大阪近代史フィールドワーク:4 「釜ヶ崎エレジー」

gadogadojp

2016年10月26日 16:30

大阪近代史フィールドワーク:4 「釜ヶ崎エレジー」



この写真は、石垣島の北端で陶芸窯『太朗窯』を営む堀井太朗さんの作品です。世界を旅した彼ですが、一時期、釜ヶ崎に通って写真を撮り続けていました。私は彼のこの作品が大好きで、かつての釜ヶ崎の熱さが伝わるかと思い、掲載許可をいただきました。稼ぎを終えて風呂に入り、どて焼きをつまみながら飲む酒に勝るものはありません。※①


浪人〜大学一回生の頃、生活費を補うために東京や南大阪で時々現場仕事をしました。東京ではすべて日雇いでした。

道路工事、建築現場の片付け・・釘を踏み抜いて破傷風に怯えたり、ダンプに積んだ砂の上に乗ってその高さに怯んだり。
早朝の代々木の公園に立って手配師を待つ立ちん坊も数回。でも、釜ヶ崎で働いた経験はありません。

社会人になってから、たまに釜ヶ崎に足を踏み入れるようになりました。炊き出しの手伝いや布団の差し入れに何度か行きましたが、当時はたいへんな数の労務者のおっちゃんたちで賑わっていました。
おっちゃんにとって、今日は仕事にありつけるかどうかは生死に関わる凌(しの)ぎでした。
仕事にアブれたら、ビールどころか宿代も払えず、冬の公園で警官に蹴られたり凍死したりするかもしれませんから。

その後もこの妙に落ち着く町に時々ぶらっと遊びにいきましたが、高度成長期が終わると立ちん坊仕事も激減。
今はおっちゃんたちもすっかり高齢化し、正直、もうエネルギーをもらえる町ではなくなりました。
ドヤ(簡易宿泊所)に住む年寄りが、暴力団に年金をかすめとられたとかのニュースを聞くたびに切なくなります。

つい先日も、酔って道に倒れて血を流す一人のおっちゃんを誰も助けませんでした。私をふくめて。
以前の私なら、怪我した場所にハンカチを巻いて隣にしゃがみ、何を言ってるかわからないつぶやきをしばらく聞くくらいはしたかもしれませんのに。

イキがよくて、権威に強くて無鉄砲で時には荒れ、でも実は優しいおっちゃんたちはもう、ジャンジャン横丁で串カツを食べるような贅沢はできていないのでしょうか。

おっちゃんのリゾートだった隣町新世界は観光地になり、
BBQとカラオケを楽しんだ天王寺公園は大阪市に追われ、
ドヤもちょっぴり垢抜けて海外旅行者が宿泊するようになりました。
釜ヶ崎も私も変わりました。




堀井太朗さんの写真をもう一枚。公園で炊き出しを待つ行列でしょうか。ブログのスペースの関係で写真の端が隠れるかもしれません。申し訳ないことです。パソコンの矢印キーで左右にずらして見てください。






釜ヶ崎を歩くにあたり、上の地図をざっと眺めてください。

まず、東西を貫くJR関西本線と、南北に通じる南海本線を意識してください。
二つの鉄道が交差するところにはそれぞれ「新今宮駅」があり、外に出ずに乗り換えができます。
(他に地下鉄が二線、阪堺電車の路面電車が二線通っていますから紛らわしいのですが、とにかく上記の二つの軌道をいつも意識すると迷わずに済みます。)

赤い線が上町台地の西端。
黒線で囲ったエリアが新世界。
ピンク塗りが飛田新地。

水色塗りが旧鳶田墓地と刑場の想定地。
緑線で囲ったエリアが広義の釜ヶ崎。
グレー塗りが狭義の釜ヶ崎。(かつての字釜ヶ崎)

ただし、こういうパソコン作業が得意ではありませんので、あくまでだいたいの目安ですし、現実には渾然一体となっていて明確な区別はできません。

この項で扱うエリアは上記リストの赤字部分です。
同じような街並みですから、その範囲をどのように歩いてもかまいません。
現在の町名で言うと、萩之茶屋(はぎのちゃや)1、2丁目や太子(たいし)が中心です。

ただ、西成警察署※②、こどもの里※③、三角公園※④、西成(あいりん)労働福祉センターの建物※⑤、の四箇所は見ていただきたいところ。
下の地図でそれぞれ赤いマーカーをつけています。
あとは、水色塗りの旧鳶田墓地地域にある簡易宿泊所(ドヤ)街、いえ現在は外国人バックパッカー向けホテル街といってもよいエリアも歩いていただければ。
これは下の地図で黒いマークをつけています。

このエリアを歩くときは、飛田新地と同じように、人物にカメラ・スマホを向けないように注意してください。
写されるのがいやな人は、他の地域より多いと思いますので。

標高が2.5〜3mくらいのひじょうに平坦な場所なので歩きやすいのですが、高低差ファンには物足りないかもしれません。
また、激しい空襲にも合ったので、戦前のおもかげはほぼ消えてしまっています。







上で書いたように、広義の釜ヶ崎(通称カマ)はこの付近一帯を指すのですが、狭義の釜ヶ崎は、南海新今宮駅南東方向の一角です。
「釜ヶ崎」の名称の起源はよくわかりませんが、江戸時代から明治にかけ、地名として使われていました。
中世のころ、ここがまだ<ながはま>の一部だったころ、釜のような形にえぐれた入江があったのではないかと私は勝手に想像しています。

明治時代の地名は、今宮村大字(おおあざ)今宮小字(こあざ)釜ヶ崎。
その後今宮町になったあと釜ヶ崎の地名は消え、1925年大阪市に編入され、いまは正式には西成区萩之茶屋一丁目になっています。
戦後1966年、行政・メディアによって「愛隣(あいりん)地区」と名付けられましたが、あまり定着せず、釜ヶ崎またはカマの愛称はいまだに通用しています。



「木賃宿街」ただし東京の浅草の写真:出典不明



この釜ヶ崎に木賃宿(ドヤ)が見られるようになったのは1904年。続々と建つようになったのは、1910年前後と思われます。
新世界地区で内国勧業博覧会が開かれたのは1903年。その開催までに名護町(現在の日本橋)の「貧民一掃」が達成し、「貧民」の行き先がここ釜ヶ崎だったとするなら、おかしなタイムラグがあります。
(別稿「スラムクリアランス」参照:この時点でまだ投稿していません。)

実際に名護町の貧民たちが大量に強制的な追い立てをくらったのは、どうやら1906,7年以降のことのようです。日本橋三丁目から南(現在のでんでんタウン)を拡幅して市電を通す事業(1908年開通)との深い関わりが推測されます。※⑥ 
警察(浪速署)はこの時期、「貧民窟中より罪悪の分子を除去」「無頼漢狩」「貧民窟の掃蕩」などと新聞に踊った文字で明らかなように、相当の覚悟(=暴力)でスラム民を市域外に追い出したようです。

相前後して発せられた大阪府の規則(条例)では、木賃宿許可制を強化し、しかもその許可地を今宮村などに限定しました。
つまり、1906年以降名護町(日本橋)を追い出された貧しい人々は、行政の作った新たなスラム候補地釜ヶ崎に住み着かざるをえなくなったのではないでしょうか。※⑦



1997年6月8日・釜ヶ崎」さんより借用




戦後になると、すっかり日雇い労働者の町としてのイメージが定着しました。全国から労働者が集まりました。
仕事があふれんばかりにあった時代で、町は活気に満ちていました。
出稼ぎの場合もありますが、この地で所帯を構えたおっちゃん、おばちゃんたちもたくさんいました。

私が大阪市内に仕事に行くために南海電車に乗っていた1970年代後半でも、車窓から見えるあいりん労働福祉センター(総合センター)には、ベージュやグレーの作業服のにいちゃん、おっちゃんたちがひしめき合っているのが見えていました。

こうして、関西の港が、ビルが、住宅が、道路が、鉄道が、空港が、上下水道が、川が作られ、今日の都市インフラが成り立っていったのです。
ピンハネ(搾取(さくしゅ))率50~70パーセントくらいで懸命に働いていたおっちゃんたちが、大阪や神戸や京都を作り上げたのです。※⑧



釜ヶ崎三角公園でのまちゅこけさんライブ


そんな釜ヶ崎はいまは変貌しました。
高度成長の終焉、そしてバブルの崩壊を経て、いまは寄せ場(あいりん労働福祉センター)1階で立ちん坊をしても、その日の求人は激減しているはず。
この町では、生活保護や年金で暮らす方々の比率が日増しに増えているのです。
ある調査によれば、このエリアの生活保護受給者のうち、大阪市域出身者は20%に満たないといいます。
ある意味再び釜ヶ崎に人が集まってきたと言えないこともありません。
ただし仕事を求めてではなく、日本中の都市が切り捨ててきた人々がなんとか生き延びていくために。


私はほんとうはここで、いまの釜ヶ崎住民のリアルな窮状をリアルな筆致で紹介すべきところですが、釜ヶ崎労働者や住民への支援活動に参加していない私にはそれはできません。
けれども、大枠・社会構造としては理解できているつもりです。

改めて申します。
都会という怪物は、墓地や遊廓と同様に、貧民や肉体労働者の町をその体内深い場所に置きたくはないのです。
怪物の体が大きくなれば、それらは周縁(ふち)に追いやられてしまいます。
自分を作ってくれた人々を追い出す、それが都市です。都市行政です。
そこには必ず利権がからみます。

いま大阪市が、日本の都市が、「恩人」の西成区、釜ヶ崎地区をどう処遇しようとしているのか、
そこを注視しておくべきだと申し上げておきます。



『じゃりン子チエ』:はるき悦巳さんの傑作漫画。チエちゃん、ヒラメちゃん、テツ、小鉄たちが住んでいたのもまさにこの界隈でした。


「釜ヶ崎人情」というヒット曲をご存知ですか。

 ♫『釜ヶ崎人情』  1967(昭和42年)
作詞:もず唱平 作曲三山敏  
歌:三音(みつね)英次、藤田まこと他   

 立ちん坊人生味なもの 通天閣さえ立ちん坊さ 
 だれに遠慮がいるものか じんわり待って出直そう
 身の上話にオチがつき ここまで落ちたというけれど 
 根性まる出しまる裸 義理も人情もドヤもある
 命があったら死にはせぬ あくせくせんでものんびりと 
 七分五厘で生きられる 人はスラムというけれど
 ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎




この三音栄次さんの渋い声が響くレコードは当時60万枚も売れたそうです。
翌年には岡林信康さんの『山谷(さんや)ブルース』もヒットしました。山谷は東京の釜ヶ崎のようなところ。
東京オリンピック後、大阪万博の前、そして学生運動も元気。

そういう時代、立ちん坊のおっちゃんの元気さや悲哀にも
スポットライトが浴びせられたことがあったのでした。※⑨



さあ、ちょっぴり足と心が疲れましたね。
新世界で夕飯でも食べますか。
それとも大阪市電に乗って帰りますか、、、
そうそう市電はもう消えてしまったのでした。
でも大阪には市電のおもかげを残す阪堺線路面電車が走っています。
今池駅から堺にでも向かいますか。


     
 在りし日の大阪市電。




※①堀井太朗さんの写真集が刊行されました。タイトルは『ディアインディア』。インドの写真です。不思議な魅力に満ちた作品だと思いますので、よろしければぜひおてもとに。「旅行人」から出版されています。

※②まるで要塞のような西成警察署は一見の価値があります。
釜ヶ崎を中心に、西成区ではたくさんの「暴動」(警察側の表現)が起きました。
私の記憶に新しいのは、1990年の第22次西成暴動です。西成署員が暴力団から賄賂を受け取ったというニュースに端を発し、6日間にわたる暴動が起きたのです。
暴動への対処としてこのような建物になりました。

※③こどもの里は、釜ヶ崎で生きるこどもの権利を守るNPO法人です。
この施設を舞台にしたドキュメンタリー映画「さとにきたらええやん」は秀作です。以下予告編をぜひ。


※④三角公園(萩之茶屋南公園):西成警察横の四角公園とともに、支援団体による炊き出しが行われています。また、ライブが開かれることも多い公園です。労働団体の立て看やホームレスの方のテントも目立ちます。

※⑤西成(あいりん)労働福祉センター、または総合センターは、立ちん坊がその日の仕事を見つける場であり、応急の医療が受けられる場であるなど、この街に住む人たちにとって重要な場所になっています。一階の広いスペースをホームレスの方に夜間開放するかどうかで何度も「騒動」が起きました。

※⑥大阪市に市営の路面電車が走っていたのをご存知ですか。最盛期には延長118km(現在の阪神電鉄軌道の2倍以上)に及ぶ、日本第2位の長さでした。すべて廃止されたのが1969年、大阪万博開催の前年です。自動車の通行を阻害する時代遅れな交通手段とされたのですが、惜しいことをしました。世界はいま路面電車の時代です。(ちょっとおおげさ?)

※⑦阿倍野に移動した人々もいて、「新台灣」と呼ばれる「魔窟」を形成した、と書かれた新聞記事もあります。これは現在のハルカスの南側の一角ではないかと思われるのですが、確証はありません。

※⑧現在の福島原発収束作業にたずさわる外国人労働者の場合、ピンハネ率が90%を超えるという暴露が、先日ネットをにぎわしました。派遣会社は30~40%とささやかれています。「奪われる」とはこういうことだと私は思っています。なお、釜ヶ崎にも福島原発関連の求人が来ていました。(ごく最近はどうなのか、調べがついていません。)

※⑨朝日新聞DIGITAL 2010.3.14の記事「もう天国とは歌えんねえ」という記事はこの歌にまつわる事情を書いていて興味深いので、よろしければご覧ください。三音栄次さんは実際に立ちん坊をしておられたそうです。