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2012年01月17日

2012年1月17日は

冷たい雨が降っています。

東北の地震と大津波に生活を奪われた人々、
原子力発電所事故から避難した人々、
の未来が見えない今年は、
神戸の記憶だけにとらわれてはいけない、
と、
腹を決めようとしている午前零時半です。

今年の1月17日は、
避けないぞ、逃げないぞ、閉じこもらないぞ。  

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2011年11月27日

教育基本条例(案)全文

大阪府知事選における最大の争点(であるはずの)教育基本条例案を全文掲載します。
赤い文字は私のコメントです。時間不足で一部にしか対応できておりませんが、府民すべてが、ぜひ一度目を通した上で各自で判断していただきたいと願っています。

ちなみに、私はこの条例案は悪法だと考えています。




 大阪府教育基本条例案 (平成23年10月5日・大阪府議会提出版)   
目次
 前文
 第1章 目的及び基本理念(第1条―第4条)
 第2章 各教育関係者の役割分担(第5条―第11 条)
 第3章 教育行政に対する政治の関与(第12 条・第13 条)
 第4章 校長及び副校長の人事(第14条―第17条)
 第5章 教員の人事(第18条―第20条)
   第1節 任用(第18条)
   第2節 人事評価(第19条)
   第3節 優れた教員の確保・育成(第20条)
 第6章 懲戒・分限処分に関する運用(第21条―第42条)
   第1節 懲戒処分の手続及び効果(第21条―第26条)
   第2節 分限処分の手続及び効果(第27条―第34条)
   第3節 職務命令違反に対する処分の指針(第35条―第38条)
   第4節 組織改廃に基づく分限処分の指針(第39条―第40条)
   第5節 分限免職・分限休職の効果(第41条)
   第6節 適切な処分を行う責務(第42条)
 第7章 学校制度の運用(第43条―第44条)
 第8章 学校の運営(第45条―第47条)
 第9章 最高規範性(第48条)

 附則
 別表1  別表2  別表3  別表4  別表5  別表6


前文
  大阪府における教育行政は、選挙を通じて民意を代表する議会及び首長と、教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校教職員を含む)が、法令に従ってともに役割を担い、協力し、補完し合うことによって初めて理想的に実現されうるものである。教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかった結果生じた不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。
  教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法第14 条に規定されているとおり、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の影響力を行使できないということではない。

上記は真っ赤な嘘です。これまで現場教員は、教育内容に対する政治(行政)の介入干渉に散々悩まされてきました。
その是非については両論ありますが、混乱を招いた例を一つ挙げるなら、
ゆとり教育、がその代表でしょう。
いわゆるゆとり教育は、学習指導要領という強制力の有る指針によって実現しました。
学習指導要領、つまり何をどのように授業するかの教育内容は、常に文部科学省と時の政府によって決められ、強制されてきました。まさに政治が決定してきたのです。
大阪維新の会の主張は、その権限を府にもよこせ、と言っているに過ぎないのです。


  地方教育行政の組織及び運営に関する法律では、第23条及び第24条において、教育委員会と地方公共団体の長の職務権限の分担を規定し、教育委員会に広範な職務権限を与えている一方、第25条においては、教育委員会及び地方公共団体の長は、事務の管理・執行に当たって、「条例」に基づかなければならない旨を定めている。すなわち、議会が条例制定を通じて、教育行政に関与し、民意を反映することは、禁じられているどころか、法律上も明らかに予定されているのである。
  大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取り残されるのは自明である。
  我々は、我が国の未来を担う子どもたちの適切な教育を受ける権利に対して責任を負うことを自覚し、この条例を制定する。

「子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現」するために、という誰も反対しない一般論を提示した上で、その原因が「国際競争から取り残され」るような今日の大阪府の教育にある、という話の進め方は、極端な論理の飛躍であり、ただつごうのよい断片を並べているだけのお粗末な文章です。
現場の教員は、受験のための小論文の添削に忙殺されるのですが、このような文を教え子が書いて持って来たら、ただちに<論理の飛躍>を指摘し、書き直しを指示しなくてはなりません。
大阪府で「子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現」できていないとすれば、その原因はたとえば英語教育や社会科の授業の不備ではありません。なぜなら学習指導要領に沿った授業を強制するのは国家政府だからです。少人数制の授業が実現できないのは、地方自治体が教員を増やさないからです。

教員の力が不足していることを否定はしません。しかし彼らはスーパーマンではありません。
教員の80%はきまじめな人種です。能力や条件以上に生徒のために全精力を傾け、疲弊しています。
朝食はもちろん、夕食すら満足に与えられない生徒が多数存在する大阪。
タイルや壁ががはげおちた環境で小さな机だけがぎっしり並んだ教室。
コンピュータと電源、電話のコードが散乱して足の踏み場も無い職員室。
教員と生徒がゆっくり面談する場所がない校舎。
インターネットで世界とつながろうとしても、LANの接続と解除で授業の4分の1が費やされる設備。
カネの問題ですべてが解決できるはずはありませんが、カネが極端に不足していることは事実。
その不足を、教員と生徒、そして家庭の忍耐力、自助努力でなんとかやりくりして疲れ切っているのが大阪の教育の現状です。



第1章 目的及び基本理念
(目的)
第1条 この条例は、教育基本法(平成18年法律第120号)、学校教育法(昭和22年法律第26号)、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162 号。以下「地方教育行政法」という。)その他国の法令が定める教育目標を大阪府(以下「府」という。)において十分に達成するべく、これらの法令を補完することを目的とする。

(基本理念)
第2条 府における教育行政は、教育基本法第2条に掲げる目標のほか、次の各号に掲げる具体的な教育理念に従ったものでなければならない。
  一 個人の自由とともに規範意識を重んじる人材を育てること
  二 個人の権利とともに義務を重んじる人材を育てること
  三 他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること
  四  不正を許さず、弱者を助ける勇気と思いやりを持ち、自らが社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材を育てること
  五 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土愛に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と
    発展に寄与する人材を育てること
  六 グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で
    競争力の高い人材を育てること

多くの学校で、一般庶民からは不可思議に見えるような校則を制定し、それを生徒に遵守させることに血眼になっています。
これは教員が感じる恐怖の現れでもありますが、同時に「規範意識」と「義務」を強制的に身につけさせようとしているからに他なりません。大阪維新の会は、この不毛さを抜本的に見直そうとはせず、さらに助長しようとしています。

四項と五項との間に、肝心な事項の欠落があります。それは、個人としての他者の存在や人権の尊重です。こういう意図的な飛躍こそ、大阪維新の会の体質であり本質だと思えます。近隣の他人の尊厳を無視した「グローバル」な「競争力」が、いったいどの世界で通用するというのでしょう。
この文の本音は「競争」にあります。大阪府の若者にまず「競争力」を身につけさそうというのです。その考えの下、橋下元知事は(一部エリート校を除き)公立高校を冷遇してきました。しかし競争は勝者と敗者を生み出すゲームです。「他国の尊重」「国際社会の平和」との矛盾を解決する論理を示していただきたいものです。


(児童生徒の教育を受ける権利)
第3条 府内におけるすべての児童生徒は、等しく教育を受ける権利を有する。
2 府は、自立支援が必要な児童生徒、学習障がい及びこれに類似する学習上の困難を有する児童生徒が等しく教育を受けるために必要な措置を講ずるよう、努めなければならない。

(定義)
第4条 この条例において「校長」とは、府立高等学校及び府立特別支援学校の校長をいう。
2 この条例において「副校長」とは、前項に定める学校における、学校教育法に定める副校長及び教頭をいう。
3 この条例において「教員」とは、第1項に定める学校に勤務する教育公務員特例法(昭和24年法律第1号)第2条第2項に定める教員(副校長を除く。)をいう。
4 この条例において「職員」とは、第1項に定める学校に勤務する事務職員、技術職員その他の職員であって、校長、副校長、教員以外の者をいう。
5 前4項の規定に関わらず、第6章における「校長」「副校長」「教員」「職員」とは、府立学校及び府内の市町村立学校のうち、学校教育法に定める小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校(指定都市の府費負担教職員その他府教育委員会に任命権の属しない者が勤務する学校を除く。)の校長、副校長、教員及び職員をいう。


第2章 各教育関係者の役割分担
(基本指針)
第5条  府における教育行政は、教育委員会の独立性という名目のもと、政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう、選挙を通じて民意を代表する議会及び知事と、府教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校の教職員を含む)が、地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない。
2  児童生徒の保護者も、部活動をはじめとする学校運営に参加するなど、主体的に積極的な役割を果たすよう努めなければならない。
3  府内における小中学校教育は、市町村が次の各号に掲げる事項について主体的な役割を担い、府は補完的役割を担うべきものとする。
 一 小中学校の設置、管理及び廃止
 二 小中学校の教員の人事
 三 小中学校の校長、副校長、教員及び職員の研修
 四 小中学校の組織編制、運営
4  前項の理念を達成するため、府は、地方教育行政法第55条第1項に基づき、府内における市(但し、指定都市を除く。)町村立小中学校の府費負担教職員に対する府教育委員会の人事権その他の権限を、自治体としての規模や能力にも配慮しながら、できる限り当該市町村に移譲するよう努めなければならない。
5  府及び府教育委員会は、府内の市町村及び市町村教育委員会に対し、地方教育行政法第55条の2第2項に基づき、小中学校教育の体制が本条例の趣旨を反映したものとなるよう、必要な助言、情報の提供その他の援助を行う。
6  府及び府教育委員会が前項の助言、情報の提供その他の援助をするに当たっては、当該市町村及び市町村教育委員会の自主性を尊重しなければならない。

(知事)
第6条 知事は、府教育委員を任命する権限のみならず、地方教育行政法の定める範囲において、府内の学校における教育環境を整備する一般的権限を有する。
2  知事は、府教育委員会との協議を経て、高等学校教育において府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を設定する。

(府教育委員会)
第7条 府教育委員会は、前条第2項において知事が設定した目標を実現するため、具体的な教育内容を盛り込んだ指針を作成し、校長に提示する。
2 府教育委員会は、常に情報公開に努めるものとし、府内の小中学校における学力調査テストの結果について、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開するとともに、府独自の学力テストを実施し、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開しなければならない。

(校長及び副校長)
第8条 校長は、前条第1項の提示した指針をもとに、学校の具体的・定量的な目標を設定したうえ、当該目標の実現に向けて、幅広い裁量を持って学校運営を行う。
2 校長は、学校運営を行うに当たり、具体的計画を提示して、府教育委員会に当該計画を実行するための予算を要求することができる。
3 校長は、第1項の目標について、学校教育法施行規則に定めるガイドラインに基づき、自己評価を行い、第11条に定める学校協議会の評価も加え、これをホームページ等で公表するとともに府教育委員会に報告する。
4 校長は、第11条に定める学校運営協議会との協議を経て、採択すべき教科書を推薦することができる。
5 府教育委員会は、前項の校長の推薦を尊重して、教科書を採択しなければならない。
6 府教育委員会が、前項の規定にかかわらず、校長の推薦する教科書を採択しないときには、府教育委員会はその理由を付して議会に報告しなければならない。
7 府立高等学校及び府立特別支援学校には、副校長を置かなければならない。
8 副校長は、校長を補佐し、その命を受けて学校運営を行う。
9 校長及び副校長は、学校運営を行うに当たり、教員及び職員に対して職務命令を発する権限を有し、教員及び職員はこれに従う義務を負う。
10 副校長は、校長に事故があるときはその職務を代理し、校長が欠けたときはその職務を行う。この場合において、副校長が2人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理する。

(教員及び職員)
第9条 教員は、自己の崇高な使命を深く自覚するとともに、組織の一員という自覚を持ち、教育委員会の決定、校長の職務命令に従うとともに、校長の運営指針にも服さなければならない。
2 教員は、児童生徒により良い教育を提供するため、充実した教育内容、授業技術の習得など、絶えず研鑽に励まなければならない。
3 職員は、組織の一員として、教育委員会の決定、校長の職務命令に従うとともに、校長の運営方針にも服し、学校運営の一翼を担わなければならない。

現行憲法の下の教職公務員は、憲法の理念に沿って働き、教育を行うことが求められています。
現行憲法の理念の大きな柱は、言うまでもなく国民主権、つまり民主主義です。
自由闊達な議論こそ民主主義の基本です。
国際的に通用する人間力を達成するには、それは不可欠な資質になります。
職員を校長の命令で手足のように動かすことはその民主主義の精神と真逆です。
民主主義的環境の中で教員ははじめて生徒に民主主義教育を、ひいては国際的に通用するための教育行うことができるのです。

多くの教員は疲れた羊です。
民主主義の理念のために学習指導要領で保障されない教育活動を行えるほどの勇気もなく、余裕もありません。

私は確信を持って言います。
日本人に国際的に通用する力がないのだとすれば、それは学校教育において、徹底的に議論して真理を究める、あるいは妥協点をさぐる活動がまったく行われなかったせいである、と。
そしてその営みを後押しする政治力が(ここ数十年は)皆無であったからだと。

そういう考えからは、この条例案は自己矛盾の極みなのです。
教員を束縛と桎梏から解放させましょう。
そうすれば、まじめな彼らは生徒にゆったりと向き合い、全力で理想を追求するでしょう。


以下時間不足で今回はコメントできません。機会があればいずれ補足します。

(保護者)
第10条 保護者は、学校の運営に主体的に参画し、より良い教育の実現に貢献するよう努めなければならない。
2 保護者は、教育委員会、学校、校長、副校長、教員及び職員に対し、社会通念上不当な態様で要求等をしてはならない。
3 保護者は、学校教育の前提として、家庭において、児童生徒に対し、生活のために必要な社会常識及び基本的生活習慣を身に付けさせる教育を行わなければならない。

(学校協議会)
第11条 府立高等学校及び府立特別支援学校に、保護者及び教育関係者(当該学校の教員及び職員を除く。)の中から校長が委嘱した委員で構成される学校協議会を設置しなければならない。
2 学校協議会は、校長の求める事項について協議し、学校運営に関し意見交換や提言を行うほか、次に掲げる権限を有する。
  (1)  第5条2項及び第46条に定める部活動等の運営に対する助言
  (2)  第8条第3項に定める校長の評価
  (3)  第8条第4項に定める教科書の推薦に関する協議
  (4)  第15条第3項に定める学校評価
  (5)  第19条第2項に定める教員評価


第3章 教育行政に対する政治の関与
(教育委員の罷免)
第12条 知事は、第6条第2項に定める目標を、規則により定める。
2 府教育委員会の委員が前項に定める規則に違反して目標を実現する責務を果たさない場合、第6章の規定に基づき懲戒若しくは分限処分又はその手続をすべきであるにも関わらずこれを怠った場合等、その職務上の義務を果たしていないと認められる場合、地方教育行政法第7条第1項に定める罷免事由に該当するものとする。

(議会の関与)
第13条 府教育委員会が、第6条第2項に定める目標に従っていない場合、第6章の規定に基づき懲戒若しくは分限処分又はその手続をすべきであるにも関わらずこれを怠った場合等、その事務の管理及び執行を怠っているおそれがあると認められる場合、議会は府教育委員会に対し、報告を求めることができる。
2 議会において、府教育委員会がその事務の管理及び執行を怠っていると議決した場合、知事は府教育委員会に対して是正を行うよう要請するものとする。


第4章 校長及び副校長の人事
(任用)
第14条 府教育委員会は、校長及び副校長を任用するときは、一般職の任期付職員の採用等に関する条例(平成14年大阪府条例第86 号)又は職員の任用に関する規則(昭和29年大阪府人事会規則第1号)に定める選考により任期又は在職期間を定めて行う。ただし、再任を妨げない。
2 府教育委員会は、前項の任用に当たり、年齢、職歴、教員としての在職期間等を問わず、マネジメント能力(組織を通じて運営方針を有効に実施させる能力)の高さを基準として、教員を含む意欲ある多様な人材を積極的に登用しなければならない。
3 府教育委員会は、校長の任用に当たっては、外部有識者による面接を実施し、その結果を尊重しなければならない。
4 府教育委員会は、副校長の任用に当たっては、外部有識者による面接の結果に加えて、校長の意見も尊重しなければならない。
5 前2項に定める外部有識者の採用に際しては、産業界、法曹界、労働界、教育界など広く人材を求めなければならない。

(人事評価)
第15条 府教育委員会は、設定された目標に照らして、校長の業績に基づき人事評価を行う。
2 副校長の人事評価は、校長が行うものとする。
3 校長及び副校長の人事評価に当たっては、第11条に定める学校協議会の学校評価の結果も参照しなければならない。

(兼職規制の緩和)
第16条 校長及び副校長の兼職については、教育に支障が生じない範囲で柔軟に認めるよう、教育公務員特例法第17条第1項を弾力的に運用するものとする。

(校長及び副校長の給与)
第17 条 校長及び副校長の給与は、一般職の任期付職員の採用等に関する条例による。


第5章 教員の人事
第1節 任用
(任用)
第18条 教員の任用に当たっては、教育委員会は校長の意向を尊重しなければならない。
2 教育委員会は、学校をまたぐ教員の人事異動に当たっては、両学校の校長の意見を尊重しなければならない。。
3 教育委員会は、前2項の校長の意向に反する人事を行った場合、その旨及び具体的理由を議会に対して報告しなければならない。

第2節 人事評価
(人事評価)
第19条 校長は、授業・生活指導・学校運営等への貢献を基準に、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする5段階評価で行い、概ね次に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
  (1)  S   5パーセント
  (2)  A   20 パーセント
  (3)  B   60 パーセント
  (4)  C   10 パーセント
  (5)  D   5パーセント
2 教員の評価に当たっては、学校協議会による教員評価の結果も参照しなければならない。
3 府教育委員会は、第1項に定める校長による人事評価の結果を尊重しつつ、学校間の格差にも配慮して、教員及び職員の人事評価を行う。 人事評価はSを最上位とする5段階評価で行い、概ね第1項に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
4 府教育委員会は、前項のの人事評価の結果を直近の給与及び任免に適切に反映しなければならない。
5 府教育委員会は、第3項の人事評価を教員及び職員の直近の期末手当及び勤勉手当に適切に反映して、明確な差異が生じるように措置を講じなければならない。

第3節 優れた教員の確保・育成
(優れた教員の確保・育成)
第20条 府教育委員会及び校長は、優れた教員の確保・育成を考慮して、適切な人事制度の構築及び運用を行わなければならない。
2 教員の兼職については、教育に支障が生じない範囲で柔軟に認めるよう、教育公務員特例法第17条第1項を弾力的に運用するものとする。


第6章 懲戒・分限処分に関する運用
第1節 懲戒処分の手続き及び効果
(総則)
第21条 高い倫理意識が求められる校長、副校長、教員及び職員(以下この章で「教員等」という。)の違法行為や非行等(以下「非違行為」という。)に対し、府教育委員会が懲戒処分をするに際して、手続の透明性を高め、より一層厳正に行うことで、教員等の不祥事を未然に防止し、府民の教育行政に対する信頼を確保することを目的として、地方公務員法(昭和25年法律第261号。以下「法」という。)第29条第4項に基づき、教員等の懲戒の手続及び効果を定める。

(懲戒処分の指針)
第22条 法第29条第1項の規定により教員等に対し懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分(以下「懲戒処分」という。)をするには、次の各号に掲げる事由のほか、日頃の勤務態度、非違行為後の対応等も含め総合的に考慮して行う。
  (1) 非違行為の動機、態様及び結果
  (2) 故意若しくは過失又は悪質性の程度
  (3) 非違行為を行った教員等の職責及び当該職責と非違行為の関係
  (4) 他の教員等及び社会に与える影響
  (5) 上司等への迅速な報告の有無
  (6) 過去の非違行為の有無
2 府教育委員会は、懲戒処分の可否及び処分内容について、別に条例で定める大阪府人事監察委員会(以下「人事監察委員会」という。)の審査に付し、その結果を尊重し、懲戒処分を行う。
3 府教育委員会は、懲戒処分の対象となる教員等(以下この条及び次条において「当該教員等」という。)に弁明の機会を与えなければならない。
4 懲戒処分は、その旨を記載した書面を当該教員等に交付して行わなければならない。

(懲戒処分の効果)
第23条  戒告は、当該教員等の責任を指摘し、及びその将来を戒めるものとする。
2  減給は、1日以上6月以下の期間において、1月につき、給与月額及び地域手当の月額の合計額の10分の1以下の額を減じて行うものとする。
3  第4条第4項に定めるその他の職員に係る減給は、前項の規定にかかわらず、労働基準法(昭和22年法律第49号)第12条に規定する平均賃金の1日分の2分の1以下の額を減じて行うものとする。ただし、1月間の減給の総額は、その月における給与の総額の10 分の1を超えてはならない。
4  停職の期間は、1日以上1年以下とする。停職者は、教員等としての職を保有するが、職務に従事しない。停職者は、停職の期間中、いかなる給与も支給されない。
5  懲戒処分として免職された府立高等学校及び府立特別支援学校の教員等の給与、退職手当その他の給与及びその教員等が公務のため旅行中である場合の旅費については、職員の給与に関する条例(昭和40年大阪府条例第35号)及び職員の退職手当に関する条例(昭和40年大阪府条例第4号)、職員の期末手当及び勤勉手当に関する条例(昭和39年大阪府条例第45条)、職員の旅費に関する条例(昭和40年大阪府条例第37号)による。
6  懲戒処分として免職された府費負担教職員の教員等の給与、退職年金又は退職一時金、退職手当その他の給与及びその職員が公務のため旅行中である場合の旅費については、職員の給与に関する条例、府費負担教職員退職年金及び退職一時金条例、職員の退職手当に関する条例、職員の期末手当及び勤勉手当に関する条例、職員の旅費に関する条例による。

第24条  別表第1の中欄に掲げる教員等に対する標準的な懲戒処分は、別表第1の右欄に掲げるとおりとする。
2  別表第1にない非違行為については、別表第1との比較衡量のうえ、処分するものとする。

(監督責任)
第25条  部下の教員等に対して通常指導すべき義務を負う教員等、副校長に対して指導すべき義務を負う校長及び校長に対して指導すべき義務を負う教育委員会(以下義務を負うべき者を総称して「管理監督者」という。)は、その義務を怠ったと認められる場合、その指導すべき者の非違行為に対する監督責任を負う。
2  前項の教員等に対する懲戒処分の可否及び具体的な処分の決定等に当たっては、次の各号に掲げる事項を総合的に考慮して行う
    (1) 非違行為を行った部下の教員等の処分内容
    (2) 部下の教員等の非違行為の公務性
    (3) 管理監督者として通常行うべき指導等の有無
    (4) 管理監督者の関与の程度
    (5) 府の組織及び社会に与えた影響
3  部下の教員等が懲戒処分を受けた場合、管理監督者としての指導監督を適切に行わなかった教員等の標準的な懲戒処分は、戒告又は減給とする。
4  部下の教員等の非違行為を知得したにもかかわらず、その事実を隠ぺいし、又は黙認した管理監督者は、減給又は停職若しくは免職とする。

(公表基準)
第26条  懲戒処分を行った場合は、府のホームページ等で公開するとともに、報道機関への資料提供等の方法により、原則として次に掲げる内容を速やかに公表する。
    (1) 処分年月日
    (2) 学校種
    (3) 所属及び氏名
    (4) 職階及び職種
    (5) 年齢
    (6) 処分内容
    (7) 処分理由の概要
2  当該教員等の氏名の公表が当該教員等の勤務校等に在籍する児童生徒に特に影響が及ぶと認められる場合、教員等の非違行為による被害者が公表しないように求める場合、又は公表により被害者が特定される可能性が大きいなど、被害者の人権に十分配慮する必要があると認められる場合等は、当該教員等の所属及び氏名を公表しないことができる。

第2節 分限処分の手続き及び効果
(総則)
第27条  一定の事由により職責を果たすことができない教員等に対して、府教育委員会が分限処分を行うに際して、手続の透明性を高め、厳正かつ適切に対応することにより、府民の教育行政に対する信頼を高めるとともに、公務の適正かつ能率的な運営を確保することを目的として、法28条第3項に基づき、分限処分の手続及び効果を定める。

(分限処分の指針)
第28条 府教育委員会は、別表第2の中欄に掲げる教員等に対して、別表第2の右欄に掲げる分限処分を行わなければならない。
2 前項に規定する処分に当たっては、当該教員等が現に就いている職に求められる役割を果たすことが困難で、下位の職であれば良好な職務遂行が期待できるときは、職務遂行能力等に応じた職に降任させるものとし、現に就いている職だけでなく、教員等として通常要求される勤務実績や適格性が欠けているときは、分限免職とする。
3 教員等の意に反する降任、免職又は休職の処分は、その旨を記載した書面を当該教員等に交付して行わなければならない。
4 別表第3に掲げる教員等は、別表第2第1項に掲げる教員等に該当する可能性のあるものとして、次条及び第30条に基づく対応を開始しなければならない。
5 別表第4に掲げる教員等は、別表第2第2項に掲げる教員等に該当する可能性のあるものとして、次条及び第32条に基づく対応を開始しなければならない。
6 別表第5に掲げる教員は、別表第2第3項に掲げる教員に該当する可能性のあるものとして、次条及び第31条に基づく対応を開始しなければならない。
7 別表第6に掲げる教員等は、別表第2第4項に掲げる教員等に該当する可能性のあるものとして、次条及び第30条に基づく対応を開始しなければならない。
8 別表第3から別表第6までに規定する教員等は、別表第2各項に掲げる教員等に該当する可能性のあるものの例示であって、これに類する教員等も分限の対象とすることを妨げるものではない。

(府立学校の教員等に対する分限処分前の措置)
第29条 校長及び府教育委員会は、共に連携・協力し、別表第2に掲げる教員等のうち府立学校に勤務する者(以下この条において「対象教員等」という。)への対応について適切に取り組むものとする。
2 校長は次の各号に掲げる役割を担うものとする。
  (1) 対象教員等の勤務実績の改善を図るため又は問題行動を是正させるための注意及び指導の実施
  (2) 対象教員等の担当業務の見直しの検討
  (3) 対象教員等の勤務実績不良の状況や問題行動及び所属における注意、指導等の状況に関する記録及び資料の収集
  (4) 医師への受診の勧奨等対象教員等の健康の保持増進及び安全確保
  (5) 府教育委員会への対象教員等に関する状況の報告
3 府教育委員会は次の各号に掲げる役割を担うものとする。
  (1) 対象教員等の状況の把握
  (2) 校長が行う対象教員等への指導に対する助言及び支援
  (3) 対象教員等に対する面談、指導の実施
  (4) 対象教員等への警告書又は受診命令書の交付
  (5) 対象教員等に対する分限処分の検討

(勤務実績不良、適格性欠如の場合の分限手続き)
第30条 別表第3及び別表第6に掲げる教員等のうち府立学校に勤務する者(以下この条において「対象教員等」という。)への対応は次のとおりとする。
(1) 校長は、対象教員等に対し、勤務実績の改善を図るため又は問題行動を是正させるための注意又は指導を行うとともに、必要に応じて、対象教員等の担当業務の見直しを行うなどして、勤務実績不良等の状態が改善されるよう努める。
(2) 校長は、対象教員等の勤務実績不良等の状況、問題行動、学校現場における注意又は指導等の状況について、記録及び資料の収集を行う。
(3) 府教育委員会は、校長に対して対象教員等の状況の把握に努めるよう指導するとともに、校長が行う対象教員等への指導等に対する助言及び支援を行う。
(4) 校長は、第1項の措置を実施したにもかかわらず、対象教員等の勤務実績不良等の状態が続いている場合には、府教育委員会にその状況を報告する。
(5) 府教育委員会は、校長から報告のあった対象教員等に対して、校長の立会いのもと面談を実施し、勤務実績不良等の内容を確認する。
(6) 前項の面談の結果、勤務実績不良等の状態の改善及び是正が必要と明らかに認められない場合を除き、府教育委員会は、法第28 条第1項の規定に基づく分限処分が行われる可能性があることを記載した警告書を交付し、指導研修等によりその改善を求めなければならない。
(7) 前項の規定により対象教員等に警告書を交付した場合は、対象教員等に書面により弁明する機会を与えるものとする。
(8) 対象教員等の勤務実績不良等の状態が心身の故障に起因することが疑われる場合、府教育委員会は医師の診断を受けることを促す。この場合において、対象教員等が再三にわたりこれに従わなかったときは、受診命令書を交付して受診を命ずる。
(9) 対象教員等の勤務実績不良等の状態の改善が困難と認められる場合、府教育委員会は、校長と協議の上、指導研修の実施を省略し、又は中止することができる。
(10) 指導研修の実施に当たり、府教育委員会は、校長と協議の上、指導研修計画書を作成する。なお、対象教員等に心身の故障があるときは、必要に応じて、医師の意見を聴き取り、指導研修計画書を作成する。
(11) 指導研修を行う期間(以下「研修期間」という。)は、原則として3月単位とする。ただし、必要に応じて、その期間を延長し、又は短縮することができる。
(12) 府教育委員会は、研修期間中、対象教員等への指導及び研修の状況を記録した指導研修実施記録を作成する。
(13) 府教育委員会は、研修期間終了後に指導研修の効果測定を行う。
(14) 府教育委員会は、指導研修の結果、対象教員等の勤務実績不良等の状態が改善されない場合又は改善が困難と認められる場合は、法第28条第1項第1号又は第3号の規定による分限処分(降任又は免職の処分に限る。)の可否及び処分内容について、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分を行う。
(指導力不足教員の特例)
第31条 別表第5に掲げる教員等のうち府立学校に勤務する者(以下この条において「指導力不足教員」という。)への対応は次のとおりとする。
(1) 校長は、指導力不足教員の指導力不足の状況、問題行動、学校現場における注意又は指導等の状況について、記録及び資料の収集を行う。
(2) 校長は、指導力不足教員の指導力不足の状態が続いている場合には、府教育委員会に意見書を提出する。
(3) 府教育委員会は、校長から意見書の提出があった指導力不足教員に対して、面談を実施し、指導力不足の内容を確認する。
(4) 前項の面談の結果、指導力不足教員に指導力不足の状態が認められる場合、府教育委員会は、指導力不足教員を大阪府教育センターにおいて、半年間の指導研修等によりその改善に努める。
(5) 府教育委員会は、大阪府教育センターにおける指導研修の結果、指導力不足教員の指導力不足等の状態が改善されない場合又は改善が困難と認められる場合は、分限免職の可否及び処分内容について、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分をう。
(心身の故障の場合の分限手続き)
第32条 別表第2第2項に掲げる心身の故障により長期にわたり勤務が困難な教員等のうち府立学校に勤務する者(以下この条において「対象教員等」という。)については、療養に専念することにより、通常の業務に円滑に復帰させることを基本とするが、病気休職の期間が一定期間以上の長期にわたり、今後も通常の職務の遂行に支障があると見込まれる場合は、次のとおり対応する。
(1) 校長は、対象教員等の病気休職期間が2年を超えた場合又は病気休職から復職後、1年以内に再度の病気休職(前回の病気休職と心身の故障の内容が明らかに異なる場合を除く。)となり、その休職期間が通算して3年を超えた場合には、府教育委員会にその状況を報告するものとする。
(2) 府教育委員会は、校長から報告のあった対象教員等に対して、随時、産業医の意見を聞いた上で、校長の立会いのもと面談を実施するなどにより、心身の故障の状況を確認する。
(3) 府教育委員会は、別表第4のいずれかに該当すると見込まれる対象教員等に対して、産業医の意見を聞いた上で、校長の立会いのもと面談を実施し、対象教員等に対して、法第28条第1項第2号に該当するか否かを判断するため、医師2名を指定して受診を促す。この場合において、対象教員等が受診勧奨に従わなかったとき又は一定期間内に受診していないときは、受診命令書を交付して受診を命ずる。
(4) 指定した医師2名のうち、少なくとも1名が将来回復の可能性がない、又は病気休職の期間中には回復の見込みが乏しいとの診断をしなかった場合には、府教育委員会及び校長は、当該教員等及び産業医等と相談の上、円滑な職場復帰に向けた対応等を行う。
(5) 指定した医師2名により、将来回復の可能性のない、又は病気休職の期間中には回復の見込みが乏しい長期の療養を要する疾病のため、職務の遂行に支障がある、又はこれに堪えないとの診断がなされた場合には、府教育委員会は、法第28 条第1項第2号の規定による分限処分(降任又は免職の処分に限る。)の可否及び処分内容について、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分を行う。
(6) 府教育委員会は、第3号及び第31 条第8項の規定により、対象教員等に受診命令書を交付して再三にわたり指定する医師2名の診察を受けることを命令したにもかかわらず、対象教員等がこれに従わない場合には、法第28条第1項第3号の規定による分限処分(免職の処分に限る。)の可否及び処分内容について、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分を行う。
(行方不明の場合の分限手続き)
第33条 校長は、教員等のうち府立学校に勤務する者が行方不明となった場合は、直ちに府教育委員会に報告する。
2 府教育委員会は、当該教員等が意図的に継続して無断で欠勤するなど懲戒事由に該当することが明らかな場合又は行方不明の原因が水難その他の災害等によることが明らかな場合を除き、当該教員等が行方不明となった日から1月を経過した場合、法第28条第1項第3号の規定による分限処分(免職の処分に限る。)の可否及び処分内容について、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分を行う。

(府費負担教職員に対する分限処分の手続き)
第34条 府費負担教職員に対する分限処分の手続は、第27条から前条までの規定に沿って、別に規則で定める。

第3節 職務命令違反に対する処分の手続
(職務命令)
第35条 この節において職務命令とは、職務上の特に重要な命令として書面で行うものをいう。

(職務命令に対する不服の申立て)
第36条 職務命令に不服のある教員等は、当該職務命令のあった日から30日以内に限り不服の申立てを行うことができる。ただし、過去に不服の申立てを行った結果が適正と決定された職務命令と同一の職務命令を除く。
2 府教育委員会は不服の申立てのあった日から30日以内に、職務命令が適正又は不当であるかを決定しなければならない。
3 職務命令が不当であると決定された場合、府教育委員会は、当該職務命令を取り消さなければならない。
4 府費負担教職員については、本条の規定に沿って、市町村教育委員会に不服の申立てを行うものとし、別に府規則で定める。

(職務命令違反に対する処分)
第37条 職務命令に違反した教員等は、戒告又は減給とする。
2 過去に職務命令に違反した教員等が、職務命令に違反した場合の標準的な懲戒処分は、停職とする。
3 前項による停職処分を行ったときは、教員等の所属及び氏名を併せて公表する。ただし、前条に基づく不服の申立てが有効になされており、停職処分が取り消される可能性のある場合は、停職処分が確定したのちに公表を行うものとする。
4 教員等に対して、第2項に基づく停職処分を行ったときは、府教育委員会は、分限処分に係る対応措置として、第30条第6項に基づき警告書の交付及び指導研修を実施し、必要に応じ同条第7項から第14項までに定める措置を実施しなければならない。

(常習的職務命令違反に対する処分)
第38条 前条第4項で規定される指導研修が終了したのちに、5回目の職務命令違反又は同一の職務命令に対する3回目の違反を行った教員等に対する標準的な分限処分は、免職とする。ただし、第36条に規定する不服の申立てが有効になされている場合は、要件に該当することが確定したのちに免職とする。
2 前項の規定は、府教育委員会が教員等を懲戒処分により免職とすることを妨げない。

第4節 組織改廃に基づく分限処分の手続
(組織改廃に基づく分限処分)
第39条 職制若しくは定数の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じたときは、教員等の免職を行う。
2 前項の免職を行うに当たっては、あらかじめ、廃職又は過員を生じる原因となった職制若しくは定数の改廃又は予算の減少に関して、議会の議決又は審議がなければならない。
3 分限免職となる教員等の選定に当たっては、被処分者の勤務成績、勤務年数その他の事実に基づき、公正に判断しなければならない。
4 府教育委員会は前項の判断に際し、配置転換が容易である場合は、配置転換の努力を尽くさなければならない。
5 前項の配置転換の努力に際しては、安易な職種転換をしてはならない。職種転換を行う場合には、外部からの採用と同等の競争環境を確保しなければならない。
6 府教育委員会が教員等をこの条の規定により分限免職する場合は、人事監察委員会の審査に付し、その結果を尊重し、分限処分を行う。
7 この条の規定により教員等を分限免職するときは、あらかじめ、退職手当に関する条例に定める整理退職等の場合の退職として算出される退職手当を支払うことを前提とした定年前希望退職を募らなければならない。
8 分限免職となる教員等が希望する場合は、府に設置された人材バンク又は民間事業者により再就職支援を行わなければならない。

(学校法人化等による分限免職)
第40条 学校法人化等により職制が廃職される場合で、当該職制に所属する教員等が学校法人化等された当該事業に再就職する機会が与えられている場合は、原則として当該職制に所属する教員等を分限免職することができる。

第5節 分限免職・分限休職の効果
(分限免職・分限休職の効果)
第41条 法第28条第1項の規定により分限免職された教員等の給料、退職手当その他の給与及びその職員が公務のため旅行中である場合の旅費については、職員の給与に関する条例、職員の退職手当に関する条例、職員の期末手当及び勤勉手当に関する条例、職員の旅費に関する条例による。
2 法第28条第2項第1号の規定による休職の期間は、引き続き2年をこえない範囲内において、府教育委員会が定める。
3 法第28条第2項第2号の規定による休職の期間は、その事件が裁判所に係属する間とする。
4 休職者は、教員等としての職を保有するが、職務に従事しない。休職の期間中の給料その他の給与については、職員の給与に関する条例、職員の期末手当及び勤勉手当に関する条例による。

第6節 適切な処分を行う責務
(適切な処分を行う責務)
第42条 校長及び府教育委員会は、この章の第1節から第3節の規定に基づく適切な処分を迅速にとらなければならない。
2 前項に違反した場合は、府教育委員会は、議会に報告しなければならない。


第7章 学校制度の運用
(学校区制度の撤廃)
第43条 府立高等学校の通学区域は府内全域とする。

(学校の統廃合)
第44条  府立高等学校のうち、各年度に定められた入学定員(定時制に係る定員を除く。)を入学者数が下回った場合、府教育委員会は当該学校の校長に対し、学校運営の現状及び問題点を報告させるとともに、改善に向けて指導するものとする。
2  前項の指導にも関わらず、当該学校において3年度連続で入学定員を入学者数が下回るとともに、今後も改善の見込みがないと判断する場合には、府教育委員会は当該学校を他の学校と統廃合しなければならない。
3  府教育委員会は、前項の規定を潜脱する目的で、入学定員を設定してはならない。


第8章 学校の運営
(校長による学校運営)
第45条 校長は、学校運営に関する最終的な意思決定を行い、そのすべての責任を負う。

(部活動)
第46条
校長は、部活動については、教員が授業に最大限注力できるよう、保護者の参加・協力の下、個々の教員に過度に依存することなく実施できる環境の整備に努めなければならない。

(児童生徒に対する懲戒)
第47条 校長、副校長及び教員は、教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して、児童生徒に学校教育法第11条に定める懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。
2 府教育委員会は、前項の運用上の基準を定めなければならない。


第9章 最高規範性
(最高規範性)
第48条 この条例は、府の教育に関する条例のうち最高規範となる条例である。


附則
(施行期日)
第1条 この条例の施行期日は、規則で定める。
(経過規定)
第2条 この条例の施行の際に、校長及び副校長の職にある者は、この条例の施行日から当分の間、第14条第1項に規定によらず、その職を保有する。但し、この条例の施行日から遅くとも4年以内に、過半数の校長及び副校長を任期付職員に切り替え、遅くとも8年以内に全ての校長及び副校長を任期付職員に切り替えなければならない。
(条例の廃止)
第3条 この条例の施行に伴い、職員の分限に関する条例(昭和26年大阪府条例第88 号)、職員の懲戒に関する条例(昭和26年大阪府条例第89号)等のこの条例と関係する条例について、施行までの間に、改廃その他必要な措置を講ずる。
(規則への委任)
第4条 この条例の施行に伴い必要な事項については、別に規則で定める。


別表第1 (懲戒処分関係)
1 正当な理由なく10 日以内の間勤務を欠いた教員等 戒告又は減給
2 正当な理由なく11 日以上20 日以内の間勤務を欠いた教員等 減給又は停職
3 正当な理由なく21 日以上の間勤務を欠いた教員等 停職又は免職
4 勤務時間の始め又は終わりに繰り返し勤務を欠いた教員等 戒告
5 病気休暇又は特別休暇について虚偽の申請をした教員等 戒告又は減給
6 前号に掲げる教員等のうち、繰り返し虚偽の申請を行うなど常習性が認められる教員等 停職又は免職
7 勤務時間中に職場を離脱して職務を怠り、公務の運営に支障を生じさせた教員等 戒告又は減給
8 前号に掲げる教員等のうち、繰り返し職場を離脱するなど常習性が認められ、公務の運営に重大な支障を生じさせた教員等 停職又は免職
9 他の教員等に対する暴行により職場の秩序を乱した教員等 減給又は停職
10 他の教員等に対する暴言により職場の秩序を乱した教員等 戒告又は減給
11 法第37条第1項前段の規定に違反して、ストライキ等の争議行為を行い、又は職場の活動能率を低下させる怠業的行為をした教員等 戒告又は減給
12 法第37条第1項後段に規定する違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおった教員等 停職又は免職
13 職務上知ることのできた重要な秘密を漏らし、公務の運営に重大な支障を生じさせた教員等 停職又は免職
14 その他守秘義務が課されている職務上の事柄について、故意に漏らしたと認められる教員等 戒告又は減給
15 職権を濫用して、専らその職務の用以外の用に供する目的で個人情報が記録された文書等を収集し、若しくは職務上知り得た個人情報を流出させた教員等 戒告又は減給
16 府が入札等により行う契約の締結に関し、その職務に反し、事業者その他の者に談合をそそのかし、事業者その他の者に予定価格等の入札等に関する秘密を教示し、又はその他の方法により入札等の公正を害すべき行為を行った教員等 停職又は免職
17 第16条及び第20条第2項に反して、教育活動に支障を生じた兼業を行った教員等 戒告又は減給
18 暴行若しくは脅迫を用い、又は職場における上司、部下等の関係に基づく影響力を用いることにより、強いて性的関係を結び、若しくはわいせつな行為をした教員等 停職又は免職
19 相手の意に反することを認識した上で、わいせつな発言、性的な内容の電話、性的な内容の手紙若しくは電子メールの送付、身体的接触、つきまとい等の性的な言動(以下「性的な言動」という。)を行った教員等 戒告又は減給
20 前号に掲げる教員等のうち、性的な言動を繰り返し行うなど、常習性が認められる教員等 減給又は停職
21 前号に掲げる教員等のうち、相手が強度の心的ストレスの重積による精神疾患に罹患した場合における当該教員等 停職又は免職
22 職務に関して賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をした教員等 免職
23 生徒にセクシュアル・ハラスメントを行った教員等 戒告又は減給又は停職
24 前号に掲げる教員等のうち、性的な言動を繰り返し行うなど、常習性が認められる教員等 免職
25 前号に掲げる教員等のうち、相手が強度の心的ストレスの重積による精神疾患に罹患した場合における当該教員等 免職
26 児童生徒に体罰を行った教員等 停職、減給又は戒告
27 綱紀保持基本指針に違反して利害関係者から金銭、物品等の贈与又は貸与を受けた教員等 戒告又は減給
28 前号に掲げる教員等のうち、定期的に贈与又は貸与を受けるなど、常習性が認められる教員等 停職又は免職
29 綱紀保持に関する指針に違反した教員等(前2号に掲げる教員等を除く) 戒告又は減給
30 公金又は公物を横領した教員等 免職
31 公金又は公物を窃取した教員等 免職
32 人を欺いて公金又は公物を交付させた教員等 免職
33 公金又は公物を紛失した教員等 戒告
34 重大な過失により公金又は公物の盗難に遭った教員等 戒告
35 故意に職場において公物を損壊した教員等 戒告又は減給
36 過失により職場において公物に係る火災を引き起こした教員等 戒告
37 故意に届出を怠り、又は虚偽の届出をするなどして給与、諸手当等を不正に受給した教員等 減給又は停職
38 故意に公金等の不適正な会計処理を行うことにより、現金等を捻出した教員等 停職又は免職
39 故意に公金等の不適正な会計処理を行い、公金等を本来使用すべき目的や用途以外の業務に使用した教員等 減給又は停職
40 公金等の不適正な管理又は公金等に関する虚偽の報告を行った教員等 戒告又は減給
41 職場のコンピューターをその職務に関連しない不適正な目的で使用し、公務の運営に支障を生じさせた教員等 戒告又は減給
42 放火をした教員等 免職
43 人を殺した教員等 免職
44 人の身体を傷害した教員等 減給又は停職
45 暴行を加え、又はけんかをした教員等が人を傷害するに至らなかった場合における当該教員等 戒告又は減給
46 故意に他人の物を損壊した教員等 戒告又は減給
47 自己の占有する他人の物(公金及び公物を除く。)を横領した教員等 停職又は免職
48 他人の財物を窃取した教員等 停職又は免職
49 暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した教員等 免職
50 遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した教員等 戒告又は減給
51 人を欺き、又は人を恐喝して財物を交付させた教員等 停職又は免職
52 賭博をした教員等 戒告又は減給
53 前号に掲げる教教員等のうち、常習性が認められる教員等 免職
54 麻薬、覚せい剤等を所持し、又は使用した教員等 免職
55 酩酊して、公共の場所や乗物において、公衆に迷惑をかけるような著しく粗野な、又は乱暴な言動をした教員等 戒告又は減給
56 18 歳未満の者に対して、金品その他財産上の利益を対償として供与し、又は供与することを約束して淫行をした教員等 免職
57 痴漢行為を行った教員等 停職
58 人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさえるような方法で盗撮を行った教員等 停職
59 前2号に掲げる教員等のうち、常習性が認められる教員等 免職
60 暴行若しくは脅迫を用い、又は心神喪失若しくは抗拒不能に乗じてわいせつな行為をした教員等 免職
61 酒酔い運転をした教員等 停職又は免職
62 酒気帯び運転をした教員等 停職又は免職
63 酒気帯び運転により人身、物損等の事故を起こした教員等 停職又は免職
64 酒酔い運転又は酒気帯び運転となることを知りながら、運転する者に飲酒を勧めた、又は飲酒運転の車に同乗した教員等 減給又は停職若しくは免職
65 交通事故により人を死亡させ、又は重篤な傷害を負わせた教員等(第60 号から第63 号までに掲げる教員等を除く。) 減給又は停職若しくは免職
66 前号の前段のうち、措置義務違反(ひき逃げ、あて逃げ)をした教員等 停職又は免職
67 交通事故により人に傷害を負わせた教員等(第60 号から第63 号までに掲げる教員等を除く。) 戒告又は減給
68 前号に掲げる教員等のうち、措置義務違反(ひき逃げ、あて逃げ)をした教員等 減給又は停職
69 著しい速度超過等の悪質な交通法規違反をした教員等(第60 号から第63 号までに掲げる教員等を除く。) 戒告又は減給又は停職
70 前号に掲げる教員等のうち、当該交通法規違反が原因となる事故を起こし、措置義務違反(ひき逃げ、あて逃げ)をした教員等 停職又は免職
71 教育公務員特例法第18 条に違反して政治的行為をした教員等 減給
72 前号に掲げる教員等のうち教育公務員特例法第18 条に違反して政治的行為をした教員等 停職
73 前号に掲げる教員等のうち教育公務員特例法第18 条に違反して政治的行為をした教員等 免職

別表第2 (分限処分関係)
1 担当すべきものとして割り当てられた職務(以下「担当業務」という。)を遂行してその職責を果たすべきであるにもかかわらず、その実績が不十分な教員等(出勤状況又は勤務状況が不良な教員等を含む。) 降任又は免職
2 将来回復の可能性のない、又は病気休職(法第28 条第2項第1号に掲げる場合における休職をいう。以下同じ。)の期間中には回復の見込みの乏しい長期の療養を要する疾病のため、職務の遂行に支障がある、又はこれに堪えない教員等 降任又は免職
3 知識、技術、指導方法その他教員として求められる資質、能力に課題があるため、日常的に生徒等への指導を行わせることが適当でない教員(指導力不足教員) 免職
4 簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障がある、又は支障が生ずる高度の蓋然性が認められる教員等 降任又は免職
5 病気休職の期間が満了するため又は勤務実績不良若しくは適格性欠如の状態が心身の故障に起因することが疑われるため、医師の診断を受けることを命令したにもかかわらず、これに従わない教員等 免職
6 原則として1月以上にわたり行方不明(意図的に継続して無断で欠勤するなど懲戒事由に該当することが明らかな場合又は水難、火災その他の災害によることが明らかな場合を除く。)の教員等 免職

別表第3
1 人事評価の結果が2回連続してDであった教員等
2 初歩的な業務上のミスを繰り返し、又は業務の成果物若しくは処理数が教員等の一般的な水準に比べて著しく劣る教員等
3 所定の業務の処理手続を無視し、又は上司への報告、相談等を怠るなどして、独断で業務を行う教員等
4 業務を一人で処理することができず、常に上司、他の教員等の支援を要する教員等
5 所定の業務に係る処理の期限を守らず、又は正当な理由なくその業務を行わない教員等
6 正当な理由なく、上司の指導又は職務命令に従わない教員等
7 勤務時間中、頻繁に無断で自席を離れ、又は業務に関係しない電話、電子メール又はインターネットに興じるなどして職務に専念しない教員等
8 事前に年次休暇等を申請せずに欠勤を繰り返し、業務に著しい支障を及ぼす教員等
9 心身の故障による休職から復職したにもかかわらず、出勤状況又は勤務実績が改善しない教員等
10 勤務実績不良等が認められる教員等(第1号から第9号に掲げる教員等を除く)

別表第4
1 2年間の病気休職の期間が満了するにもかかわらず、病状が回復せず、今後も職務の遂行に支障がある教員等
2 病気休職中であるが、今後回復して就労が可能となる見込みがない教員等
3 病気休職から復職後、1年以内に再度の病気休職(心身の故障の内容が明らかに異なる場合を除く。)となり、休職期間が通算して3年に至るにもかかわらず、病状が回復せず、今後も職務の遂行に支障がある教員等

別表第5
1 教える内容に誤りが多かったり、生徒の質問に正確に答え得ることができない等、教科に関する専門的知識、技術等が不足しているため、学習指導を適切に行うことができない教員
2 ほとんど授業内容を板書するだけで、生徒の質問を受け付けない等、指導方法が不適切であるため、学習指導を適切に行うことができない教員
3 生徒の意見を全く聞かず、対話もしないなど、生徒とのコミュニケーションをとろうとしない等、生徒の心を理解する能力や意欲に欠け、学級経営や生徒指導を適切に行うことができない教員

別表第6
1 上司や他の教員等に対する暴力、暴言、ひぼう又は中傷を繰り返す教員等
2 協調性に欠け、上司や他の教員等ともめごとを繰り返す教員等
3 粗暴な言動等により府民ともめごとを繰り返す教員等
4 受診命令書を交付して再三にわたり指定する医師2名の診察を受けることを命令したにもかかわらず、これに従わない教員等
5 1月以上にわたり、行方不明となっている教員等
6 公務員に必要な適格性に疑問を抱かせるような問題行動を繰り返す教員等



  
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2011年11月20日

土井ヶ浜遺跡:人骨の宝箱



 部族を守って楯となって死んだ?ため「英雄」と名付けられた人骨。



大阪府立弥生博物館で、刺激的な特別展示が行われています。
タイトルは「弥生文化のはじまり 土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」
です。

ただし、11月23日で終了しますから、
弥生時代に関心のある方はお急ぎください。

私は土井ヶ浜/響灘周辺の弥生遺跡に関して、その存在をただ知っていただけの無知さでしたから、
この特別展の展示と購入した目録から受けた衝撃と知識をまだ消化できずにいます。
また、広義のフィールドワークをしないと、つまり一度は現地に赴かないと、どうにもまともに思考がスタートできない体質です。
ですから、閉展日までに何らかの整理された文章を書くことができません。

そこで、この展示の内容と目録の解説から、わくわくする発見を一ニ紹介し、
私同様、響灘周辺の遺跡に疎い皆さんを博物館に誘います。
繰り返します。11月23日(水)までです。なお、21日(月)は休館です。


土井ヶ浜遺跡は弥生時代の墓地遺跡です。
山口県西部の海岸沿いのこの遺跡からは、
今までに300体を超える人骨が出土しています。
しかも、土質の関係で「極めて良好な状態」を保って発見されています。
他にはこのような出土例はありません。

土井ヶ浜出土人骨は同じ方向を向いて埋葬されています。
「頭をやや高くし、顔を西側、つまり海に向けて葬られて」います。
死者の見つめる先には何があったのでしょう。

土井ヶ浜出土人骨の多くは明らかに縄文人の特徴とは異質です。
頭蓋が面長、扁平、鼻の穴が狭いなど、「朝鮮新石器時代の人々と似ている」特徴を持っています。
この点から、金関丈夫氏(弥生博物館現館長の父)による、「弥生人の『渡来・混血説』が誕生しました。」

とはいえ、この特別展では、同じように葬られた中で見つかった、明らかな縄文顔の人骨も紹介されています。
短絡的に考えれば、弥生系と縄文系の深刻な争いはなかったのかもしれません。

とはいえ、人骨の内の一体は有名な「英雄」。
「死後すぐに顔面を叩き潰され」ていて、しかも
「遺体の周辺からみつかった12個の石鏃と2個のサメの歯鏃も打ち込まれたものである可能性がある」この人体は、
何らかの呪術的な「制裁を受けた」後埋葬を施されたのかもしれませんが、
他部族との壮絶な戦闘を思い浮かべることもできます。

人骨にはゴホウラのブレスレットがはめられていたり、潜水習慣を証明する外耳の特徴を示しているなど、
海の民であった可能性が強いようです。
弥生の民に海民の特徴が色濃いことは、『魏志倭人伝』の記述からは明らかですが、
私たちはついつい彼らを稲作と結びつけがちですから、注意が必要ですね。

以上、土井ヶ浜遺跡についてそ魅力をはしょって紹介しましたが
この特別展では、周辺の諸遺跡についても整理された形で紹介されています。
タイトル通り、「弥生文化のはじまり」を考える上でたいへん勉強になる展示でしたのでおすすめします

  

Posted by gadogadojp at 09:26Comments(0)TrackBack(0)歴史

2011年11月15日

中西遺跡:土石流で埋まった弥生前期の水田



カメラの向きは西。背後の金剛山の標高は1000mを超える。その北側は葛城山。遺跡から麓までの直線距離は約2.5km。


御所(ごせ)中西遺跡は、奈良盆地の南西の隅に位置する、弥生前期の遺跡。

2011.11.12、橿原考古学研究所主催の第18次調査現地説明会に参加しました。
逆光になって見えにくいですが、下の写真の遺跡背後(南)の人造の丘から、今回調査された遺跡の全貌を見渡すことができます。さすがは橿原考古学研究所の仕事ぶりです。
もっとも、ここは京奈和自動車道建設のための緊急発掘。この丘はIC建設のための丘でしょうか。


カメラの向きは南。背後の山の最高地点の標高は286mほど。遺跡から麓までの距離は1km以内。山の南側には小高い平地が隠れ、そこには秋津原GCや御所市民運動公園などがあります。





人造丘の上からの眺め。一枚一枚の田の小ささがよくわかります。右側が東方向です。


以下の文は、説明会でのレクチャーをベースにしています。

今回の調査で発掘された水田跡は約10000㎡。
田の数は約850枚。
単純に割り算すると、一枚平均で11.76㎡。これは3.43m四方の面積に相当します。
実際には東西方向が長辺、南北方向が短辺の長方形です。

大づかみに申せば、住民はまず東西方向に幅3mていどの狭い幅でまっすぐな畦を作ったのでしょう。
東西方向に(わずかな起伏ですが)尾根と谷が伸びているからこれに沿って。

次に、南北方向の畦を作ります。田の長辺の長さはこれで決まるのですが、まちまちです。
この地はゆるやかながらも東に向かって標高を下げていますから、これに対応したのでしょう。

畦作りの第一の目的は田の水の水平を保つことです。
大きな土木工事をしなくてすむように、このようにきめこまかい畦を作ったのだろう、という説明を受け納得しました。

この水田が営まれていた年代は、およそ2400年前。弥生時代前期です。
鉄器は無かったか、あるいは極めて貴重だったはずですから、主に木製の鋤や鍬を使って田地へと整備したのでしょう。
わずかでも存在する起伏を均(なら)して広く水平な田を作る手間をかけるくらいなら、
細かく畦を設けることによって多少の生産性の損失が生じることに目をつぶったのでしょう。

水稲耕作には不可欠な水利はもちろん確保されています。
現在、この遺跡の1km西側には、葛城川が北に向かって流れています。
(弥生時代前期の葛城川の流路を私は寡聞にして存じません。ただ、理由は省きますが、古墳時代にはおおよそ現在の流路に近かったのではないかと考えていますので、ここでは弥生時代も同じだったと仮定しておきます。)
この中西遺跡の標高は、川の流路付近のそれよりも10m強低いので、葛城川から東に水を流すことは比較的容易だったと考えます。
(流れる先は、同じ大和川水系の曽我川です。つまり中西遺跡のある地点は、葛城川ではなく曽我川の流域です。)

数枚下の写真に写る、遺跡をえぐったように見える川筋は後世の支流の流路です。
この田が営まれていた時代には存在していません。
遺跡の西側地帯はまだ未調査です。そこには、弥生前期の葛城川から水路を引いた跡が埋まっているのでしょう。






上の写真は「島状高まり」と、今の所は呼ぶしかない謎の場所だそうです。
これを見た私はとっさに、これは何らかの祭祀の場所ではないかとひらめきました。一種の祠(ほこら)が建っていたのではないかと。
しかし、見る限り、小さくとも建造物があったような穴は見当たりませんし、説明もありませんでした。

ここが遺跡の隅にあったことも不思議なのですが、今後周辺の調査がさらに進めば、当時の水田の全貌の中では中央に位置していたのかもしれませんから、これは重要な疑問ではありません。
当時のシャーマンなり首長なりがこの場所で何らかの祓い、浄めの儀式を行うのに、祠は必要なかったのかもしれません。


でも、もう一つの可能性が考えられます。
ここはイシガメ、スッポンなど亀の甲羅干し場ではなかったのでしょうか。
〜半分冗談、でも半分マジなアイデアですよ、橿原考古学研究所の皆さん。
あまり研究されていないようですが、農民にとっては古来亀は重要な生き物だったように私には思えてならないのです。
時代はもっと後になりますが、銅鐸の絵にも亀が描かれていました。

亀は雑草防止のような実利をもたらしてくれるからなのか、
田の守り神などとして大事にされていたのか、
はたまた美味な蛋白源としてなのか、
重要さの理由を決め付けられないでいるのですけれど。

さて亀はさておいても、説明員の方がおっしゃる通り、この「島状高まり」は、住民の何らかの明確な意図があって設けられたものに違いありません。




水口


他にも、水路の作り方、水口の切り方などに工夫がこらされています。
前回の調査では、動物や人の足跡、木の切り株(=森の開拓)など、生々しい人々の生活の様子もうかがえました。
現在の時点では田地だけで集落はまだ未発見ですが、説明会の文章にあったように、たいへん「立体的」に弥生前期の人々の暮らしがわかる、大博物館のような遺跡です。

そして全体を通じて私が感銘を受けたのは、
この地の住民の明確な開発意図とチームワークの良さです。
いえそれ以前に、この地を選んだ彼らの確信の強さです。
他のベストな地形には先住者がいたのかもしれませんが、その可能性もひっくるめて、
彼らにとって、「ここでいいかあ」、ではなく、「ここが良い」だったに違いありません。
ですから、きっちりプランニングし、手早くしかも確実に、力を合わせてこの地を開墾しました。






しかし、無惨にも、その意図は自然の暴威によって破壊され尽くしました。
その原因はただ一つ、洪水または土石流です。

「水田と森林は厚さ1.0 ~1.5mの洪水砂によって一気にパックされていた」
前回(2010.8.7)の中西遺跡発掘調査現地説明会資料から。

上の写真で垂直に立つ杭(くい)の下部、黒い土が遺跡の田の土色です。
その上にかぶさっているやや白っぽく見える土が洪水砂のはずです。
ポンペイを襲った5mの深さの火砕流とは、その量も破壊力も違います。山からは距離がありますから巨石がここまで転がって来た様子もありません。2011年の紀伊半島の山崩れ直下の被害に比べれば人が避難する時間の余裕もあったかもしれません。
しかし、この広大な田地は間違いなく一瞬の内に壊滅状態になったのです。




写真の向きは西。遠景左の山は金剛山。右側が葛城山。田をえぐっているのは後世の川。葛城川本流ではなかったと思われます。


ではその洪水(今回の説明会では「土石流」)はどこから流れて来たものでしょう。
私はどうしてもこれを知りたいと思いました。
素人の無謀な試みですが、この付近の地形を観察してみることにします。

このあたりの地形をご覧になりたい方は。
よければ国土地理院の1万分の1地形図を開いてください。
ウォッちず(地図検索画面へ)→和歌山→御所の右下部分、と進んでいただくと、目印がその中央「東名柄」付近にあるはずです。ここから15cmほど東やや北へ進むと、「宮山古墳」があります。さらに同じ角度で進むと「條」という地名の表記があります。その「條」の文字の2、3cmほど左上の地点がここ中西遺跡です。

まず、(現在は)1km西を北流している葛城川が氾濫したことが考えられます。
この発想は間違っていないでしょう。この葛城川(水系)が氾濫を起こしたことしか、この地に水を溢れさせる原因は考えられません。
しかし、問題は水ではありません。この田を営んでいた住民が(生き残っていたとして)ここを放棄せざるを得なかったのは、その水とともに押し寄せて来た大量の土砂のせいですから。

上記の地形図を観察すると、国道309号が葛城川と交差する室集落あたりの標高は約110m。
これに対して中西遺跡がある地点には97mの数字が。
1kmで13m下る傾斜は緩斜面ですね。このようなゆるやかな傾斜だからこそここを水田にできると考えたのでしょうし、このようなゆるやかな傾斜だからこそ、1mを超す土砂の堆積は尋常の洪水ではあり得なかったともいえます。
決壊ポイントは室集落付近として、ではその大量の土砂はどこから運ばれてきたのでしょう。

地理学には素人の私ですが、古い時代の土石流の痕跡を探すには、まず扇状地をさがせば良いことはわかります。
谷間に始まる扇状地地形それ自体が、山崩れ/土石流の結果だと考えられるからです。
そういう目で葛城川川上の扇状地をさがしてみると、いや、あるはあるは。

参考資料は先述の国土地理院の1万分の1地形図です。
「御所」「五條」を参照してください。

現在の国道309号線以北はさしあたって除外します。
まずは中西遺跡のほぼ西側の水越川。この川は「関屋」集落付近で平地に流出しますが、ここから「増」「名柄」付近は扇状地でしょう。

少し南に下ると、「井戸」「南郷」「極楽寺」付近も別の小河川による扇状地。

「極楽寺」の南側には、「北窪」「西北窪」「朝妻」「伏見」にかけての大きな扇状地。これを形成した河川は、高天(たかま)神社付近を源流にしています。その神社から北東に広がる台地は素人には不思議な地形です。かつて大規模な山崩れが起こった跡であり、その再来を防ぐための祈願の場所が高天神社になった、とかんがえられないでしょうか。もちろん、この地の古墳時代の王者葛城氏の手によって。

さらに南に進むと「鴨神」。ここにはこの地域最大級の扇状地があります。谷から平地に河川が流出するポイント付近には高宮廃寺跡があります。山麓の高い場所を通過する道路を走ると、「西佐味」から先は五條市方向に一挙に下ります。したがってこの扇状地の南半分は紀ノ川流域に変わります。

さて、このように、金剛山西南麓には扇状地が連続して成立していることがわかりました。ここを流れる河川は、「鴨神」より北はすべて葛城川に流入します。

ただ、扇状地=山崩れ、と決めつけて良いのかどうか私には自信がありませんので、防災科学技術研究所作成の
地すべり地形分布図「五條」でダブルチェックしました。
このマップに示されている地すべりの痕跡は、もちろんその発生時期まではわからないのですが、たかだか2400年前でも大きな傾向は変わらないと考えて覗いてみました。

すると、このこの金剛山西南部分は、とんでもない地すべり地帯であることが一見してわかったのです。
特に高天神社付近の地すべり規模の大きさは、奈良県下では最大級のものです。




人造丘の上から西南方向を望む。手前の緑の丘が宮山古墳。雲がかかった背後の山が金剛山西南麓。


中西遺跡が土砂に埋まった正確な年代は不明です。
つまり、この見事な「千枚田」では何年間にわたって水稲耕作が営まれていたのかはわかりません。
けれど、弥生時代のある時期に続いた豪雨の後、たとえば高天あたりの山が轟音とともに崩れて葛城川本流に流れ込み、あるいは土砂ダムを形成した後崩壊し、その土砂が4~5km離れたこの田地を埋め尽くしたのではなかったでしょうか。


そんなことを夢想しながらgoogle mapで遊んでいますと、
一つ一つの扇状地が複合体となった巨大な葛城川流域扇状地が姿を現しました!

地図の青ピンは扇状地の要所。
赤ピンは中西遺跡。



より大きな地図で 御所中西古墳 を表示
  

Posted by gadogadojp at 20:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2011年11月11日

ワンの地震とワン猫






そのホテル、私が宿泊したホテルかもしれません。
宮崎さんが亡くなり、近内さんが救出された、倒壊したホテルです。
倒壊前の映像がTVニュースで一瞬流れただけですので見誤ったかもしれませんが。

早朝そのホテルの客室の窓から、
足が不自由なおじさんが街角から街角までいざって進んでいくのをじっと眺めていました。
彼はきっと何か仕事があったのです。
眺めながらそう確信しました。


日本と同様地震の多いトルコですが、その東部では10月23日に続いての震災です。
復興に当たっていた日本人が泊まっていたそのホテルが、たまたま耐震性がなくて不運でした。
前回の地震では、日干し煉瓦の2~4階建の建物もずいぶん倒壊したようです。
地震の国で住むには、やはりテントや木造平屋家屋が安全です。
クルド人はテントが好きなんだけれど、定住するとそうもいかないのですよね。

ワン(ヴァン、 Van)の町は、この付近としては大都会です。
クルド人主体の住民は、トルコ民族とはテイストの違う、ややワイルドなフレンドリーさが印象的でした。
筋肉ムキムキのおっちゃんが、私を日本人と見るや、ジュードーで勝負しようと腕をつかんできたり、
公園で遊ぶ子供たちが、日本人だ!と叫んでいつまでも私の散歩についてきたり。
女子大生が、阪神淡路大震災への同情を告げるためにわざわざ近寄って来たり。

乾燥地帯にあるので、大通りはややほこりっぽいものの、
美しいワン湖に近づけば、シンと静まり返った青い景観が広がります。
湖の面積は琵琶湖の五倍。
ネッシーのような怪獣が棲息している噂も絶えません。

ワンの町はまた、ワン猫で有名です。
瞳の色が左右でちがう猫です。
現地で購入した絵はがきをスキャンしたものですけれど、写真を掲載しておきます。

亡くなった方のご冥福と、
今後のトルコの復興と、
ワン猫の生活の維持とを、
合わせてお祈り申し上げます。


ワン湖



wikiより引用 作者gozturkさん  

Posted by gadogadojp at 18:00Comments(0)TrackBack(0)できごと

2011年10月30日

琉球フェスティバル大阪2011:後編

引き続き、2011琉球フェスティバル大阪のレポートです。
前編はこちら。


仲田順市&蛍(じんじん)さん
企画は実現しませんでしたが、私はある催しで琉球音楽/舞踊を呼ぼうと考え、この方たちを候補の一組に想定したことがあります。
私は大阪に住んでいますから、大阪在住のグループを調べたのです。
仲田順市さんは大阪市大正区平尾で琉球民謡研究所を運営されていて、大阪市内で三線や島唄を習う人たちには良く知られています。
それだけでなく、イベント活動もしておられるのでした。

演目は「沖縄ゆめゆめ音頭」「美ら島沖縄」などでしたが、
私は観客であることから離れ、幻の企画が実現した時の主催者の目になって眺めていました。
仲田さんをもっと目立つ前の方で演奏してもらうことを考えていました。

仲田順市民謡研究所公式HP大正区平尾



下地勇さん
ひときわ大きな拍手とともに、長身の下地さん登場。
宮古言葉の曲ばかり歌われました。もちろんほとんど解読できませんが、彼の歌唱は一本調子に見えて実は感情表現が豊かですから、島への、島の人々への愛情がびんびんと伝わってきます。

「我達が生まり島(バンタガンマリズマ)」
『…公民館ぬスピーカーからやぐいばし国民年金収みふぃーる…』という歌詞に、ああ、と島の雰囲気を感じます。
飛行場以外まだ未訪問の宮古島ですが、この一節を聴くだけでもう何だか懐かしくなってしまいます。

「おばぁ」
知らない曲でした。『おじい』『ぴんざ(ヤギ)』『まーすにー(塩煮)』くらいしか聴き取れませんが、これは悲しい曲ですきっと。
それを把握すると、歌われている状況がちょっぴり想像できました。
自宅に帰って確かめます。
すると、秀逸なYou Tube動画を見つけました。wogbasinさん、リンクさせていただきます。
↓泣いてもいい方限定です。
http://youtu.be/d3D0WqOzmnk



京都琉球ゆう遊会
今年もエイサーは一組、「りゅうゆう会」の登場です。
小さな子たちも舞台の上で演技していましたが、それは「琉童会」と呼ぶのだそうです。なるほど。
大勢の演技の場合、全体に視野を広げているつもりでも、やはりどうしても特定の方を中心に見てしまいます。印象に残ります。
この会はHPをお持ちです。そこにはメンバーの写真が掲載されています。
悪用されそうもない小さな写真です。
数人のお顔とお名前(ニックネーム)が一致しました。
とくに○○さん、楽しそうな笑顔が印象的でしたよ。



石嶺聡子さん
改めてwikipediaで調べると、彼女のヒット曲「花」はCD50万枚売れたそうです。神谷幸一さんの姪にあたることもここで知りました。

けれど彼女が歌いたかった歌は沖縄風の歌ではなく、もっと欧米寄りの、あるいはワールドワイドな楽曲だったので、「花」が先導した沖縄イメージとのギャップに悩んだ、とwikiにあります。
私も以前何かでこの悩みを読んだ記憶があります。苦しかったでしょうね。

確かに豊かな声量で歌う彼女の歌声はひたすら伸びやかでストレート。島唄向きではないようです。
しかし今は「花」からの独立を果たし我が道を進まれているようです。
映画『東京タワー』のテーマ曲に詩をつけた「この世界に」でも、歌唱力が光りました。

けれどこの日は「花」も歌われました。正直、オリジナルCDの「花」はあまり好みではなかったのですが、その頃よりも情感が深まっていると思います。吹っ切れて得た深みでしょうか。
いえ、彼女をよく知らないのに軽々しいコメントは慎まなければいけません。
ただ、これだけは言えます。
私たちはどこかで産まれ育ち、誰かに育んでもらって今生きています。
その事実とそこで染み込んだ何かは、一人一人の、何ものにも代え難い宝物です。
ね、聡子ちゃん。
どしどし沖縄の歌も歌いましょう。

石嶺聡子さんのブログ。



知名定男さん+知名定人さん
10月下旬ですから、もう日が暮れていきます。ここ大阪城野音では、この時間になるといつもねぐらに帰る鳥たちが上空を横切ります。

「とーぬゆーからやまとぅぬゆー やまとぅぬゆーから アメリカゆー ひるまさかわたるくぬうちなー」と歌い始める「時代の流れ」を二曲目に選んだ知名さん。
ti-daブログの「たるーの島唄まじめな研究」のたるーさんによれば、作詞は嘉手苅林昌さん、作曲は花口説さんと「ウチナーのうた」(音楽の友社)には書いてある、と微妙ないいまわし。
林昌さんがいちばん好きだった歌を、と知名さんは紹介して歌われました。
10月9日が嘉手苅林昌さんの命日だったのです。

通い出して八回目になる琉球フェスティバルですが、無念なのは嘉手苅林昌さんと初代ネーネーズさんを琉フェスで聴く機会が無かったことです。
もっと前から通っている我が妻を、この点で羨ましく思います。
林昌さんのこの歌のCDは持っていますが、今となっては、知名定男さんによる心奥どこかに届く静かな歌声を通じて、生前の歌いっぷりを思い出した気になりました。
そう考えると、沖縄音楽をここまでヤマトにも広げた知名さんの名プロデュースぶりに、改めて感嘆。



大島保克さん
この日の大島さんの声は絶好調。
観客席から「ひばり!」のかけ声がかけられていましたが、石垣島白保の「ひばり」の屋号を持つ家に生まれた保克さんの本領発揮。
改めて彼の輝きながら空を切り裂き舞うような歌唱を再認識し、この日の私の耳にとって最高の時間になったのでした。

セイグァーが一瞬で大阪を沖縄に変えるなら、
彼は一瞬で大阪を白保の浜に変えることができます。

と、聞き惚れて、曲名を忘れてしまいました。
二曲目の「イラヨイ月夜浜」だけはさすがにおぼえていますが。
一、三曲目は何だったか…
でもその三曲目、何と太鼓にあの伝説の?太鼓パフォーマー、セイグァー登場。
衒気や茶目っ気たっぷりの、なおかつたいへんしっかりしたバチさばきを拝見し、
隣で歌三線を勤める大島さんの歌声ととあいまって、
恥ずかしながら涙腺がゆるんでまいりました。笑い泣き。

『太鼓というのは気合いを入れて叩くものだからね。普通の叩き方ではだめだ。太鼓がいいとこっちもウキウキしてくる 』twitterの登川誠仁botより。








パーシャクラブ with 夏川りみ
次はパーシャ、と津波さんの紹介が流れると、会場に驚くほど歓声が上がります。
ハロウィーンの真っ赤な帽子をかぶって新良さん登場。 Trick or Treat?と何度か呼びかけるが、ここは聴衆が十分反応できず。
だって琉フェス見に来る大阪の客はあんまり流行の西欧文化に精通してないもの(笑)
わけわからんまま声援おくってる。
赤い帽子を観客席に投げ、隠し持ったチョコレートをばらまくと、これはわかりやすくて観客は興奮。

パーシャの演奏は「海の彼方」で始まった。さすがの迫力で酒の入った観客の熱狂を引き取る。ギターもドラムスもいい音。
私はついサンデーさんを見てしまう。
そしてもちろん新良幸人さんの個性は会場全てをわしづかみ。掛け値無くわしづかみ。

二曲目の「ファムレウタ」からは夏川りみさんが登場。
次の「童神」まではりみぃがメインで歌います。りみぃがとても楽しそうに見えます。

「ファムレウタ」というタイトルは<子(ファ)守(ムレ)唄>。八重山口。
再び「たるーの島唄まじめな研究」で学ぶと、八重山口と沖縄語のmixされた歌詞だとか。その区別がほとんどわからない私には勉強になります。

「ファムレウタ」は新良幸人さんの作った曲。海が、島が、我が親の子守唄と重なる。
「童神」はもちろん古謝美佐子さんの曲。我が子の未来を祈る。
二曲のモチーフは異なりますが、<子供>繋がりに構成したのでしょうね。

次は再びパーシャがリード、「満天の星」で歌い上げる、「五穀豊穣」で盛り上げる。
今年の琉球フェスティバルのラストに向けて本日最高の盛り上がり。


新良幸人さんと夏川りみさんの共演はとても楽しめました。
新良さんは照れを超えて破天荒。
夏川さんは腹がすわったマイペース。
確かな音楽性に裏付けられたいいコンビに見えます。

パーシャクラブのブログ






フィナーレ
恒例の全員登場してのフィナーレ。
観客の耳は演奏や歌に向けられていますけれど、
目が向く先にいるのはセイグァー。舞台の前を踊りながら行ったり来たり握手したり。目が離せない。
おいおい舞台から落ちないか?
でも決して落ちない(笑)。

まずは全員で「安里屋ユンタ」、
次に知名定人さんと仲宗根創さんの若手で「嘉手久節~唐船ドーイ」、奄美から琉球へ。
さらに全員で「豊年音頭」、
と、観客のカチャーシー欲を十分満喫させておいて、

夏川りみ、下地勇、大島保克、新良幸人の四人がアカペラで一人ずつ仕舞い歌、
四人の声が会場を静かに満たす。
特に大島さんの声はそのまま天に届く。

おしまい。
満足満足。
コンサートとしての質の高い今回でした。

今年の琉フェスが終わったのはざんねんだけれど、
また来年があるさ〜。








  

Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)TrackBack(0)音楽・舞踊

2011年10月26日

琉球フェスティバル大阪2011:前編

今年も開いてくれました、琉球フェスティバル大阪。
もちろん参加しました。これで八回連続鑑賞、いや参加。
I列でしたから、前から9列目。正面付近の良い席です。
昨年は無かったオリオンビールや久米仙の場内販売もあって、観客の皆さんもごきげん。
司会は昨年に引き続き、津波(つは)信一さん。

今日はその一回目のレポートです。
なお、曲名等に誤りがあるかもしれません。ご容赦を。







登川誠仁さん、知名定男さん
二時ぴったりに開演。オープニングはこのゴージャスなお二人。
いやあ、嬉しいですね。

二人の短い挨拶唄だけで、
雨模様の大阪城野外音楽堂がいきなり汐風吹くウチナーに変わります。
今回の出演者の中で、そんなパワーを持つ方は他におられません。

二人で退場する途中、知名さんに手を引かれた登川セイグヮーさん、顔を観客席に向けて、ひざをかくんと折って愛嬌。
観客はどっと湧きます。
今日はまもなく満80歳になられるセイグヮーの宴になる予感がします。


上間綾乃さん
沖縄民謡唄者、と自らを規定しておられます。
司会の津波さんが。彼女に「エキゾチッ〜ク!」と(叫びにくい)声援を送るように観客に強要(笑)しました。
なるほど、サリーが似合うだろうなと思わせる南の美貌です。
でも、ご本人はそのかけ声はイヤです、と苦笑しながらきっぱり。
何となく人柄が伝わるやりとりでした。

曲目は「サーサー節」と「綾蝶(あやはべる)」など。
上間さんの太い歌声はよく響き渡りますが、リズミカルで力強くきっぱりした三線の音色が特に印象的でした。
共演のギターとの息もよく合っていますから、沖縄限定を超える普遍歌唱に広がる可能性を感じます。
また、アーティストには必須の人間力の強さをお持ちのようですから、期待できます。
ただ、
個の追求が普遍に通じる、という私の信念が正しければ、
内なる沖縄アイデンティティをなお一層深化させることが不可欠になりますが。

うるま市出身の彼女、大阪で三線教室も開いておられるとのこと。会場からは「せんせ〜」のかけ声も。
う〜ん、
これも「エキゾチッ〜ク!」同様、声援者の個人的な思いが強過ぎますね(苦笑)

同じti-daブログ内の上間綾乃さんのブログはこちら



うるま御殿さん
わたくしgadogadoのもう一つのブログ「うんぼくたべるよ」記事ではおなじみの、大阪市大正区南恩加島の島唄酒場「うるま御殿」の皆様の登場です。
いつも酔客や自ら踊りたい客の相手をしておられる島唄酒場の唄者たちには、共通して端正さを感じます。
主役は客だ、という姿勢はステージ上でも同じです。
また近々うかがいますね。

そうそう、店の名物かみつきシーサーも観客席で暴れていましたよ。



砂川恵理歌さん
砂川さんは宮古島出身の歌い手。島唄ではありません。
私は彼女も彼女の歌う「一粒の種」も知りませんでした。
末期がん患者の遺言を元に作られたというこの詩は、同じ島出身の下地勇さんの曲を得て、宮古島発の名曲となって、いくつものメディアで紹介されたそうです。
すがすがしい発声で、けれどしっとりと歌う彼女の声が会場を満たします。
歌唱の一語一語に情感を込めることのできる歌い手さんですね。

彼女には介護リハビリ助手の経験があるとのこと。
仕事上で知り合ったのでしょうか、あるおばあが彼女に「十九の春」を歌ってくれたエピソードを紹介されました。
おばあの初恋は十九。その唄を歌っている時のおばあは十九に見えました、と泣かせるMC。
もちろん「十九の春」も歌われました。
三線の城間竜太さん、下地勇さんも共演。

砂川恵理歌さんのブログはこちらです。



登川誠仁さん
若手の仲宗根創(はじめ)さんに手をひかれてセイグヮー登場。

「ナークニー」では仲宗根さんの歌の間の手が絶妙で場内に笑いが起こります。
登川誠仁(のぼりかわせいじん)という唄者が初めての方も、その魅力に引き込まれはじめます。
「とぅばらーま」の前説に、「私は石垣の人ではありません。(私の歌う)とぅばらーまはニセモノです!」と断言してそのニセモノを歌い始めたので、会場内は爆笑。

小柄なセイグヮーが大きな会場をわしづかみにします。
皆の視線が集まっているから、わずかな動作にも反応があります。

歌い終わったら、仲宗根さんは三線二丁持ってセイグヮーを置き去りにしてすたこら退場。
残されたセイグヮーは、司会の津波さんに「おぶれ」と手で指示。
津波さん、仕方なくセイグヮーをおぶってよろけながら退場。



サンサナー
2010年、
オーディションの上で選ばれた三人の女性で結成した沖縄ポップスグループだそうです。

見た目の華やかさと若さから、ただのアイドル系のグループかと思いきや、舞踊の技能、歌唱がとてもしっかりしています。
サンサナーのオフィシャルHPに書かれているメンバーそれぞれの受賞経歴がそれを裏付けています。

ユリエさんが中央で素敵な笑顔を絶やさずメインヴォーカルを担当、併せて三線も弾きます。
ミィキさんとアーサさんは左右の立ち位置で手先まで美しい舞踊を繰り広げます。ワイヤレスでサブヴォーカルも担当しています。
紅型の美しい色彩の衣装がよく舞台映えします。

曲目は、持ち歌の「MOLE MOLE」、「ビーチ・パーリー」、それに「てぃんさぐぬ花」。
明るくポップス調のステージは、会場を華やかに染めました。
ただ、まだまだ初々しい固さが残っています。
チームワークの良い完璧さが、かえって自己完結的に、<披露しています>的な印象を抱かせます。
クセの強い大阪の聴衆を巻き込んで一体感を生み出すような、観客への誘因ベクトルがまだ不足です。
この日の島唄唄者はその点で達者な方がいっぱいですから、サンサナーの固さは否めません。

とはいえ、帰宅してからの私がYou Yubeを一番楽しんだ出演者は彼女たちでした。
持ち前の華と技能のせいでしょう。
二三年先の紅白出場を待ってます。

サンサナーのブログ



築地俊造さん、川畑さおりさん

奄美からはこのお二人。
黒い(絣?)衣装をしゅっと着こなした川畑さんと、サバニが似合いそうな風貌の築地さん。
お二人とも私は初めてでしたが、奄美の島唄メロディーに瞬時に共鳴してしまう私のアンテナは、たちまち震え出しました。
川畑さんのやや太めの声は、低音部から高音へ底からしゃくりあがる土の波動。
築地さんの渾身の歌唱は観客席に向かって投げつけられるような風。
お二人の着物の裾を揺らがせ続けた風は、どうでしょう、悪天候のせいだけでしょうか。

曲目は、喜界島に伝わる悲劇の唄「むちゃ加那節」、「ゆいすら節」、徳之島の「わいど節」など四曲。
とりわけ築地さんの「ゆいすら節」の歌声には揺さぶられました。




以下次号に続く



  

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2011年10月23日

カダフィの口は封じられた

リビアがNATOに潰され、
カダフィが惨殺されました。
これは、
欧米資本主義経済の利権への脅威が一つ消え、その利益が拡大されることを意味します。

私は、暗殺や私刑による殺人が生み出す「幸せ」な国家体制を認めません。
暴力が産んだ国家は必ず暴力をふるいます。
またカダフィには語らせなければならないのです。
彼自身の罪と、
欧米の陰謀の秘密を。

聖地化させないように、カダフィ埋葬地は秘密にする方針だという報道が流れました。
「臭いものに蓋」のその方法は、来るべき「自由なリビア」を具現する発想とは思いません。
個人の独裁から、別の形式の支配へ移行することを示す象徴的ニュースです。


リビアには、
欧米型資本主義、欧米型民主主義の国家に住む日本人の私には馴染みやすい社会が生まれるのでしょう。
この後に成立する体制が、自らの体制批判まで許す、虐殺やテロのない社会を生み出すのなら歓迎です。
けれどこれまでよりはるかに多くの人命が失われる可能性が高いだろうことを憂います。
それはちょうどイラクのように。
カダフィと彼の一族が得た利権よりはるかに巨額な富が収奪され、欧米資本家の懐に入ることでしょう。
それはちょうどイラクのように。

いま私は地球全体を眺めたい。
欧米グローバリズムの侵攻は世界を覆い尽くそうとしています。
カネと鉄と硝煙の匂いをまき散らしながら。
有力な対立軸が、中東的独裁でしかあり得なかった不幸はありますが、
それでもアンチ勢力が存在していたことは世界全体から見ればまだ真っ当な状態だったと思えます。
リビアは最後の砦だったのかもしれません。

ウォール街発の「格差NO!」の運動は新たなアンチの芽生えかもしれませんが、
まだまだひ弱過ぎて明日にも露と消えるかもしれません。

カダフィがやったことはこれから白日の下に曝されるでしょう。
刃向かう者への容赦ない弾圧の実態は、それを知った者に強い説得力を持つでしょう。
しかしそれを私たちに伝えるのは欧米型マスメディアたち。
彼の功績や地政学的意義に触れることはまずありません。

ニュース映像では「カダフィ死ぬ」ニュースにはしゃぎまわる民衆の姿ばかり映し出されます。
カダフィに助けられた、という思いの人々は今それを一言も口に出せない状況であることを私たちは見落としてはいけないでしょう。
一緒にはしゃぐしかないのです。
ちょうど フセインが死んだ後のイラク民衆のように。

偶然見つけた下の動画は誰の手によるものかわかりません。
カダフィのプラス評価コメントの羅列です。
独裁的政権の下では、享受する人々の影に必ず泣いた人がいます。
しかしながら、私の乏しいリビアへの知見からも、
その享受した人々の数は案外多いことがわかっています。

欧米サイドの報道ばかり目にする今、
少し自分の中でバランスをとってみるのも良い選択かなと思いますのでお勧めします。





ロスチャイルド家は、マネー、特にバンクの世界において、隠然たる支配力を張り巡らしている一族である。
国家の中枢に、つまり中央銀行周辺に、あるいはその内部構造にロスチャイルド家が影響力を発揮できないのは、イラク、アフガニスタン、リビア、イラン、北朝鮮、スーダン、キューバだけであった。
近年、そして今年、欧米諸国の軍隊によって、その内三カ国が倒された。


というようなロスチャイルド観がこの動画には色濃く反映しています。
しかしこれは、「カダフィは民衆思いの英雄だった」「カダフィは残虐な独裁者だった」と同類の(一面の真理を含んだ)イルージョンだと感じます。
米国のユダヤ資本などいくつかの勢力を過小評価し過ぎた見方だとも思います。

けれど、今なおロスチャイルド資本は世界の銀行の「元締め」の一つであることに間違いは無く、
イスラム世界における影響力の乏しさを挽回したいと考えたとしても、不思議はありません。

  
タグ :リビア

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2011年10月02日

日本三景に意図は有るか:天橋立から





日本三景に意図は有るか

この夏、旅の途中に天橋立を眺める機会を作った。
もう何度も訪れた場所なので、今回は一方向から展望しただけだったが、
その端正な美しさは変わらず、この景観を日本三景と呼ぶことに異論はない。
しかし「なぜここが」選ばれた三景の一つなのか、その疑問は残る。
たとえば、富士山ではなく、なぜ天橋立なのか、といった類いの疑問だ。
そのあたりを少し考えてみた。


江戸時代前期の1643年(寛永20年)に、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳興、丹後天橋立、安芸厳島為三処奇観」と書き記した。これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる。wikipediaより引用




   京大蔵書より http://hdl.handle.net/2433/24027


林春斎は春勝または鵞峰とも言い、父林羅山と共に近世封建的支配体制の思想的な背骨を構築した。
いいかえれば、徳川家や大名による土地と民衆の支配をどう正当化し、どう安定させるかに腐心したということだ。
お抱え儒学者としての使命を果たすべき彼の命題は、「日本」を儒学の本家中国や朝鮮に比肩できるだけの<かたち>を持つ国としてどう際立たせるか、というところにあったように思う。
それは同時に、他の大名や朝廷のそれを超える全国支配のロジックを持たねばならない徳川将軍家にとっての切実なテーマでもあったはずだ。
そのためには、日本の成り立ち、日本らしさを知り、実効力ある支配体制を確立しなければならない。
だからこそ水戸藩でも(結果、一見武士支配に矛盾するような)『大日本史』の編纂が行われたのだと私は考える。

その春斎が選んだという「日本三景」には、だから必ず思想的意図があるはずだ。
と仮定してここでは考えてみる。
いまのところその意図は私に片鱗さえ見せてくれないが、鯉口くらいは切っておきたい。
というのも、もしそれが存在したなら、
お抱え儒学者の美意識には何ら関心興味は無いのだが、
江戸封建体制の秘密に迫る際の役に立つかもしれないからだ。







まず、景観や地形面ではどうだろう
日本三景には明らかな共通項が存在する。
島(砂嘴または砂州)が海に浮かんでいる(ように見える)地形であり、
松などの木々が茂っている風景、がそれだ。
またいずれにも大きな町はなく、高い山も見えず、しかし地形の起伏は十分にある。
内懐に抱かれたような海は静かで、小舟を浮かべて遊覧できる。

日本人の美意識がこのような景観を美の第一としていたなら、
確かに松島は幽玄で、天橋立は完璧で、厳島(宮島)は荘厳だ。
それらは円熟した目にはさらに美しく感じられたはずで、
年齢とともに魅力がわかってくるフランス印象派の絵のようだ。
ルノワールやモネもこの景色を描きたかろう。

しかしなぜ富士山のように孤高にそびえる、
あるいは阿蘇山のように激しく火を噴く美山ではなく、
万年雪をかぶって麗々と連なる槍穂高連峰ではなく、
人工美の極致とも言える姫路白鷺城でもなく、
聖らかな風格でたたずむ日向高千穂渓谷ではなく、
日本海を借景に凛とした能登の棚田ではないのだろう。

江戸時代には旅のための「ガイドブック」の発刊が流行したが、
春斎はただのガイドブック作者ではない。
同時代の日本人が好きな風景を替わって紹介しただけではなく、
春斎個人が好む風景を単純に選んだわけでもない。
彼は中国発祥の儒学者でありながら、徳川家の支配に役立つように、日本の美の典型、象徴的風景を選ぼうとしたはずだ。
この三カ所でなければならなかった理由がある、はずだ。







踏まえておかねばならないことがある。
それは、この三カ所の風光明媚さは、周知の通り、すでに江戸期よりはるか昔から日本人が愛していた、あるいは憧れていたということだ。
以下、そのほんの一端を紹介する。

天橋立
11世紀初頭の歌人、小式部内侍「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」
15世紀の禅僧画家雪舟は、「天橋立図」を描いた。→丹後歴史研究室のサイト

松島
12世紀の歌人、殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)「見せばやな松島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変わらず」
17世紀初頭の武人、伊達政宗は松島を愛で、月見のための観瀾亭(かんらんてい)を建てた。

厳島(宮島)
9世紀の歌人、在原業平「恩賀島(たぐいなきしま)の姿は自ずから蓬の山も此処にありけり」 
※恩賀(おんが)島とは厳島のこと
12世紀、厳島に寄せる平氏一門の信仰はことのほか篤く、日宋貿易の繁栄を祈願するねらいもあって現在の華麗な社殿が寄進された。


他にも三景は多数の歌に詠まれ、絵に描かれているだろう。
古来日本人が好む風景であったことは間違いない。
ただ、相変わらず疑問は残る。
日本人が好み、歌を詠み、絵をものにした風景は他にもたくさんあるから。





   鞆の浦 wikiGNU Free Documentation License,


その疑問への解答のヒントになるかもしれない事実を一つ掲載する。
江戸時代には、日本(幕府)と朝鮮は互いに鎖国下にありながら、日本は朝鮮からの通信使を12回も迎えていたことはよく知られている。

ただその施策の狙いをどう見るか、日本側からだけでも諸説ある。
豊臣政権による朝鮮出兵の反省からともいい、徳川氏がアジアの盟主であることの誇示ともいい、朝鮮の進んだ医学や芸術など海外文化を取り入れるためだともいうなど、現在はその政治的位置づけが次第に混沌と判りづらくなっている。
『通信使淀城下到着図』に描かれた鶏をめぐる他愛無い絵が物議をかもしたりしていることでわかる通り、今日の日韓間、日朝間の関係の陰影が歴史に向かって影響している現状があって胸が痛む。

話題が逸れたが、その通信使の内、1711年に訪れた従事官の李邦彦は、鞆の浦の福禅寺の客殿からの眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛し、
1748年には正使の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書を残している。
朝鮮通信使in鞆の浦

鞆の浦は日本三景ではないが、三景と同じように静かな内海に島が点在している美しい湾だ。
福禅寺からの眺望には特に定評があり、通信使の主な逗留先になっていた。

また、松島が月の名所であることが、中国にまで知られていた事実がある。
”松島の月は、14世紀には中国にも知られるほど著名で、元代の薩都拉がその著書『雁門集』において「雄島煙波松島月」と記している。(出典wikipedia)”

平氏政権下、厳島には宋人が逗留したとしても不思議は無い。(資料探究中)

天橋立を美しく描いた雪舟は中国渡航の経験がある。


最南部を除く朝鮮半島、あるいは中国大陸沿岸の上海以北では、日本列島に比較して海岸線が単調で、日本三景のようなきめこまやかな(言い換えればチマチマした)美観には乏しいと思われる。
中国や朝鮮で水墨画に好んで描かれるような風景は、山岳においては日本に求める必要は無いだろうが、内湾の一抱えにできる景観の美しさは日本列島が勝る。
そのような景色は、中国や朝鮮の禅僧、儒家のおおいに好む所だっただろう。

林春斎が、中国や朝鮮という儒学の祖といえる地域に比肩できるような<日本のかたち>を追求しなければならなかったとして、
その象徴としての日本の景観を三つ選ぼうとする時、彼の国々の人々の審美眼に十分耐え、賞賛の声が上がるような景観を選択したとすれば、十分に腑に落ちると思うのだが、どうだろう。





   水鳥が飛び立ちました


私は鯉口を切ることができただろうか。
それとも、敵の方向を見誤っているのだろうか。

  

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2011年09月17日

探偵はBARにいる


「探偵はBARにいる」

現在封切り中の映画ですから、なるべくネタバレしないように書きますが、
その分わかりにくい文章になっていますし、
完全に隠し切ることは不可能です。
ご了解を。







私、熱心に突っ込みたくなりましたよ。

総花的にエピソードが盛られていたので、全体の印象が平坦になってしまいましたね。
出演者を絞り、ストーリーも絞る必要がありましたね。
中国山地のようなうねうねと低い山が続く映画ではなく、
一点突破で富士山型を目指すべきでした。

具体的に申せば、
1)スポーツバーに関わるシーンはすべて不要です。
2)喫茶店のエロいねえさんは不要です。
3)スノーモービルのシーン、車をなだめるシーン、アクションシーンがそれぞれわずかに長過ぎます。
4)情報源は、新聞記者かヤクザかどちらか片方に絞るべきでした。
5)霧島と岩淵の<元左翼活動家>というキャリアは余分です。生かすなら、そのエピソードを作り込むべきでした。


私は原作を読んでいません。
原作ではきっとこれらが良い味付けになっているのでしょう。ふくらむのでしょう。
しかしこれは映画ですから、捨てねばならないものがあります。

逆に、不足していると感じたこともいくつかありました。
BARでの探偵業務が、謎の女性からの電話だけ、というのは不自然です。
特に、霧島敏夫の造形が物足りません。
映画の始まりのパーティーの場面で、カルメン・マキさんにもう少し語らせるなど工夫するか、あるいは別の回想シーンを用意してでも、彼の人となりや過去をもう少し掘り下げるべきでした。
そこには当然沙織との交流も描かれるでしょうから、映画全体の説得力が増すはずです。
聞き込みの断片と沙織の一瞬の表情だけで彼の人柄を積み上げる手法には無理があります。


この映画の筋立ては、ミステリとしてはすぐにネタバレしてしまいますし、地方都会の哀愁漂う物語としては上記の人物造形が中途半端なのでのめりこめません。
霧島と佐織の物語を軸にして、探偵が狂言回しになれば完成度が高くなったと思うのですが?
ただし、その場合、TVのサスペンスものに似通ったテイストになってしまうかもしれません。

監督の橋本一氏は、主にTV界で活躍されていた方のようです。
沢口靖子/村上弘明版の「御宿かわせみ」では、主役たちの演技力に頼らず(苦笑)、脇役の活躍や陰影が見事に描かれていました。平田満さん、藤田弓子さん、笹野高史さんら脇役が事実上の主役だったように思います。主役たちの役割は、舞台の用意と狂言回しですね。
「相棒」の一部も監督されていたようです。きっとそれなりに脇役(犯人)の人物像が造形されていたのでしょう。主役たちは、これを浮かび上がらせる下支えに徹していたのではありませんか。

このように、橋本監督に力はあるはずですが、その経歴のせいか、
今回の映画は、どこかTV的です。

探偵とその相棒がでしゃばり過ぎでした。
あるいは、
探偵とその相棒がでしゃばらなさ過ぎでした。
どちらかを選ぶべきでした。


とはいえ、ただの駄作なら、私、このブログには書きません。
大泉洋さんや松田龍平さんの両名の演じ方は大変魅力的でした。
このコンビは使えます。
大泉さん、はまり役です。
松田さん、いい味です。
二人のアクションには感服しました。
ただ、コンビの呼吸が面白過ぎて、大泉さん一人の場面では少し寂しくなってしまいます。
二人が狂言回しに徹するのは無理かもしれませんね。

小雪さんは、わたしの個人的な意識では美人ではなく、演技も上手だとは思いません。
しかしこの映画の役にぴたりとはまる華と存在感がある俳優は、他には思いつきません。
目の表情にずいぶん研鑽を積まれていますね、
結婚式の荒唐無稽さをはねのけるような表情も立派でした。

波岡一喜さん、松重豊さん、有薗芳記さん、そしてだれより高嶋政伸さん、
これらワキを固める人たちの演技はとても楽しめます。

見て損はないと思いますよ。
娯楽作品としてまずまずの出来です。
ちょっと冗長かなと感じつつ、随所にある遊び心も楽しめますし。

でも、構成、脚本、撮影、編集etc それぞれ今一歩なのが惜しいですね。
TV的な掘り下げ不足のために、作品全体が心を震わせてくれないのです。
総花的な人物の登場のさせ方が、作品の質を薄めるのです。


私、哀愁漂うハードボイルドな世界にのめり込むのが好きなものですから。


  
タグ :映画

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2011年09月13日

月を見上げてください







福島、宮城、岩手その他東日本の被災者の皆さん、

紀伊半島その他、台風12号のもたらした水害に遭われた皆さん、

それ以外の最近の天災・人災でとてもお困りの皆さん。







毎日毎日その日を過ごすだけでたいへんなことはよくわかっていますが、

今日は中秋の名月です。

晴れ間があったら、美しい月を眺めてください、どうぞ。

時には目と心を遠くに飛ばしてください。







十年以上前の震災のトラウマからまだ抜け出し切れていません。

あの頃近くを見過ぎました。

えらそうなことを書きましたが、それを免罪符にして、

皆さんにお願い申し上げました。
 
  

Posted by gadogadojp at 00:06Comments(0)TrackBack(0)できごと

2011年09月11日

中家住宅:雄渾と色気

中家住宅:江戸時代初期の民家の雄渾と色気

大阪府熊取町の煉瓦館隣に保存されている中家住宅は、江戸時代初期の建築。
安土桃山時代〜江戸初期の文化が色濃く持っていた雄渾(ゆうこん)さと、
そこはかとない色気を感じさせてくれる素晴らしい建築です。










広い土間には大勢の配下の百姓たちが集結したこともあったにちがいありません。この土間だけでも一見の価値があります。一段上がった板間もみごとに黒光りしています。















特筆すべきは、日頃のメンテナンス。ただ風を通して掃除をするだけではだめなことは、建築に疎い私でもわかります。人間の生気に満ちた息吹を受けておかないと、建物は命を失います。話は逸れますが、福島原発事故でやむなく放置されている民家群がその意味でも気がかりです。



















壁の色がいいでしょう。近くを通りかかった際には、ぜひしばし。


詳しくはこちらの熊取町のページにて。
  

Posted by gadogadojp at 22:50Comments(0)TrackBack(0)建築

2011年09月09日

「十二人の怒れる男」:優しい十二人の日本人には?






「十二人の怒れる男」
監督  シドニー・ルメット
主演  ヘンリー・フォンダ
製作年 1957年

映画館で一人で映画を見る時は、やや後ろの真ん中あたりに座ることが多いのだけど、この映画は最後列で見ることにした。
なぜなら、台詞が重要な劇だから、字幕と映像の双方をしっかり追うためには、スクリーンから離れていた方が楽だから。
(英語が聞き取れないからね)

シドニー・ルメット監督の作品のリストを眺めてみると、私が観た映画は
「十二人の怒れる男」「※質屋」「※オリエント急行殺人事件」「狼たちの午後」「ネットワーク」「評決」などざっと八本にのぼる。
(ただしスクリーンではたぶん※印の二本だけだ。)
他にも、見たいが見られていない映画が「セルピコ」「デストラップ」「ガルボトーク」の三本ある。
今まで意識していなかったけれど、実はルメットは私が何となく観たくなる映画を作る監督だったのだ。

それは彼がアメリカ映画のある種の王道を行く監督であることを意味する。
アメリカ的社会派、正義派の視点から描ける作品を選び、これを手堅い演出で無駄の少ない作品を几帳面に製作できる監督〜そんな印象が強い。
感情を無視せず、感情に訴え過ぎない。

わたしには1964年の「質屋」が特に忘れがたい。
ロッドスタイガーの演じる頑な質屋のユダヤ人主人は、ナチス収容所体験を引きずりながら拝金主義者として生きているが…
アメリカ社会の持つ或る負の断面のリアルな描写が心に残っている。
翌年1965年公開のライオネル・ロゴージン監督のドキュメンタリー「バワリー25時」とともに、
若い私のアメリカ像を形成してしまった。
バワリー街がスラムでなくなり、アートの香り漂う通りになった現在も、
アメリカ社会の歪みが消えてなくなったはずはない、と思う。

いけない、
ここは「十二人の怒れる男」の話題に戻らなくてはならない。







この作品は、米国の陪審制を通じて、アメリカ式市民意識、市民参加の意義と理想を謳った映画だと考える。
陪審制はそもそも英国由来の権力濫用防止制度だけれど、アメリカ建国にあたって移入され、<市民が作るアメリカ合衆国>という理念の下で再構成されたのだろう。
市民国家(日本風に言えば「国民主権」の精神)というタテマエを必死に具体化しようとしているというタテマエを崩さない国家社会の表現。
虚しいと思えば虚しいが、美しいと言えば美しい。
日本社会もかつてはこのアメリカの精神に憧れ、信じた時期もあった。

スラムで暮らすヒスパニック系?の少年の父親殺し容疑の有罪or無罪を評決することがこの十二人の市民的役割だ。
評決は必ず全員一致でなくてはならない、そこがこの制度の眼目の一つ。
おたがい名前も知らされず、偶然出会ったバラバラのアメリカ市民たちは、
自分の主体的判断をまず持たねばならず、それを以て他者の異論を説得せねばならず、他者の意見を冷静に聞き取って検討せねばならず、もしも自説の誤りを自覚すればこれを撤回せねばならない。
この陪審という制度こそがミニアメリカ合衆国なんだよ、
ここで市民としての責任ある評決を下して行くことが、つまるところ合衆国を支えることになるんだよ、
そういう国家社会の基本的理念の重要さを訴えている。

この美しいタテマエが現代まで維持されているから、
米国は<独裁国家><宗教国家>など一見言論の自由がなさそうに見える他国家を批判するパワーと正統性を保証されているのだ、
とアメリカは信じている。
つまりこれこそが、米国を地球史上最強の国家、警察国家として存在し得た心理面での秘密なのだ。
アメリカはオレたちが作っている国なんだ、おまえたちはあいつのいいなりか、と。

しかしもちろん、そのタテマエの維持は簡単ではなく、
主演ヘンリー・フォンダのような<一人でも大勢に異議を唱える>勇気を持つ人物が不可欠である、
欠かせない、
そんな人物が民主主義社会アメリカには必要なんだ

という描写をドラマの主軸、主題にしていくことで、
驚くべきことに、
この映画は激烈なアメリカ合衆国政府への批判的側面を輝かせ始めることの観客は気付く。
決してアメリカの現状万歳!のプロバガンダ映画ではないのだ。
<あいつの言いなりか>と非難する本人たちが<大勢の言いなり>になったり、野球の試合を気にして議論せずに評決を急ごうとしたり、自分と息子との断絶の悲しみと怒りを被告の少年に向けたりするのだから。

美しいタテマエの形骸化、個人主義化、
人種差別、移民差別、老人差別、
親子の価値観の断絶、
事大主義(大きな力に寄り添う)、
大勢順応や少数者軽視〜
アメリカ社会に巣食うこれらの病巣に鋭い批判をてんこ盛りにして向けている。
<君はたった一人で社会の風潮、多数派に対抗できるのか>と。

そしてきわめつけが、この映画の陪審員12名のメンバ−が、
貧富、WASPと移民の差こそあるが、
全員白人男性であるというところに、
この映画のトドメの批判が隠されている。

アメリカの陪審制はもともときわめて差別的な制度だったのだ。
女性が男性とまったく互角に陪審員に選ばれるようになったのは1975年。この映画が製作されてから実に18年も後である。
レディーファーストの<美学>は男女平等の具現ではない。
黒人やアジア系のアメリカ市民は、法制度もしくは検察・弁護団の意思によって陪審員から排除されていた。
(もちろんこれらはアメリカ社会全体の差別構造の投影であり、今日では表面的にはほぼ消え去ったという論調もある。でも私は疑っている。)


この作品の最大の魅力は、舞台劇としての完璧さ。
推定無罪に至る議論のプロセスは観客に一瞬の見逃しも許さない。
けれどそれに加えて、
同じ社会派のルメットとフォンダの思想と理想が作品に反映され、
アメリカ社会全体に対する鋭利な批判にもなっている。
このことが作品の厚みを俄然増していることを忘れるわけにはいかない。

二人は<たった二人で社会の風潮、多数派に対抗でき>たのだ。


  
タグ :映画シネマ

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2011年09月06日

紀伊半島の大水害



 和歌山県田辺市を流れる会津川の橋脚:2011.9.6



1)明治と平成の十津川水害(他のサイトから再掲載)

私の手元に『十津川水害と北海道移住』(古今書院)という書物があります。
明治22年の水害で流失した熊野本宮(今は旧社地となっている熊野川の中州にあった)を調べる資料として買っておいたものです。
必要な一部分を読んだだけだったのが悔やまれます。
なぜなら、今回の水害と良く似た原因と結果だからです。
知っていても私に何かできたとは思えませんが。

この年の八月十八日から十九日にかけて、やはり台風が四国沖にあったのです。今回の台風12号よりもさらに速度が遅く、二日間ほぼ停滞状態だったようです。台風の強さや規模はわかりません。けれどおそらく今回のように大型で、大量の水蒸気を紀伊半島にもたらしたのでしょう。

その二日間、十津川流域には1000ミリを超える雨が二日間で降ったと推定されています。(今日のような正確な雨量計がまだありません)
今回の水害はやはり十津川流域で1500ミリの雨が六日間で降ったと報道されていました。

今回の被害、被害者数はまだ未確定ですが、奈良県全域で現在死者4人、行方不明20人と、これも報道されています。おそらくその大部分は十津川村と隣の大塔村に集中しているのでしょう。(十津川の下流の熊野川/新宮川流域ではさらに大きな被害がでているようです。)
明治の水害では、大規模崩壊が1147カ所、死者249人、全壊/流失家屋565戸と
伝えられています。

数字だけで比較すれば、明治の水害の方がより甚大に見えますが、植生の変化、治水の状況など変数が多くて単純には比較できません。けれど人口は間違いなく明治時代の方が多かったと思われます。その後山村では過疎化が進んだこともその一因ですが、明治の水害後は641戸2667人の村民が、荒れ果てた故郷を離れ、北海道に移住したからでもあります。

移住した十津川村民は現在の滝川市付近に新十津川村を建設し、現在に至っています。今回の水害でも早速、新十津川から支援の動きが起こっていると聞きます。時代は移っても絆はまだ残っている、というべきでしょう。

けれどこの本は、このようなことも書いています。明治の水害の後には、十津川各地に「警戒碑」と呼ばれる石碑が建てられ、洪水被害が及んだ地点を示すと同時に、山崩れに対する警戒を呼びかけていたのだが、最近はこの石碑の紛失が頻発しているというのです。

思わず岩手、宮城、福島などの過去の津波の言い伝えや、また数百年後にその地に住む人への伝承のありかたなど、考え込んでしまいます。

十津川は、古代から歴史の裏舞台として非常に重要な役割を果たした地域です。中央を追われた貴人、武士、民衆はここに逃げ隠れ、或る者は土着し、或る者は捲土重来を果たしました。記紀神話のエピソードとして、大阪湾での戦いに敗れたカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が、この川沿いに奈良盆地へ突入をはかり、成功したと書かれているのは、熊野川/十津川とその流域の再生のエネルギーを示しているものと私は考えています。

吊り橋や名瀑、温泉など、観光地としてもきわめて優秀なこの地の早い復興を祈ってやみません。





随所に見かける山崩れ:2011.9.6秋津



2)田辺 2011.9.6

上記1)を書いたのが9月5日のにわか雨降る夜でした。
雨があがり、今日はみごとな晴天。
わたしはどうしても紀伊半島に行きたくなりました。

いまだ孤立を余儀なくされている方々は、少なく見ても数千人おられるでしょうが、
寸断された道路を進むことはできません。
ですから何の助けにもならないのですが、
被災地のそばに寄り添いたいわたしの性向はいかんともしがたく、
高速道路を走って田辺市まで行ってきました。

初めに向かったのは県道29号。奇絶峡を越えて龍神村へ向かう道です。
国道42号の秋津町交差点から右会津川沿いに上りました。
流水量はずいぶん減っていますが、まだ黄濁しています。
川が湾曲した右岸の堤防が破壊され、基礎部分が空洞になった家屋がありました。






川上神社を過ぎ、交差点から4.3kmの地点で通行止めになっていました。
この先、奇絶峡方向に何カ所も山崩れが起こっています、と年配の交通整理の方。
丁寧に「もうしわけありません」とおっしゃる。
「とんでもありません、心配になって来てみただけです。ご苦労様です。」と私。







県道29号左岸沿いの道を少し戻って橋を右岸へ渡り、県道35号に入り、蟇岩(ひきいわ)方向に走ってみました。
蟇岩と言う名の由来は、ヒキガエルが群れをなしているように見える岩山群であるからとか、或る一つの岩の形がヒキガエルにそっくりであるからとかの説があるようですが、私はまだ見たことがありません。
これを見るには徒歩で歩かなくてはなりませんが、この大雨のあとでは無理でしょう。
車道からは手前の岩山の影に隠れ、ヒキガエルは見えません。







県道29号は通行止めの表示がされていますが、崩れたのはまだ先のようなので、もう少し進んでみました。
随所に小さな落盤、落石があり、水が山から噴き出しています。
紀伊の山はまだ大量の水を含んでいることがわかります。







土砂崩れ現場近くまで行ってみましたが、目撃するには復旧工事の車列を越えなければなりません。
それは遠慮して元の県道29号に戻ります。
蟇岩近くの小さなグランドで、お年寄りたちがゲートボールをしていました。あくまで日常の生活に戻ろうという意思の強さを感じて何だかホッとしました。

その後は国道42号に戻ります。白浜方向への道に問題はなさそうです。
さらに進んで岩崎交差点から国道311号を山に向かって進んでみました。
311号はいわゆる中辺路(なかへじ)、湯峯温泉を経由して熊野本宮に向かう重要な街道の一つです。
鮎川新橋のあたりで引き返したのですが、どうやら311号はこの先鮎川、栗栖川、近露などで崩壊/通行止めの模様です。
仮に、もしも湯峯まで通じていたとしても、その先の熊野川沿いの国道168号は壊滅状態ですから、復旧はいつになるか見当もついていないでしょう。
この奥の村落は軒並み孤立しています。
写真は付近の富田川の様子です。水の色はやや透明感を戻しています。






近くではお年寄り夫婦が稲刈りを初めておられました。
ここでも日常への復帰への切実なたくましさを感じました。






そろそろ帰宅せねばなりません。
昼食後、印南(いなみ)まで国道42号を通り、海の様子を確かめながら戻りました。
港は台風自体の被害は無かった模様です。港名に自信がありませんが、堺漁港ではないかと思います。






海の色は、河口付近では沖に向かって黄色く染まっていますが、
それ以外の場所ではかなり青さを取り戻していました。
なお、写真の線路は紀勢線です。那智勝浦、新宮付近で甚大なダメージを受け、当分白浜より東側は特急の運休が続くはずです。
(各駅停車はぎりぎりの駅まで運行し、バスでつないでいくでしょう)





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Posted by gadogadojp at 22:05Comments(0)TrackBack(0)できごと

2011年08月25日

日曜のウブドはジャヤ・スワラ










バリ事情に詳しい方はご存知の通り、
バリの芸術、芸能のセンター的な位置にある街はウブッ(ウブド)です。
しかしウブッは内陸ですから海はありません。

というわけで、
バリを海辺のリゾートととらえる旅行者はジンバラン、クタなど南部のホテルに宿泊し、
バリを芸能の島と期待する旅行者はウブッ周辺に泊まることになります。

ならば当然の帰結として、ウブッに宿泊する旅行者は、滞在中に一度は伝統的なバリ舞踊や音楽を鑑賞したいと考え、夜になって出かけることになります。
芸能は主に夜19:30頃からスタートする場合が多いからです。
ウブッの町やその周辺には、そんな旅行者の受け皿になる芸能が、毎日必ずどこかで開かれています。
その情報は、ガイドブックにも書かれていますし、ホテルや現地の案内所でもわかります。
ただ、それらの芸能の内容はそれぞれ違いますし、
同じ曜日に何カ所もの選択肢があることが多いので、
好みのものを選んでいかれることが必要です。

ただ、ウブッの町中の宿に宿泊していて、わざわざ車をチャーターしてでかけるのは億劫だ、と考える方は、ウブッの町中で見られる演目を選べば良いので、選択肢は絞られます。
私はそのすべてを鑑賞したわけではありませんので、比較批評はできませんが、
推薦の目安を書いておきます。






もしも滞在期間の中に金曜日があり、
あなたがバリ芸能初心者であれば、
ためらいなく、Puri Saren(ウブド王宮)で行われるサダ・ブダヤ舞踊団の公演をお薦めします。
バロンやランダが登場しますので、バリ芸能入門編として最適だと私は考えます。
この舞踊団については二年前の記事に詳しく書きました。

Puri Saren(ウブド王宮)は、ウブド市場の(大通りをはさんで)向かいにあります。

次に、もしも滞在期間の中に日曜日があり、
やはりあなたがバリ芸能にそれほど精通されていないなら、
そして舞踊や民族的音楽に興味をお持ちなら、
同じくPuri Sarenで行われるジャヤ・スワラ舞踏団の公演をお薦めします。
このグループは上記サダ・ブダヤから派生した比較的若手のメンバーが、
少しばかり斬新に、少しばかりキャッチーに、少しばかりキレを増した舞踊を見せてくれるからです。
ただし、より観光客向きなバロンやランダは登場しません。

今回は、この「ジャヤ・スワラ」の写真を何枚か掲載しておきます。
下手で間違いだらけになるだろう解説/説明は省いておきます。
写真にビッときたら日曜夜はジャヤ・スワラ Jaya Swara
ま、そんなところで勘弁を。

ダンスでは、身のこなし(身体のカーブ、姿勢)、目、指先、足先などに注目されると、楽しみが深まります。
ガムラン音楽では、まずは総合的に楽しんでください。チームワークに注目です。続いてそれぞれの楽器が放つ音、リズムの区別がぼんやりわかるようになるでしょう。

















なお、今回(8月初旬)の公演では、行事の準備のため王宮が使えず、向かいの集会所で行われたのが少々残念でした。
照明を活用した奥行きのある演出ができなかったからです。
当日が雨天ならやはり同じことになるでしょう。

ただ、だからといって、つまらないわけではありません。

神秘主義者と思われたら困るのですが、
バリの舞踊には、目には見えない<観客>の気配がつきものです。
この夜も、集会場の天井のあたりに、
楽しげに飛び回る<観客>がいるように感じましたから、
きっとグループの気合いは本気です。



  

Posted by gadogadojp at 18:30Comments(0)TrackBack(0)音楽・舞踊

2011年08月15日

ワヤンクリッの世界






バリ島で
影絵芝居<ワヤンクリッ wayang kulit>を見たい場合、
ウブドのクルタホテル(サッカー場の南西角の斜め向かい)で毎週火曜、木曜日の20時に始まる公演に参加してはどうでしょう。
※「ミナミ・クルタ(Minami Kerta)」:「ピテカントロプス」の向かいです。

バリのオダラン(寺院祭祀)で奉納される、あるいはジャワの農村で夜を徹して公演される本来の姿ではなく、一時間ほどの観光用のダイジェスト版ですが、
電灯を使わず、おそらく椰子油を燃やして照明にしていますので、
昔ながらの灯りのゆらめきがなんとも幻想的で心地良いものです。
伴奏楽器グンデル・ワヤンの演奏者は日によって変わるようですが、
人形師はマデ・グンデルさんという、舞踊でも著名な方です。

わたしはずいぶん以前に、ジャワ島の村でワヤン・クリッと出会ってからは、
その残像がいつも脳裏に浮かんで、わたしの一部になっています。
(詳細は過去の記事「ワヤンクリッでバナナは如何に活躍するか」に書いています。)

同じバリでオカ・カルティニというホテルの公演もその後見物しましたが、
こちらはあまり印象が残っていません。(現在も公演継続中です。)
ジャワの印象がまだ強すぎる時期だったせいかもしれません。

今回、妻の希望もあって、久しぶりにワヤン・クリッと再会し、
観光客ばかりの中で鑑賞しましたが、
日本語版の簡単な筋書きが配布されたおかげで、
登場人物の<役割分担>を多少とも理解して楽しく時間を過ごすことができました。

観光用のワヤン・クリッなので、英語、そして時折日本語を交えて受けを狙います。
それは確かにローカル色を削ぎます。
ただ、旅芸人が語るジャワ島でも、(わたしには理解不能ですが)ジャワ語でさかんにギャグや時事ネタを飛ばしていた様子で、観客からは爆笑がおこっていたのですから、芸としての本質からはこのサービス精神を認めなくてはなりますまい。
ただし、いまさらモニカ・ルインスキーでもなかろうと思いますが(笑)

ずいぶん値上がりしたようで、公演を見るには10万ルピア(約900円)必要です。
40〜50分ほど前にホテルに着いたので、私たちは一番乗り。
影絵が写るスクリーンの真ん前に陣取ることができました。

暇なのでスクリーンの裏手、まだ無人の舞台裏をのぞいてみますと、
人形はバナナの幹ではなく、丸太に穿たれた穴に差し込むようになっていて、
これにはちょっと落胆しました。
人形を差し込む際にほとばしるバナナの樹液の青臭い匂いが、
まだわたしの記憶に印象深く残っていますので。




 聖なる山、自然の象徴カヨマン:各幕の始まりに現れます



影絵芝居のタイトルは「ルワ・ビネダの物語」
ルワ・ビネダという語句はヒンドゥーの概念<均衡、相互依存のニ元性>を表す言葉です。
インドやバリ旅行者にはおなじみの、たとえば<善>と<悪>の共存とバランスが大切だとする考え方ですから、
ヒンドゥー教徒にとっては最重要な世界観になります。
バリの家屋や寺院の割れ門さえ、その考えを表現しているのは良く知られていますね。
ただ、
方や+、方や−を表現して均衡を保ってそれで終わり、とはとらえられておらず、
1)+−の均衡の緊張感の中から真の存在が生まれる
2)それでも時に均衡が破れることがあり、災厄がおこる
など、ダイナミック(動的)な概念も包含しているようにわたしは理解しています。

一見すると、日本人好み(と言われる)の勧善懲悪とは対極にある考え方のように見えますが、
なに、日本人もそれほど単純ではないことは、
ヤッターマンがついにドロンジョたちを殲滅し得ないことでわかります。
TV時代劇「水戸黄門」の終焉は、
日本人の体制批判の衰えを示す、という論調を二三見かけましたが、
水戸黄門だって体制側の親玉の身内。
現代の日本人が、大偽善者によるシンプルな勧善懲小悪をいつまでも支持するはずがないのです。

とはいえ、ヒンドゥーの<悪>はドロンジョたちよりも強力で、
時には<善>を凌駕することもあるわけですから、
やはり両者のバランス感覚がまったく同じとは言えません。


クルタ・ホテルのワヤン・クリットは、このルワ・ビネダの概念が貫く様々なストーリーのうち、
パンダワー一族<善>によるバランス回復の儀式の準備から物語が始まります。

<善>による調和(グンデルさんはharmonyと呼んでいます)が行われると、
これは<悪>にとっては脅威となるわけです。
そこでこれを聞いた<悪>側のドゥリャダナは、この儀式を妨害しようとします。そのために、やはり<悪>側のドゥルガ(バリでは魔女の側面を持つ女神)に支援を求めます。その妨害の尖兵の巨人一族は、調和の儀式の準備中のパンダワーへ攻撃を開始します。

パンダワー<善>側は、巨人<悪>の激しい攻撃に立ち向かいます。一本の矢で多数の巨人を射ち抜くアルジャナの活躍は、影絵ならではの躍動感に溢れ、最大の見せ場の一つです。
個人的には、<悪>側の一員でいつも逆さまの身体で登場するブタ・スンサン(さかさまクン)の登場を待ちこがれています(笑)



 さかさまクンを見つけてください。 


争いは激しさを増し、ついにことは現実の人間の争いにとどまらなくなります。
<善>側の神クレスナ(クリシュナ、ヴィシュヌ神の化身)がパンダワーに加勢して戦います。
戦う相手は<悪>側のドゥルガ神です。前述のこのドゥルガ神は、バリでは有名なランダ神と同一視されます。チャロナランというこれまた知られた未亡人魔女のより高位な化身という説明も(別の資料に)ありましたが、このあたりの微妙さはわたしには難しい部分です。
この両者の戦いは、さらに天上世界を巻き込みます。

破壊と死を司るシワ(シヴァ)神が出現した後、
ついに最高権威の神サンヒャン・アチンティャが登場します。
アチンティャとはウィディ・アソと同じ神でしょうか、わたしにはよくわからないのですが、影絵人形の姿は太陽と自然を表しているように映ります。
このサンヒャン・アチンティャが、先述のルワ・ビネダの概念を説き授け、争いはついに終わりを迎えます。
善悪は再び均衡を取り戻すのです。








以上、ホテルで配られたチラシにわたしが少々補足を加えた演目の説明でした。
皆さんがここでワヤン・クリッをご覧になるときの参考になれば幸いです。

これは宗教的な神話ストーリーであることに違いはありませんが、
同時に一種の教訓話になっています。

バリの様々な伝統芸能、神への奉納劇にはこの世界観が一貫して流れていますから、
子供たちも幼い時から人間以外の世界にも慣れ親しみ、
一方に偏らないものの見方や、
災厄への処しかたなど学んで育ちます。

もっとも、
「舌きりスズメ」の童話を聞かされて育った私たちの世代の日本人も、
しばしば胴欲で身を滅ぼすのですから、
バリの子供たちもすっかり「ルワ・ビネダの子」とはいかないことは同じです。




  終演後、写真撮影が許されます。


締めくくりにもならない蛇足を、備忘録として書かせていただきます。
それは、バリのワヤン・クリッとジャワ島のそれとは同じなのか違うのかと言う疑問です。

ご承知の通り、ジャワの主たる宗教は一神教イスラム、バリは多神教ヒンドゥーです。
もとはどちらの地域も、土着的でプリミティブな自然/精霊崇拝の土壌があり、その上に仏教が広がり、さらにヒンドゥー教が伝わった、そこまでは同じです。
インドネシアはたいへん多層的な精神文化を育んだ地域である、ということです。

ところがその後ジャワにはイスラム教が広がり、
その勢力はバリ島まで侵そうとしましたが、バリはこれを撃退したので、
現在もバリニーズの大部分はヒンドゥーの教えを守って暮らしています。
(ただし、島のいたるところで仏陀の石像を見かけるなど、多神教の包含力をフルに発揮していますが)

さて、ワヤン・クリッの物語の原型は外来の『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』であることは間違いありません。
これらいわば古代インドの大河小説は、ヒンドゥー文化の一環として流布したはずですから、
ヒンドゥーがまだ命を持つバリではオダラン(寺院祭祀)に奉納する形の上演が行われています。
ヒンドゥーが表面的には捨て去られたジャワでは、
宗教と切り離されて、芸能として村々で楽しまれています。
ここまでは推理できるのです。

ではジャワでは内容が変化しているのでしょうか。
たとえば、いかにも一神教らしく(偏見ですが)勧善懲悪の物語に変化してしまっているのでしょうか。
それとも、これはこれとして、やはり二元性の世界の均衡の大切さを説いているのでしょうか。

このあたりが知りたくなりました。
いつか勉強したいとおもいますが、
拙文を読まれた方でアドバイスがあれば、ぜひよろしくお願いします。





 ホテルの入り口にこの看板が立ち、受付の机が設置されたら入場できます。わたしたちは前日に(このホテルで)入場券を買いましたが、特に座席予約をするわけではありませんので、当日早めに来られたら良いのではないかと思います。




  

Posted by gadogadojp at 18:30Comments(0)TrackBack(0)演劇・舞踏

2011年08月14日

「豊饒をもたらす響き 銅鐸」展:銅鐸について



当日用意された子供のためのワークブック表紙。同じ絵が特別展正面に展示されているのですが…



大阪府立弥生文化博物館の特別展
「豊饒をもたらす響き 銅鐸」を観覧してきました。

しばらく銅鐸(どうたく=鐸とは中国語で鐘のこと)の勉強から遠ざかっていたわたしには、近年の発掘と研究の成果とを一覧できる企画でしたので、なかなか刺激的でした。
これを良いきっかけとして、以下、少々銅鐸という謎の多い青銅器について私見を述べたいと思います。

などとあいさつのように書いてみましたが、
まずこの特別展に対する苦情をひとこと述べるところから始めます。
なんだか権威主義の匂いを感じましたよ、弥生文化博物館さん。
展示が素人向きではないのです。

この特別展の期間は7月16日から9月11日までとなっています。
まさに夏休みに照準を合わせたかのような企画です。
現に、小学生から高校生までの子供たちが、
わたしの観覧中にも十数人が入室し、熱心にメモをとる様子も見受けられました。
でもきっと、子供たちには理解困難だったはずです。
説明書きが専門用語満載で混乱し、説明のポイントがうまくつかめないでしょう。

子供たちに興味をもってもらい、理解へと進んでもらうためには、
銅鐸研究が解明したことの説明以上に、
銅鐸には未解明の「謎」が多いことをまず一目瞭然に示すことが必要なはずです。
そんな謎の例をあげます。

弥生時代に突然出現したこの(のちに銅鐸と呼ばれる)道具は、
弥生時代の終わりとともに突然姿を消し、使われなくなる、ということ。
数百年のちの日本人は、その存在すら忘れてしまっていたということ。

出土される地域に偏りがあるということ。
以前よりも発見範囲が拡大し、いわゆる「銅鐸文化圏」説は捨てられつつあるようですが、
それでも出雲、阿波、紀伊、近江、摂津など発見が多い地域と、
九州や関東など発見が少ない地域との偏りははっきりしていること。
(その発見例のうち、近畿とその周縁のものを中心にした展示であるという明確な説明も必要)

用途が未解明であるということ。
入口正面には、なかなかキャッチーで刺激的な想像図(漫画)が書かれていて、これは(疑問点はあるものの)よかったのですが、
まるでこの絵を隠すかのように銅鐸が展示され、子供たちの興味をそぎます。
展示会のタイトルにもあったように、もとは「豊かな自然の恵み」を神に祈るための祭具=楽器であることを示す目的で企画されたのでしょうが、
コーナーごと、展示物ごとの説明がその目標を説明する文になっていません。
専門的な銅鐸の形状変化を子供たちが学んで楽しいでしょうか。

銅鐸の多くは、故意に土の中に埋められた状態で発見されること。
その地点は、近年は遺跡=つまり弥生人の日常生活の場=での発見も見られますが、多くは丘陵地などの住居跡や水田跡から離れた場所に偏っていること。
他には同様な埋められ方をした道具は見つかっていないこと。
その埋め方にも(横倒しでヒレを上下にするなど)一定の方法論が見られること。

出土した地味な色の銅鐸が本来の色ではなく、
錫の含有量などにもよりますが、たとえば黄金色に輝いていたと思われること。

青銅器製作には高度な技術が必要なため、
近畿では河内地方の製作集団が製造した銅鐸が流布して使用されていたと思われること。

流水紋と呼ばれる模様や、
鹿や鳥など動物のようす、人々の生活の様子などが描かれた絵が描かれていること。


これらの「謎」を総合して推理すると、
弥生時代だけに、一定地域だけに、
豊かな実り=食生活を祈るため、
人々は限られた専門家が作ったこの銅鐸と言う輝く楽器を求め、
特別な道具として扱い、
一度は地表上で使用し(または繰り返し使用し)、
その後地中の特別な場所に丁寧に埋め(または繰り返し埋め)、
弥生時代が終わるとともに、その理由はわからないが、人々はその習慣(または信仰)を急速に失ってしまった



という推定結論が必然的に導かれるはずなのですが、
その道筋が明確に示されていないのです。
入り口に見えにくく展示されている絵だけでそれを把握しろ、というのは子供たちには酷でしょう。


誤解があればいけませんので、補足しておきますと、
上記の「謎」のほとんどに関しては、展示の中で触れられているのです。
合計分量としては充実した展示内容になっています。
ですから、わたしのこの文を読んで、
学校の宿題の参考にしてくれてもだいじょうぶです、子供たち。(笑)
ただ、このような小さな展示会を、
しかも夏休期間に企画するならば、
もっとわかりやすくおもしろい企画の方法があるでしょう?と申し上げているのです。

上記のような基本的な道筋を工夫して示した上で、
時代による銅鐸の変化という枝葉を見せるべきですね。

たとえば、佐原真氏による銅鐸の吊り手の厚みや形状に時代的推移が見られる、というテーゼは、
銅鐸考古学研究史上きわめて重要な発見ですが、
それを詳しく説明することよりももっと大切な博物館の使命は、
その研究成果に立脚して、
吊り手が薄くなっていくことにつれて楽器でなくなっていったのはなぜか、
なぜ楽器でなくなっても良かったのか、
という推理を子供たちが自由にできるようにしていく条件整備です。
そういうことです。







注文が長くなりました、
続いてわたし自身の銅鐸の謎に向かうアタックを開始します。
良い子はここから先は(読むのはいいけど)真似しちゃだめだよ。
おっちゃんの好き放題のアイデアばかりだからね。

高校生の頃でしたか、わたしには銅鐸との鮮烈な出会いがありました。
阪神間のある美術館に、母に誘われて「銅鐸展」を見に行ったのですが、
その会場には銅鐸を鳴らした音が時折流されていたのです。
楽器であったことにも衝撃を受けたのですが、
かぼそく、しかし良く通る「こーーん」という妙なる音は、
今もわたしの耳に残っています。
弥生びとが、この音を聴いていたのだと気がついたとたん、
わたしはたちまちタイムスリップしてしまったのでした。

その後、大羽弘道さんの『銅鐸の謎』という書物に出会いました。
弥生時代の遺物であるはずの銅鐸に描かれた絵が、(数百年後の)蘇我一族が大王位についていたことを表していたという、
ある意味トンデモ本のような内容が書かれていたので、
もちろん学会からは完全に黙殺されたのですが、
銅鐸の絵は実は絵文字だったのではないかという彼の仮説は衝撃的なパワーをもってわたしをとらえました。

今回、この「豊饒をもたらす響き 銅鐸」展では音は再現されておらず、絵について大胆な仮説は提供されないのですが、
三度目のショックがわたしを襲いました。
それは、なぜいままで気付かなかったのだろう、という初歩的な見落としです。

銅鐸の身に描かれた流水紋のことです。
まるで水の流れのように見えるのでこの名がついたのですが、
この図柄はそのものズバリ、豊かな水を示しているのではありませんか?

そう思いついたきっかけは、
展示45号「大阪府下田遺跡/扁平紐式新段階 4区袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸」でした。
やや時代が下る、粗製で小型な銅鐸です。(流水紋の有無は確認できません。)
下の写真は当日購入した図録を写真撮影したものです。出土状況の写真です。
田の水路脇のわずかに小高い部分に埋められている状態だそうです。
赤銅色に輝いた状態を保って発見されました。
新品の10円玉と同じ色、という説明が秀逸でした。






これを見たわたしは、つい数日前まで旅していたインドネシアバリ島の田園風景を思い出しました。
そこでは、田を所有するファミリーごとに一基、石製のほこらを建て、水を守らせているというガイドさんの説明がありました。
確かに、それらの田に水が引かれている最初の地点近くのわずかに小高い場所にそれぞれほこらは建っています。
下に、わたしが撮影した写真を掲載します。写真の腕がわるいのですが、このほこらが守っている田は、写真にはほとんど写っていない、左側の一段低い位置の田になります。





別の地域の田の写真ですが、この方がわかりやすいかもしれません。




地表、地中の違いはありますが、
下田遺跡の銅鐸は、バリと同じ目的でまつられ埋められたのではないでしょうか。
一言で言えば、水のカミをまつる祭具として使われたのでしょう。
それならば、銅鐸表面にふつうに見られる流水紋は、文字通り豊かな水(水利)を表していたのでしょう
バリの神様が教えてくれた、とそんな気がふとしました。

とはいえ、銅鐸は農耕祭祀である、とひらめいたわけではありません。
すべての銅鐸が水のカミをまつる道具であったと言い切るわけにはいきません。
先述のように、遺跡で見つかる例は稀であり、
多くは山腹や丘陵の斜面、谷奥などに埋められているからです。

また、銅鐸の表面に描かれた絵は、すべて稲作農耕に直結したものばかりではありません。
高床倉庫や脱穀をする人などの絵は、いかにも弥生の農村を想起させますが、
鹿やカマキリ、大型の鳥の絵がよく描かれていますし、
イノシシを狩る様子やヒトが争う様子、舟に乗る様子など、狩猟採集民族の絵としても通用する図柄もたくさんあります。




前掲の図録より


また、流水紋と同様、銅鐸の身にふつうに描かれている鋸葉紋(きょしもん)は、
樹木を示すかのような三角形の図案の連続です。
これは森を示しているようにわたしには見えます。



例証とその探究がまだまだ不十分であることはわかっていますが、
学術論文ではないこの文のレベルでは、
これらの証拠から、一定の結論を引き出す飛躍を許して頂きましょう。
わたしの、現時点での、<銅鐸の用途>としての結論は以下のようになります。


まさにこの特別展のタイトルが示すように、銅鐸祭祀の狙いは「豊饒」でした。
ただし、決して農村(水田)からの恵みのみを示しているわけではありません。
むしろ山と森の豊かさを願ってまつられました。
なぜなら、水も獣も鳥も山から湧いて生まれるからです。
近畿周辺の弥生集落は、たとえば河内や和泉のそれが顕著に示すように、稲作だけに頼って営まれてはおらず、
多分に縄文式(と我々が感じてしまう)の狩猟採集が併存して営まれていたからです。

そこで彼らは、森の豊かさを祈り、
森の中心地にこの銅鐸を埋置したのです。
年に一度は掘り返し、
ムラの人々の祈念を浴びせ込める儀式を済ませた上で、
再び地中に埋めたのではないかと、わたしは考えています。

稲作農耕に多く依存して暮らす地域では、銅鐸の価値が、
つまり豊かな森を祈る必要が相対的に低かったので、
銅鐸をまつる習慣は続かなかったのではないでしょうか。

ところが弥生時代の進行につれ、その近畿周辺の森の開発が進み、
材木の供給地と化していき、
ムラの水田耕作への依存度が高まるようになると、
近畿周辺のムラにおいても、次第に銅鐸の重要性が減っていきました。
銅鐸をまつる一要因であった<水>だけを特化させていくようになり、
バリ島のそれのように、
一時は水田の水利を守るために埋置されたのですが、
ムラでは農村共同体として統一された他の祭祀が生まれ、
銅鐸は本来の目的を失って行き、
埋まられたまま忘れ去られていったのではないでしょうか。



ここでは楽器としての役割について言及できませんでした。
(わたしは揺すって鳴らしたのでもなく、叩いて鳴らしたのでもないと考えています。)
銅鐸をくりかえし埋め戻したのだろうとする根拠を示す暇もありません。
銅鐸を生産していた工人たちの正体についても書きたいところです。

ただ、今、わたしが強調したいのは、
現在の歴史学は、銅鐸の表面の模様や図柄の意味をやや軽視しているのではないかということ、
同じような飾りは土器にもよく見受けられます。
その行為の真の意味を理解するためには、
考古学よりむしろ民族学、民俗学的なアプローチが必要ではないかと考えていること、でした。
以上です。


  

Posted by gadogadojp at 20:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2011年08月13日

沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件から7年



wikiより


戦争に関わる<記念>日が多い8月ですが、
7年前の13日にはこんなこともありました。

墜落した普天間基地の大型ヘリCH53Dは、
放射性物質ストロンチウム90を(小容器6ヶ分)搭載していました。
米軍は日本人をシャットアウトし、
機体の残骸と一部の土壌まで回収してしまいました。
(以上4行はwikiに依拠しますが、他の報道や研究からも、ほぼ同様の結論になっているようです。しかし米軍が開示しない限り真実はわからないままです。)

国際大学1号館の焦げた壁は保存されず、
1号館も取り壊され、
昨年末に初めてこの大学を訪れたわたしは、
何の痕跡も無いことに驚きました。
これは、大学側が、
被害者意識を強調したくないという配慮からの行為だったと聞いています。


偶然死傷者が出なかったこういう出来事が、
啓示としても警告としても、
現在に至るまで効力を発揮できなかったということは、
基地問題を解決するためには、
沖縄人のさらなる流血を必要としていると言うのでしょうか、
我が日本国は。
我が日本人は。

沖縄経済が米軍関連事業や予算に依拠する比率は、
戦後に比べてはるかに低くなりました。

たとえ沖縄県民の一部が反対しても、
わたしは沖縄から米軍基地を撤去すべきだと考えています。
くどいと思われようと、
これからも機会あるごとにメッセージを発していきます。





  

Posted by gadogadojp at 23:12Comments(0)TrackBack(0)できごと

2011年08月11日

「太陽がいっぱい」:死んだ魚の


「太陽がいっぱい」


「午前十時の映画祭」のおかげで、かつての名作映画をスクリーンで鑑賞できるのは嬉しいことです。
このルネ・クレマンの「太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL)」も今度が初スクリーンでした。
1960年製作のこの作品は、その後何度もTVで放送されましたので、若い頃に数回観ています。
しかしそれは(我が家が)白黒TVの時代だったのです!
今回スクリーンを前にして、今更ながら、カラー映画であることが確認できた次第です。

白黒(と呼ぶところが古いのですが)映像でも、この映画の主要な魅力を感じ取るのに不自由はありませんでした。
それどころか、アラン・ドロンの屈折と野望に充ちた表情は、白黒の方が勝って受けとめられたかもしれません。
けれど今回、ストーリーとは離れた部分で大きな発見があったのですが、
それはカラーゆえ気がついたことのように思います。

少し話題は逸れますが、
映画「ゴッドファーザー」をご覧になった方なら、
殺し屋ルカが酒場で逆に殺された後、
ルカが着用していた防弾チョッキに死んだ魚がくるまれてコルレオーネ家に届けられ、
これによりコルレオーネファミリーは、
ルカが既に殺され、海に沈められたことがわかるシーンを記憶しておられるでしょう。

このシチリアの作法は、
地中海一帯に普遍的なイメージだったのでしょうか。
死んだ魚は海に沈んだ人間を想起させるのでしょうか。

「太陽がいっぱい」の中で、
リプリーが海辺の町の市場を徘徊するシーンがあります。
わたしはあのシーンはリプリーの漠たる心の不安を示しているのだと解釈しましたが、
フランス映画にありがちな、雰囲気重視で冗長な場面だと感じていたのです。

ところがカラーで観ると、
様々な色が溢れる市場の中で、
モノトーンの死んだ魚のアップだけが際立ってわたしの目に飛び込んでくるのです。
地面に落とされた巨大魚の頭の部分の映像など特に。

また、リプリーがマルジェたちと食事をとることになった際、
ウエイターが魚料理を間違えて運んで来るシーンがあります。
皿の上の大きな魚は切り身ではなく<尾頭付き>です。

死んだ魚を強調するこれらの、一見余分なシーンは、
リプリーの心の不安を示すのに非常に効果的なだけではなく、
有名なラストシーンをも暗示する監督の悪戯を兼ねた伏線のように思いました。
意地悪抜きでフランス映画は語れませんからね。








「トラヴィス・ビックルはオレだ」
と1970年代の鬱屈して孤独な青年たちは感じましたが、
「トム・リプレーはオレだ」
とは1960年代の同様の若者の共通の想いだったのでしょうか。

しかし、モヒカンヘアにすることすら容易でないのに、
アラン・ドロンのあの目を真似することは不可能に近いことだったでしょう。





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Posted by gadogadojp at 01:34Comments(0)TrackBack(0)映画

2011年07月28日

「大鹿村騒動記」:僕たちは不良だ

立て続けに映画を三本鑑賞しました。
それぞれの印象を短く記事にしておきたいと思います。

まずは、原田芳雄さん出演の映画としては遺作となった「大鹿村騒動記」です。
原田さんの主演作はこれまで私には縁がなく、これがどうやら初めての作品です。
監督は阪本順治さん。私にとっては「闇の子供たち」以来の彼の作品です。

「仇も恨も是まで是まで」
(あだもうらみもこれまでこれまで)
村歌舞伎のこの台詞は、この映画の登場人物の決意だけでなく、私たちにはとても馴染みのある人生の「標語」ですよね。
この台詞が劇中でもよく生きていた作品でした。
仇や恨を消し去る為にはハレの日が必要なのだ、というのは忘れてはならない真理です。
祭りも村歌舞伎も、だからこそ今日まで命を保っているのです。
でもここでは、少し違う観点で書いていきます。







この映画は、
これが原田さんの遺作になるかも知れないと言う思いで製作されたのでしょう。
製作期間がわずか二週間だったそうです。
この短さが、よくも悪くもこの作品の性格を規定したようです。

舞台の背景となる長野県大鹿村での撮影は11月に行われました。
映画は、実際にこの大鹿村で村民の力で行われている歌舞伎公演に向かって進行します。
原田さんたち主要な出演者は、この歌舞伎に関わる人々という設定です。
大鹿村のHPによれば、大鹿歌舞伎の公演は5月と10月。
たとえば南アルプスに残雪が残る5月公演の終了時のエピソードあたりから映画をスタートさせれば、
美しい大鹿村の風景の変化を背景に取り込むことができ、
人間関係の描き方も深くなり、
良い意味での大作映画になったでしょう。
それほどこの映画の素材と出演者には魅力があるのです。

しかしそれはかないませんでした。
急いで製作しなければならないということは、歌舞伎公演直前に起こったドタバタ騒動を描くしかないということです。
つまり娯楽レベルでのコメディとして脚本を書くしかなかったことになります。

その準備期間が短かったことから起こった不満を具体的に1,2挙げます。
たとえば佐藤浩市の松たか子への想いの描写は、
たった一つの回想シーンでも追加されていれば、説得力がズンと深まったでしょう。
あるいは三国連太郎のシベリア抑留体験が、今の彼の行動に影を落としているような描写がわずかでもあれば、
この映画は観客の心が揺さぶられる重層的な本格コメディになり得たでしょう。
存在感のあるホンモノの役者を使う限り、
制作者側はそこまで配慮する義務があるのです。

しかしそれは不可能でした。
おそらく原田芳雄さんの体調が許す短い期間にやり遂げなければならなかったのでしょう。
出演者たちも半ばそれを知りつつ、スケジュールを強引に調整して結集したと思われます。

ところがそのことが逆に、
この映画の魅力を生み出したとも言えます。
一人一人の役者の今しかない想いの渾身の演技の光芒が、
原田芳雄、岸部一徳、大楠道代という主要な三人の俳優のまわりを飛び回って包むような、
こじんまりしながらも密度の高い佳作を生みました。
これは、
合宿のような撮影現場が醸し出したとも言え、
大鹿村の風土と村民の力とも言えそうです。







褒め言葉を具体的に書くには映画の筋の本流に触れなければなりません。
「仇も恨も是まで是まで」という肝心の台詞に向き合って書かないのも、封切り公開中の映画のネタばれになる記述はなるべく控えたいからです。

そこで最後に、
ずらり並んだ脇役たちの演技だけでなく、
原田さんの内向的な不良性、
岸部さんの外交的な不良性、
この二人の不良性がからみあうナマナマしくも飄々としたシーンを観るだけでも一見の価値があるということと、
この二人をはじめとする俳優たちの姿は、
日本のフツーの村のフツーの人々のフツーの可笑しさ、不良性に見事に立脚しているということを指摘して、
今回のブログの筆をおくことにします。

はは、
ニッポン人は不良です。
素敵じゃないですか。









  
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Posted by gadogadojp at 20:30Comments(0)TrackBack(0)映画