吸い寄せられてじっと見つめるかつての自分自身の姿が見えたのです。

私はほんとうに盗作したのだと悟りました。

その句はいまだに思い出せません。
高浜虚子の「桐一葉…」であったような気もしますが、定かではなく、まだどこか心の奥に秘匿されているようです。

盗作事件のあと、祖父は母にこう言ったそうです。
『あのこは、おおものになるだろうが、もしかすると、わるもののおやだまになるかもしれんぞ」

gadogadoが幸い、大人物にも親玉にもならずにすんだのは、この台詞とこの事件のおかげだと自認しております。
俳句や川柳の才能の無さも、きっとそのせいでしょう。
と、ひさしぶりに小狡い自己正当化を済ませておいて(笑)、今日の思い出話は終わりです。




梅雨の須磨:六平の思い出

 梅雨の須磨の海:句の「幾変わる海の色」は、もちろんこういう鈍色一色ではなく、もっとダイナミックで多様なイメージなのですが

梅雨の須磨:六平の思い出

 夏の須磨の海:上と同じ場所からの海の表情がまったくちがいます

アップしてすぐ、奥様から注文がつきました。
他のサイトで書いたあの川柳をなぜ書かないのかと。
あなたの人となりがよくわかるから書けと。
しかたない書き込みましょう(なんでこんなじこしょうかいみたいなんせなあかんのや)、もう一句。

「忘年会 となりの席が あいたまま」



追伸2
小河六平が家業の「松屋」にて復刻した磯馴味噌が、このたび尾崎さん、谷川さんという気鋭のフロンティア実業家で、かつ須磨を愛して下さるお二人の手で復活しました。美味しいですよ。
その件を書いた記事はこちらです→「磯馴味噌:須磨の古くて新しい名物」




Posted by gadogadojp at 13:53│Comments(4)文芸/文学
この記事へのコメント
なんとなくこちらのブログにも迷い込みました。
モダンで美しいお母様、立派な政治家で俳人だったお祖父様。
やはり名士の一族だったのですね。
gadogadoさんのルーツを拝見し、子供の頃の須磨がオーバーラップして
懐かしさ全開のかすみやまです。
gadogado少年は、お写真によれば「文句言う太郎?」(ごめんなさい)
面ざしに少々理屈っぽさと早熟さが滲んでいるような感じです。
あぁ、懐かしい須磨。
藤田ガーデンのぼんぼりが温かく心の中に灯っています。
Posted by かすみやま at 2011年04月26日 20:18
かすみやまさん、恐縮です。
ただ、
すでにこの世を去った三人をことあげして供養代わりにと思って書いた文でもありますから、
いいことばかり書いているだけです(笑)。

「文句言う太郎?」〜いやあほんとにおっしゃる通り、的を得ています(爆笑)。でも日頃はサービス精神に富んだ優しく可愛いボクだったのです、はずです(汗)。
Posted by gadogadojpgadogadojp at 2011年04月28日 20:21
実は小河六平さんのことを調べていてgadogadoさんのブログに流れてきました。
小河六平さんに御縁の有る方は須磨にまだお住まいでしょうか?
生前の御様子を御存知の方はおられますでしょうか?
Posted by futoQ at 2011年07月06日 18:52
futoQ さん、こんなところまでお越し下さいましたか。
祖父に関心を持ってくださってありがたいです。

「小河一族」はすでに本拠地須磨から離れて散らばりました。
一組近辺に住んではいますが、若い世代なので、六平を直接には知りません。閉店した洋菓子店「グリンデル」の店主です。

生前の様子を語れるのは、やはり六平の子供ですね。
次女が加古川に、五女が王子公園で暮らしています。
他の四人は亡くなりました。
特に次女はよく記憶していると思います。
ただ最近は墓参などを除いてはめったに須磨に来ることもなくなりました。
もし叔母に連絡が必要でしたら、私のメルアドにお知らせください。
oishisasayuri3@sea.sannet.ne.jp
(一日に一回チェックするかどうかなので迅速なお返事はできませんが)
Posted by gadogadojpgadogadojp at 2011年07月07日 20:44
 
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