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2008年12月14日

金山古墳:カフチとヤマト1

古墳の復元作業は意外と進んでいません。

金山古墳:カフチとヤマト1



神戸市の五色塚古墳のように築造当初の姿に復元されたもの。
あるいはこの金山古墳(かなやまこふん)のように、樹木を伐採して輪郭がわかる程度に復元されたもの。

などは、数えるほどしかありません。

所有権や予算の問題だけではなく、
それが果たして「良いことなのか」という議論があるからです。

しかし私のような素人愛好家は、
この古墳のように整備してくれて、なおかつ立ち入りが可能になると、
想像力に視覚が加わって、なんだか強力な武器を手に入れたような気持ちになるのです。
復元を歓迎します。

さて、この金山古墳の位置はというと、河内平野のほぼ南東の隅にあります。
石川の支流千早川流域の微高地の見晴らしの良いポイントです。
(地図を拡大すると微妙に位置がずれていて、申し訳ありませんが。)




これを逆に申せば、この古墳から眺めれば、北西方向には千早川/石川流域の平野が伸びているため、さえぎる山がなく、大阪市内の高層ビル群が見えているということです。
下の写真は、古墳に登って、大阪市内方向を撮影したものです。
たとえば6世紀、「難波宮」近辺で火の手が上がれば、ここからも見えたはずです。

金山古墳:カフチとヤマト1



また、石川流域南部から、水越峠を越えて葛城山東麓に下る街道の要所にあるとも言えます。(地図上の国道309号線がそのルートです。)
このルートはナニハからは遠回りとなり、しかも山越えで険しいため、異国の要人がヤマトにたどりつくために踏破することはなかったでしょうが、直接に奈良盆地南部の御所(ごせ)方面に向かうには、水場も豊富で悪くない選択だったと考えています。

そのような要所を押さえていたこの古墳の主は、どのような立場の人物であったのでしょうか。

築造年代は、早くて6世紀末頃とされています。これは蘇我氏の全盛期〜わかりやすく言えば聖徳太子が活躍を始めたころにあたります。(太子は系図上、蘇我一族の若者であったと推定しておきます。)
形状は双円墳という全国でも珍しい特殊なものです。
さらに、その二つの円墳の両方に石室があります。

金山古墳:カフチとヤマト1

 河南町HPより引用


また一方で、石川流域は、蘇我氏など朝鮮渡来系の氏族たちが制圧/居住していた地域だと考えられています。
北のメインルートである竹内峠越ルートは、明らかに蘇我氏の谷を通ります。

とすれば、
この(おそらく)超モダンな形状の古墳の主は、
ヤマトに至る南ルートの要の地を蘇我氏首長によって任された、
蘇我氏一族であるか、または、
今来(いまき)〜最近の渡来人系氏族〜の長ではなかったか、と、
ここでは推定しておいて、先に進みたいと思います。



この夏、幾日もかけて河内(カフチ)から大和(ヤマト)の古墳時代の遺跡と道をたどりました。
これをもとに、素人の強みを生かして、無茶な推論の旅をしたいと思っています。
まずはこの金山古墳をスタート地点にして、
今後ときおり、シリーズ「カフチとヤマト」を書いていきたいと思います。



金山古墳:カフチとヤマト1




金山古墳
所在 大阪府南河内郡河南町芹生谷(せるたに)
別称 ひさご塚 二子塚

参考資料
wikiの記事から引用

『墳丘の長さ85.8メートル、周濠を含んだ総長約104メートル、南丘直径55.4メートル・高さ9.4メートル、北丘直径38.6メートル・高さ6.8メートルの双円墳(瓢形双円墳)。

北丘は2段に、南丘は3段に築かれており、周囲には堀がめぐらされている。また、各段の間と墳頂部の平坦な部分には敷石が敷かれていた。 北丘の横穴式石室内の玄室と羨道には、凝灰岩をくり抜いて作られた家形石棺が2個置かれている。合葬では通常、玄室に石棺を並べるが、金山古墳では、玄室に先に納められていた石棺が巨大であったため、合葬する際にもう1個の石棺をやむなく羨道部に置いたと解されている。なお、石棺の実物大模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されている。』



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Posted by gadogadojp at 17:00│Comments(0)歴史
 
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